文字に色はないが、物語は極彩色であるように
わたしの生活は無色に見えても
そうでない
わたしは
わたしを取り巻く白黒の世界の代わりに
手に入れたのだ
晩秋の風を美しいと言える心を
渓谷の流れを感じ取る触角を
岩清水の美味さを知る舌を
小説の頁を繰る楽しさを
手先の細やかさを
微睡みを
例えるなら
カンバスを鮮やかにする絵筆を
あなたの幸せを願えなくても
わたしを満たすことが出来る
わたしはひとりであろうとも
あなたに寄りかかりはしない
わたしは旅人
行きずりのあなたに
わたしの筆を
折られるものですか
僕には、今までの不行跡や背徳が、教師になった親友と言う形を取って制裁に訪れたような気がしていた。
「飲みなよ。冷めてしまうから。」
友人は珈琲を啜って、僕を上目で見た。僕はぎこちなく頷いてカップを口に運んだ。味がしなかった。
「……君に声をかけたのは」
彼は緩慢に言った。
「ただ、懐かしさのためだよ。だから固くならないでおくれ。責めようなんて気持ちじゃあないんだ。」
「嘘つけ。」
「嘘だと思う?」
僕は彼に酷い罪悪感を覚えてはいたけれど、一方で酷くその性情を憎んでいた。会話を重ねるごとに、過去の僕らの粘着質な談笑ひとつひとつが鮮やかに蘇ってくるようであった。そうだ、一度なだめて許して、それから穿り返すのが彼の常套だったなと僕は思った。そんな記憶さえ、忌々しさや青臭い己への悔いの思いより先に、懐かしいと感じてしまった老いた自分が一等恐ろしい。
「わたしはね、君のことを今でも友だちだと思っているし、愛を持って接したいと思っているよ。」
ーーー愛?
僕は彼を強く睨め付けた。案の定やつは薄笑いをしていた。芒色の肌や、中性的な腰つき、一重、黒々とした眸。それら全て学生の頃から変わっていない。けれど、彼はもう大人だった。先生だった。愛という言葉をぱっと口に出せるあたり、彼にとって僕のことはもう取るに足らない昔に過ぎなくて、成人として成熟した彼から見て幼い矮小な僕は随分蔑まれているに違いない。
悲しむべき厚い壁が僕らを明らかに隔ててしまった。
「まあ、お聞きよ。珈琲を飲み終わるまではさ。」
わたしは今の今までこうしていたかったが
あなたがあまりにも釣れないので
酔ってしまう時が来た
今晩はだめだよ、ジョゼフィン
電気を消してはくれないか
温かな布団に包まれて
深い静寂の蚊帳を掛けて
よくよくお眠りなさい、坊や
「ねえちゃん、小樽さんいる。」
「いないわよ。」
煙草をくゆらせて、ねえちゃんは長い脚を組み直した。金髪が半ば横顔を隠し、臙脂色の影を落としていた。
「いまさっき買い付けに出て行ったばっかり。タイミングが悪かったわね。……あ、お菓子食べちゃってよ。」
ふうっと紫煙を空に吐く。スパンコールのドレスが、暗い照明の光を受けてきらきらと光った。わたしはランドセルを埃っぽい床に置いて、いつも通り、店の隅の脚立に腰をひっかけた。
「なにがあるの?」
「雪の宿と金城のゼリー。」
「…いらない。」
「あっそ。」
わりと賞味期限やばいんだけど、とねえちゃんはカウンターに伏せ、
「あんた、ほんっと、ませてるよねえ。」と縁の欠けたマブカップを指先で何度か弾いた。
仕方ないよ。好きなんだもの。
この雑居ビルもあと半年後に取り壊されることが決まった。小樽さんのしなびた熱帯魚やさんも、ねえちゃんのいるお店も、わたしがもうひとまわり大きくなる頃にはこの町から消えてなくなってしまう。
そうしたら、魚や小樽さんや彼女たちは、どこに行ってしまうのかしら。分からないし、どうも実感が湧かない。ふわふわシャボン玉みたいに漂うのだろうか。それとも、固くどこかに根を張って生きるのだろうか。
「ねえちゃん。」ふと呼んでみる。
「あ?」
「ここのビルが壊されたら、もう会えない?」
ねえちゃんはふん、と鼻を鳴らした。
「なんで。会えるだろうよ。ていうか、会いたくなったら連絡よこしな。」
「大丈夫かなあ。」
「だいじょぶ、だいじょぶ。」
大丈夫じゃないんだろうなあ、とわたしは思った。私が会いたいって言ったって、ねえちゃんは長いことずうっとメッセージを溜めるから。ずぼらなんだ。私のLINEには、知らない大人の人達が『友達かも?』の頁に並んだ。彼女は、『友達かも?』の人達には返事をするのだろうか。
わたしはおしろいの乗った皮の厚い首を眺めた。
わたしの手足ばかりがぐんぐん伸びて、代わりに小樽さんもねえちゃんも傍から失われるなら、わたし、一生子供のままでいい。
繊細なレースがたっぷりと満ちたボンネット、優美で可憐なチュール製のドロワーズ、少し擦り切れた飴色の革靴。物語の中で、ときおりうつくしくひらめく装飾品たちを身につけてみたいと、幼心に思った。
それで、球体関節人形を買った。
長く艷やかな金髪を従えて微笑するさまは、さながら本物のようでーーー本物とはなにかと訊かれると、ほとほと困ってしまうがーーーまあ、懦弱で口なお乳臭の私を満たすには充分だった。大枚をはたいて迎え入れた少女は、乱雑な市営住宅の一室に凛として馴染まず対比が効いて、やたらと美しく見えた。
こんなにも汚れた薄暗い家がこの美しい少女人形が棲み家という不憫が、かえって彼女の清純を露骨に引き立てているようだった。私には何故かそれが最上級の美に思えてならなかった。
私は精一杯に少女を愛した。
まるで、理想自己のように。