「母さん」
それだけ言ってまるで岩壁のような、男梅の様に眉間に皺を寄せた男—善爺さんは湯呑みを握りしめたまま新聞から顔を上げなかった。
齢八十九歳。昨年米寿のお祝いにと着せられた黄色のちゃんちゃんこを羽織っても、そのぶすくれた表情をぴくりとも動かさなかった。
さて、この無口で無愛想で岩の様に動かない善爺さんが、生涯の伴侶と出会ったのは戦後間も無い頃であった。
馴染みの床屋のおかみさんが、朴訥で浮いた話の一つもない善に是非合わせたいと、床屋の斜向かいのお隣に住まう娘、絹江を紹介した。
この絹江という娘、大層小柄でまだ中学にも上がってない様にも見えたが、今年で十三になったとのこと。
十七になったばかりの善からしてみれば、第一印象は「ガキじゃないか」のただ一点であったそうな。
だが紹介された手前、善も顔だけ合わせて帰るわけにもいかず。何度か顔を合わせれば相手も己の無口さに呆れて断るであろう、と善は踏んでいた。
しかし、想定外であったのは絹江の”おしゃべり具合”であった。善が黙っているのをいいことに、まあ良く喋る娘であった。のべつ幕なく実にかしましく、善はラヂオでも聴かされているかとさえ錯覚した。
挙げ句の果てには「あたし、五月蝿くないかしら?」と聞いて尚その癖は直らないときたものだ。
善は不思議でならなかった。どうして自分の様な仏頂面の男に話し続けて苦ではないのか、と。
そのまま絹江に問えば、彼女は頬を林檎のように赤らめてこう言った。
「父も母も忙しくて、妹も弟も皆まだ小さいから…だぁれもあたしの話なんて聞いてくれないの。友達も皆彼氏の話ばかりで…あたしそんなのいないから、あたしの話はつまらないって。でも、善さんは黙って聞いてくれるでしょう?嫌な顔もしないし、たまに頷いてくれる。だからあたし嬉しくて!」
善は思った。なら俺がこの縁談を断ったらどうするのだ、と。もう話を聞く者はいないのか?と。そう思うと、途端に不憫に思った。
「善さん。あたし、喋りすぎかしら?もしかして、嫌だったのかしら?」
絹江の問いに、善は思わず口走った。
「…聞くだけなら、別に」
「おじいちゃん!お茶なら自分で入れなよ!急須目の前じゃん」
孫娘が善に苦言を呈した。だかその言葉に答えたのは絹江婆さんであった。
「いいのよ。私が好きでやってるんですから。それにこの人は…」
善の手から優しく湯呑みを受け取ると、絹江は嬉しそうに言った。
「これしか言わない人だから」
ふふ、と微笑む絹江にため息をつく孫娘。それを尻目に善は呆れて内心ぼやいた。
(お前が喋らせないからだろうが)
≪愛言葉≫
10/27/2024, 6:11:05 AM