友人の話だ。
少年のように切り揃えられた、美しい襟足の人だった。彼女を思い出すたび、一番に思い浮かぶのはそれだ。くすんだ黒髪。少し青みがかっていた。彼女にまつわる思い出なんて尽きるはずもないのに、どうして、と考えた。思い当たったのは村祭りの出来事である。
山車──それは村の言葉で家体と呼ばれていた。部落ごとに一台ずつ家体があり、村中を練り歩く──が電柱にぶつかったとかで、随分と長い間立ち往生していた。私は家体の車輪へ浅く腰掛けていた。桜の季節であった。花びらはまだらに散っていた。
友人は大字の子だった。
彼女は私を訪ねて小字の家体へやって来た。暇だったから、と彼女はこともなげに言った。
「着物が似合うね。」
私は頬を掻いた。
「そうかしら。」
彼女の方が似合っていると思った。素直に伝える。すると、相手は気まずそうに袂へ両手を隠した。
「あ。」
「なあに。」その袂に、何か入っていたらしかった。
「そういえば、これを見せていなかったね。」
取り出されたのは、赤いパッケージのグロスである。白い指がそれを高々と掲げる。彼女は眩しそうに目を細めた。
「綺麗な色でしょう。昨日買ったの。」
「へえ。」
「せっかくだし、塗ろうかな。」と再び袂をごそごそやって、手鏡を引っ張り出した。
彼女は蓋をきゅぽっと開けた。
精悍な腰を僅かにかがめて、鏡にかぶりつくようにグロスを唇へ滑らせた。私はそれを後ろから、鏡越しに、うっそりと眺めていた。うなじはよく剃られて、ひどく清潔だった。やがて彼女は私に向き直ると、
「はみ出していない?」
と尋ねた。
「大丈夫。」
私はまじまじと見た。唇は珊瑚色であった。
静脈が透けそうなほど薄い皮膚であった。
それから、彼女はとりとめなく猫の話などをして笑い、気まぐれに去って行った。
あの時の友人とは、今疎遠だ。
優しい人であれとは言わないわ
まるで静かな恋
なんの陰りもなく
すれ違いざま
ふいといなくなってしまう人ばかり
さようなら
もう会うこともないでしょう
さようなら
半月、昼下がりの空に傾き
鷹は二羽
カラスアゲハは
淡い水平線をなぞって消えた
赤煉瓦の前に立つ軍人
灯台守の雪は古木の青い影の中
ひよどりの唄
海辺に君ひらり
初夏、霧は深くなり
防火水槽の赤は消え失せた。
合唱コンクールがある週の頭のことだった。
「弾けません。」
委員長はそう言って教卓で、頭を下げた。
傍に立っていた先生がなにか言おうとして、口をつぐみ、そして微苦笑した。
教室はしんと静まり返った。
「弾けません。」と委員長は再びそう低く呟いて、ふっと視線を宙に彷徨わせる。俺のつむじ辺りを掠めて、他のクラスメイトの方に虚ろな目を滑らせていく。
静寂を破ったのは、指揮者だった。
「じゃあ、伴奏はどうするんですか。」
CDですか、と指揮者は尋ねた。無機質な言葉が生々しかった。担任は薄く笑ってその問いに答えなかった。代わりに委員長を横目で一瞥し、
「全然弾けない訳では、ないんでしょう?」
「そうですけど……。」
「途中まで弾いて、弾けなくなってしまったところでアカペラにシフトすればいいんじゃない。それで駄目なの?」と訊いた。
「………ごめんなさい。」
委員長は首を傾げ、場違いな美しさで微笑した。
委員長が、合唱コンクールのピアノ伴奏者という役割を半ば押し付けられるようにして任されたことは、疎い俺の目にも明らかだった。しかし委員長が伴奏者を務めるのは今年で二回目であって、昨年は三年生を押して優秀伴奏者賞まで受け取った人だ。
だから、大丈夫だろう。
気楽な俺の思惑の外、彼女は秋が深まるにつれて休みがちになった。いつだったか、持病が悪化したせいだと担任は言っていたけれども。
やがて朝のホームルームが終わって、給食の時間になって、午後の授業が進んでも、クラスメイトの間に降りた奇妙な静けさの膜は取り除かれなかった。あっという間に放課後練習の時間になった。
担任教師が委員長の肩を軽やかに叩いた。
「それじゃ、委員長はテノールの音取りだけ、よろしく。」
委員長は頷く。俺の後ろで、小さな不満がぽつぽつと呟かれる。それを察してか、指揮者が一歩進み出た。
「残りの期間は少ないけど、一緒に頑張ろう。」
「ありがとう。」
「……いや、だって、体調が悪かったんだもんね。仕方ないよ。だから、サポートは、任せた。」
ーーーあいつ。
俺は乾いた笑いが込み上げてくるのを感じた。彼女が休んでいた時に、あれほど悪く言って、どの口が、と思った。まあ、愚痴る権利はあるだろう。クラスをまとめあげねばならない重い責任も何もかも、ひとりで背負いこんで、苦しかったろう。
委員長もそれを了解しているらしく、しずしずと隣の多目的室からキーボードを運んできて、手早く準備をした。
「…手伝おうか。」
俺がキーボードのプラグに手を伸ばすと、彼女は黒々とした目をきゅっと細めて首を振った。
「申し訳ないから。」
俺は指先を引っ込めた。
実を言えば、俺は、委員長のピアノが好きだった。
決して急がない、緩やかな旋律が。蝋燭の火にも似た、微かに揺らめくような音が。
門外漢が何を、と笑われるかもしれない。しかし、それを分かっていてもなお、彼女に直接伝えようとしたことさえあった。
その指先が好きです、と。
ラジカセから流れてくる合唱曲とともに歌うと、なんだか泣きたくなってくる。途中、委員長は指揮者にストップをかけると、音程ミスをいくつか指摘して、キーボードで正しい音を鳴らして見せた。指揮者がそれをみんなに歌って見せて、ワンセットだ。
最後に一度だけ全パート集まって一曲を通し、放課後練習は終わった。
「手伝うよ。」
キーボードを黙々と片付ける委員長の背中に、もう一度声をかけてみた。委員長は冷たく刺すようにちらりと俺を見た。それから、彼女は重そうにキーボードを抱え込んで、俺に向き直った。
「……ありがとう。大丈夫だよ。」
「重くないの?」
「まあ、重いけど。耐えられないほどではないからねえ……。気遣ってくれてありがとう。」
いつもどおりの委員長だ、と俺は感じた。安心する一方で、どこか不気味にも思える。
「無理しないでね。」
委員長は嗄れ声でごく楽しげに笑った。
「しないよ。」