卒業式をとうに終えて、私は春休みを持て余していた。親の許す限り、気の向くまま、ぷらぷらと町中を歩き回ることすらあった。平日に知り合いと会うことは滅多になかろう。高を括って、私はありえない路地に入り込んだ。河原の草原をひた走った。
そうしていると、生き慣れた田舎があたかも出先の見知らぬ街のような、奇妙な印象を醸すことがあった。私はその現象を散歩の醍醐味と呼んだ。
ある時、ふと思い立って桜を見に行った。家から歩いて数十分の場所に、江戸の昔から大桜が生えていた。
「桜の下にひとりでいると、やがて気が狂う。」とはよく言うが、そんなことはあるまいと思った。
桜の下には、防火水槽を示す標識が1本突っ立っていた。何とはなしにそいつへ寄りかかって、私は長い間こずえを仰いでいた。美しかった。上気した爪のような花びらがちらちら、ちらちらと、道や私や標識の上へ降りて来る。花曇りの空に、木の輪郭は滲んでいる。もう満開を過ぎていた。赤紫の葉がまだらに芽吹いている。それが妙に醜かった。切り傷にぷくりと染み出た、血の玉みたいだったので。
そのうち飽きて、私は桜を眺めるのを辞めてしまった。感傷を頭の内で言語化するだけの装置にでもなった気分であった。靴元に落ちていた、柔らかそうな花を選んでタオルハンカチに包んだ。手ずから持ち帰ったそれらは百科事典へ挟んだ。
今年の春、私は十七になる。
何の因果か、その直前に当たる今、坂口安吾の「桜の森の満開の下」を読んだ。
すっかり押し花になったであろう、あの時の桜を引っ張り出す気にはならない。
青き芒の小路
帰らぬ人よ
雪解けは近いか
何度も問うている 問うている
たゆむ風の甘美
去りゆく人よ
鳥の初音はいつか
今日も待っている 待っている
友人の話だ。
少年のように切り揃えられた、美しい襟足の人だった。彼女を思い出すたび、一番に思い浮かぶのはそれだ。くすんだ黒髪。少し青みがかっていた。彼女にまつわる思い出なんて尽きるはずもないのに、どうして、と考えた。思い当たったのは村祭りの出来事である。
山車──それは村の言葉で家体と呼ばれていた。部落ごとに一台ずつ家体があり、村中を練り歩く──が電柱にぶつかったとかで、随分と長い間立ち往生していた。私は家体の車輪へ浅く腰掛けていた。桜の季節であった。花びらはまだらに散っていた。
友人は大字の子だった。
彼女は私を訪ねて小字の家体へやって来た。暇だったから、と彼女はこともなげに言った。
「着物が似合うね。」
私は頬を掻いた。
「そうかしら。」
彼女の方が似合っていると思った。素直に伝える。すると、相手は気まずそうに袂へ両手を隠した。
「あ。」
「なあに。」その袂に、何か入っていたらしかった。
「そういえば、これを見せていなかったね。」
取り出されたのは、赤いパッケージのグロスである。白い指がそれを高々と掲げる。彼女は眩しそうに目を細めた。
「綺麗な色でしょう。昨日買ったの。」
「へえ。」
「せっかくだし、塗ろうかな。」と再び袂をごそごそやって、手鏡を引っ張り出した。
彼女は蓋をきゅぽっと開けた。
精悍な腰を僅かにかがめて、鏡にかぶりつくようにグロスを唇へ滑らせた。私はそれを後ろから、鏡越しに、うっそりと眺めていた。うなじはよく剃られて、ひどく清潔だった。やがて彼女は私に向き直ると、
「はみ出していない?」
と尋ねた。
「大丈夫。」
私はまじまじと見た。唇は珊瑚色であった。
静脈が透けそうなほど薄い皮膚であった。
それから、彼女はとりとめなく猫の話などをして笑い、気まぐれに去って行った。
あの時の友人とは、今疎遠だ。
優しい人であれとは言わないわ
まるで静かな恋
なんの陰りもなく
すれ違いざま
ふいといなくなってしまう人ばかり
さようなら
もう会うこともないでしょう
さようなら
半月、昼下がりの空に傾き
鷹は二羽
カラスアゲハは
淡い水平線をなぞって消えた
赤煉瓦の前に立つ軍人
灯台守の雪は古木の青い影の中
ひよどりの唄
海辺に君ひらり