半月、昼下がりの空に傾き
鷹は二羽
カラスアゲハは
淡い水平線をなぞって消えた
赤煉瓦の前に立つ軍人
灯台守の雪は古木の青い影の中
ひよどりの唄
海辺に君ひらり
初夏、霧は深くなり
防火水槽の赤は消え失せた。
合唱コンクールがある週の頭のことだった。
「弾けません。」
委員長はそう言って教卓で、頭を下げた。
傍に立っていた先生がなにか言おうとして、口をつぐみ、そして微苦笑した。
教室はしんと静まり返った。
「弾けません。」と委員長は再びそう低く呟いて、ふっと視線を宙に彷徨わせる。俺のつむじ辺りを掠めて、他のクラスメイトの方に虚ろな目を滑らせていく。
静寂を破ったのは、指揮者だった。
「じゃあ、伴奏はどうするんですか。」
CDですか、と指揮者は尋ねた。無機質な言葉が生々しかった。担任は薄く笑ってその問いに答えなかった。代わりに委員長を横目で一瞥し、
「全然弾けない訳では、ないんでしょう?」
「そうですけど……。」
「途中まで弾いて、弾けなくなってしまったところでアカペラにシフトすればいいんじゃない。それで駄目なの?」と訊いた。
「………ごめんなさい。」
委員長は首を傾げ、場違いな美しさで微笑した。
委員長が、合唱コンクールのピアノ伴奏者という役割を半ば押し付けられるようにして任されたことは、疎い俺の目にも明らかだった。しかし委員長が伴奏者を務めるのは今年で二回目であって、昨年は三年生を押して優秀伴奏者賞まで受け取った人だ。
だから、大丈夫だろう。
気楽な俺の思惑の外、彼女は秋が深まるにつれて休みがちになった。いつだったか、持病が悪化したせいだと担任は言っていたけれども。
やがて朝のホームルームが終わって、給食の時間になって、午後の授業が進んでも、クラスメイトの間に降りた奇妙な静けさの膜は取り除かれなかった。あっという間に放課後練習の時間になった。
担任教師が委員長の肩を軽やかに叩いた。
「それじゃ、委員長はテノールの音取りだけ、よろしく。」
委員長は頷く。俺の後ろで、小さな不満がぽつぽつと呟かれる。それを察してか、指揮者が一歩進み出た。
「残りの期間は少ないけど、一緒に頑張ろう。」
「ありがとう。」
「……いや、だって、体調が悪かったんだもんね。仕方ないよ。だから、サポートは、任せた。」
ーーーあいつ。
俺は乾いた笑いが込み上げてくるのを感じた。彼女が休んでいた時に、あれほど悪く言って、どの口が、と思った。まあ、愚痴る権利はあるだろう。クラスをまとめあげねばならない重い責任も何もかも、ひとりで背負いこんで、苦しかったろう。
委員長もそれを了解しているらしく、しずしずと隣の多目的室からキーボードを運んできて、手早く準備をした。
「…手伝おうか。」
俺がキーボードのプラグに手を伸ばすと、彼女は黒々とした目をきゅっと細めて首を振った。
「申し訳ないから。」
俺は指先を引っ込めた。
実を言えば、俺は、委員長のピアノが好きだった。
決して急がない、緩やかな旋律が。蝋燭の火にも似た、微かに揺らめくような音が。
門外漢が何を、と笑われるかもしれない。しかし、それを分かっていてもなお、彼女に直接伝えようとしたことさえあった。
その指先が好きです、と。
ラジカセから流れてくる合唱曲とともに歌うと、なんだか泣きたくなってくる。途中、委員長は指揮者にストップをかけると、音程ミスをいくつか指摘して、キーボードで正しい音を鳴らして見せた。指揮者がそれをみんなに歌って見せて、ワンセットだ。
最後に一度だけ全パート集まって一曲を通し、放課後練習は終わった。
「手伝うよ。」
キーボードを黙々と片付ける委員長の背中に、もう一度声をかけてみた。委員長は冷たく刺すようにちらりと俺を見た。それから、彼女は重そうにキーボードを抱え込んで、俺に向き直った。
「……ありがとう。大丈夫だよ。」
「重くないの?」
「まあ、重いけど。耐えられないほどではないからねえ……。気遣ってくれてありがとう。」
いつもどおりの委員長だ、と俺は感じた。安心する一方で、どこか不気味にも思える。
「無理しないでね。」
委員長は嗄れ声でごく楽しげに笑った。
「しないよ。」
文字に色はないが、物語は極彩色であるように
わたしの生活は無色に見えても
そうでない
わたしは
わたしを取り巻く白黒の世界の代わりに
手に入れたのだ
晩秋の風を美しいと言える心を
渓谷の流れを感じ取る触角を
岩清水の美味さを知る舌を
小説の頁を繰る楽しさを
手先の細やかさを
微睡みを
例えるなら
カンバスを鮮やかにする絵筆を
あなたの幸せを願えなくても
わたしを満たすことが出来る
わたしはひとりであろうとも
あなたに寄りかかりはしない
わたしは旅人
行きずりのあなたに
わたしの筆を
折られるものですか
僕には、今までの不行跡や背徳が、教師になった親友と言う形を取って制裁に訪れたような気がしていた。
「飲みなよ。冷めてしまうから。」
友人は珈琲を啜って、僕を上目で見た。僕はぎこちなく頷いてカップを口に運んだ。味がしなかった。
「……君に声をかけたのは」
彼は緩慢に言った。
「ただ、懐かしさのためだよ。だから固くならないでおくれ。責めようなんて気持ちじゃあないんだ。」
「嘘つけ。」
「嘘だと思う?」
僕は彼に酷い罪悪感を覚えてはいたけれど、一方で酷くその性情を憎んでいた。会話を重ねるごとに、過去の僕らの粘着質な談笑ひとつひとつが鮮やかに蘇ってくるようであった。そうだ、一度なだめて許して、それから穿り返すのが彼の常套だったなと僕は思った。そんな記憶さえ、忌々しさや青臭い己への悔いの思いより先に、懐かしいと感じてしまった老いた自分が一等恐ろしい。
「わたしはね、君のことを今でも友だちだと思っているし、愛を持って接したいと思っているよ。」
ーーー愛?
僕は彼を強く睨め付けた。案の定やつは薄笑いをしていた。芒色の肌や、中性的な腰つき、一重、黒々とした眸。それら全て学生の頃から変わっていない。けれど、彼はもう大人だった。先生だった。愛という言葉をぱっと口に出せるあたり、彼にとって僕のことはもう取るに足らない昔に過ぎなくて、成人として成熟した彼から見て幼い矮小な僕は随分蔑まれているに違いない。
悲しむべき厚い壁が僕らを明らかに隔ててしまった。
「まあ、お聞きよ。珈琲を飲み終わるまではさ。」