誰もがみんな
――誰もがみんな幸福だと言える世界があるならば、どんなに素晴らしいだろうか。
俺はパソコンのキーを打つのを止めて、淹れておいたコーヒーを口にする。
「誰もが幸せ、ねえ……」
ため息交じりに出た言葉に皮肉めいた響きが混じってしまった。それはきっと、一人の不幸の上に多くの人の幸せが成り立つあの話を思い出したからだろう。
「そりゃ、理想はみんなが何の犠牲も払わず幸せになるのが一番だ。けど実際問題“何も無し”は無理だろ。なあ?」
俺が仕事に集中している間、ずっと膝で寝ていた愛猫のわらびに声を掛ける。この名前の由来は、わらび餅に似ているからという単純なものだ。
わらびは耳を少しだけ動かし、先程の俺と同じようなため息を吐きながら一声鳴いた。
「うんうん、お前も俺と同じかあ」
言葉を勝手に解釈し、桜の形をした片耳を優しく撫でる。
「とりあえず、俺はお前の幸せを維持しねえとな」
膝の温もりを感じながら、俺は再び文章の海に思考を沈めていった。
日々家
花束
「これやる!」
顔を真っ赤にして差し出されたのは、花びらを鮮やかな黄色に染め上げ綺麗に咲いたたんぽぽの花束。
家に入ってからずっと背中に何を隠しているんだろうと思っていたが、まさか花束だったなんてっと少し驚いてしまった。また虫だったら怒らなければと考えていたことを反省して陽希を見る。
いつもなら「なつ姉ちゃん! 聞いて!」と笑顔を向けて今日学校であった話をしてくる陽希は下を見たまま私の反応を待っている。
少し考えてから、私は手を伸ばして花束を受け取った。
「ありがとう。綺麗だね」
その言葉に陽希は顔を勢いよく上げて、キラキラと目を輝かせながら「うん!」といつもの笑顔を向けてくれた。それが手にある花に重なって、私もつられて頬を緩ませる。
「おれ、すぐになつ姉ちゃんと同じ中学生になるから待っててよ?」
「いいよ〜。待ってる……って言ってもお隣さんだからいつでも会えるよ?」
「そういうのじゃないの! 全然違う!」
「ごめん、ごめん。ちゃんと学校で待ってるよ」
陽希は満足したのか「分かってくれればいい」と言い、大人びた表情を見せた。
「たんぽぽ、花瓶に入れてあげないと。はるは居間に行って、今日の宿題出しときな」
「はぁい……」
宿題という言葉に肩を落とす姿は年相応で、それになぜか安心した。
洗面台に向かい、棚にしまってあった花瓶に水切りしたたんぽぽを挿す。白い陶器に黄色がよく映えている。
花瓶を持って居間に入ると、午後の太陽の光に照らされた陽希が目に入る。それがとても眩しくて、私は目を細めた。
私に気付いた陽希が「国語の問題意味わかんない!」と口をヘの字にして言う。
それに「はいはい」と笑って返すと「早く教えて」と急かされた。
窓際に花瓶を置いてから、私はいつものように向かい側に座って勉強を教え始める。
――きっと彼は、私の知らない内に成長していくし、沢山の人に出会い、私への感情も変わっていくだろう。
それでも良いと思う。
今この瞬間が、綺麗な思い出として残るのなら悪くはない。
「なあ、なつ姉ちゃん」
「ん? どうした?」
「おれは真剣だからね」
考えを見透かされたように鋭い一言が心を突く。
いつの間にか、私が知らない陽希がすぐ傍まで来ている気がした。
日々家
▼余談/登場人物
沢田 陽希(さわだ はるき)
森岡 夏乃(もりおか なつの)
スマイル
ボロボロにされた心を時間をかけて立て直した。
何重にも巻いた包帯や急いで貼った絆創膏、縫い目がお前らには見えないだろう。当たり前だこれは私の心なのだから。
春色に染まった唇を少し緩め、背筋を伸ばして歩いてやる。地面なんて見てやるものか。威嚇するようにヒールを鳴らしてやる。
この笑顔で私は私を守っていくと決めたのだから。
日々家
どこにも書けないこと
真っ暗な部屋の中、窓の外からぼんやりとした明かりが入る。
カーテンを開けると雲の間から月が顔を出していた。どこも欠けることなく、優しい光を発するそれは小さく笑っているように見えた。
寂しがりが居るとこうして月は誰かを照らすのだろうか……。
月をただ見つめていると、次第に形が滲んでいき、ゆらりゆらりと揺れ始める。私の視界に小さな海が生まれた。しかし、すぐにそれはぽたりと落ちる。そしてまたひとつ、止まらず溢れ出ていく。
この感情を誰かに伝えることは一生ないだろう。きっと誰にも伝えられないだろう。それは私が怖がりだからだ。
だから今だけはどうか弱さを曝け出すのを許してほしい。
また明日も望まれる姿で生きられるように。
――情けない姿を見ても月は隠れず、泣き終えるまで私を照らし続けてくれた。
日々家
時計の針
机には淹れたてのミルクティーとクッキー、そして読みかけの本が一冊。
ガヤガヤと騒ぐテレビを消すと、部屋の中がしんと静まる。しかし、しばらくすると耳に秒針が動く音が届き始めた。カチコチと鳴るそれは、まるで時計の心臓の音のようで私は好きだった。
カチリと秒針よりも少し重みのある音が鳴る。顔を上げて確かめると、針は一五時を示していた。待ちに待ったご褒美タイムだ。
私は椅子に座り、ミルクティーを一口飲んでから自分の時間に入っていった。
日々家