『なあ、神よ』
「神なんていない。」、それが私の口癖だった。
私には姉がいた。心優しい女性で、生意気な弟に違いなかった私をよく可愛がってくれた。いつでも領民のために心を砕き、彼らからも慕われるような人だった。彼女は十八歳を迎える前に、流行病で命を落とした。
私には弟がいた。穏やかで聡明な少年で、不甲斐ない兄に違いなかった私をよく慕ってくれた。何にでも興味を持ち、まるでスポンジのようにするすると知識を吸収していく、家族からも領民たちからも、将来を嘱望された子だった。彼はたった十歳にして、不慮の事故で命を散らした。
私には母がいた。慈愛に溢れた女性で、情けない息子に違いなかった私を愛してくれた。夫たる父を献身的に支え、私たち姉弟をいつくしみ、いつだって変わらぬ愛で包んでくれた人だった。彼女は弟が死んで三年が経つ頃、通り魔に刺され、帰らぬ人となった。
私には父がいた。厳しさと優しさを併せ持つ男性で、不出来な息子に違いなかった私を根気強く指導してくれた。誰よりも領民のことを考える、尊敬できる人だった。彼は、妻の喪も明けないうちに過労によって倒れ、そのまま目を覚ますことはなかった。
私よりずっと生き延びるべき人たちは、みんなみんな死んでしまった。神がいるとするのなら、こんな不条理を許すはずがない。あんなに心の美しい人たちが、こんなに短い時間で人生を終えているはずがない。あの人たちの死の損失には、私が百回死んだって足りはしないのに。
姉が死に、弟が死に、母が死に、父が死んだ。私に遺されたものはもう何もなかった。貴族家当主の地位も財産も、そんなものはどうでもよかった。ただあの人たちが愛し慈しんだ領地とそこに住む人たちを守るためだけに、私は生きていた。決められた政務を淡々とこなすだけの能力は、私にもあったらしい。私の大切な人たちがみんないなくなってしまっても、世界は変わらず回っていく。何事もなく日々は過ぎていく。
短い間に四人もの家人を亡くしたこの家を、呪われていると誰かが言った。確かにそうだ。この家はきっと呪われている。生きるべき人たちばかりが命を落とし、生きる価値のない私だけが生き残った。まるで永遠に喪に服しているかのような、すっかり明るさも穏やかさも失われた屋敷で過ごす単調な日々の中で、私は自分の心を殺していった。
なあ、神よ。お前が残した人間は、こんなにも脆くて弱い。残す人間を間違えたな。幸い部下には恵まれた。こんな不出来な人間がいなくても、この地の安寧は守られるだろう。私はもう疲れてしまったんだ。心がもう息をしていないことなど、ずっと前から気がついていた。
なあ、神よ。もう、いいだろう?私のことも……さっさと向こうへ、連れていってくれ。
『私の名前を』
「お姫様」って、あの人は私を呼ぶ。
おひいさま。大仰な呼び名ではあるけれど、使用人の、それも別宅の庭師である彼からしたら、本家の娘である私は、そのくらい遠い存在なのかもしれない。
「お姫様、こちらを。」
秋。風が冷たくなり始めて、庭に出ると少し肌寒さを感じる季節。そっと差し出されたストールをありがたく受け取って、私は彼に、ずっと疑問に思っていたことを問いかけた。
「ねえ、あなたは私の名前を知っていて?」
「はい。存じ上げております。」
「あら。じゃあ、なぜ"お姫様"って呼ぶのかしら。」
「私のような者がお姫様の御名前を口にするなど、畏れ多いことでございます。」
彼は恭しく頭を下げる。別宅で過ごすようになってから___彼と出会ってから、三年の月日がすぎた。別宅では唯一、年の近い使用人だということもあって、彼とは少なくない時間を共に過ごした。ほとんど毎日のように庭を訪れては、日頃のちょっとしたことを話す日々。時には軽口を叩き合うことだってあった。名前を呼ぶくらいで畏れ多いだなんて表現、少し滑稽なくらいには打ち解けているはずなのに。彼は、こういう時だけ身分の差を持ち出してくる。
「……私は気にしないのに。」
「どうかご容赦を。」
彼は困ったように少し眉を下げて微笑む。その顔をされると、私はもう何も言えなくなってしまう。
「まあ、いいわ。ねえ、あちらの花壇を見に行きたいの。着いてきてちょうだい。」
「仰せのままに。」
おひいさま。私、その呼び方も嫌いじゃないわ。だってあなたが、大事な言葉を紡ぐみたいに、まるくやさしく呼んでくれるから。
でも。一度くらいは、私の名前を呼んでほしいと思うのは、わがままが過ぎるのかしら。命令だって言ったら、あなたはきっと従うでしょう。でもそうじゃないの。あなたの口から、一度でいいから。
半分諦めているこの願いがどこから来るのかなんて、もうとっくに気がついている。ああ、本家に残してきたばあやに知られたら、きっと怒られてしまうわ。
夜、一人になると考える。本家に戻る日はいつになるのだろう、と。自分の体調が本家での生活に耐えうるものになってきていると、自分でわかる。別宅のある地域の穏やかな気候と静かな暮らしは、私の体を少しはマシなものにしてくれた。それ自体は喜ばしいことのはずなのに、素直に喜べない自分がいる。
元気になんてなりたくない、なんて。昔の私に叱られてしまいそうな願いを胸の奥にしまって、明日も私は、彼の待つ庭を訪れる。
『遠い日の記憶』
あれは何年前だったか。よく晴れた春の日のことだった。いつものように庭の植木を整えていた俺に、貴女が話しかけてきたのが最初だった。
「あなたがいつも、ここのお庭を整えてくれているの?」
烟るような長い睫毛に縁取られた、宝石のような瞳。陶器のように滑らかな白い肌。ゆるやかなウェーブを描くやわらかそうな髪は、陽光にきらきらと輝くようで。本家のお姫様だということは、すぐにわかった。
別宅の庭師の若造にすぎない俺には、見惚れることも許されない。俺はすぐにひざまづいて頭を下げた。
「さようでございます。こちらの別宅のお庭は、私と師匠の二人で担当しております。」
「そんなに畏まらないで。頭をお上げなさい。」
視界の端に、白いレースの裾が揺れる。頭を下げたままの俺に、お姫様は焦れたようだった。影帽子が小さくなって、白いレースが地面に触れるのが見えた。俺は慌てて頭を上げる。
「お姫様。お召し物が汚れてしまいます。」
「あら、あなたが一向に頭を上げないのが悪いのよ。私の服を汚したくないのなら、あなたもお立ちなさいな。」
膝をつく俺と目線を合わせたお姫様は、いたずらっ子のように笑った。少し首を傾げた彼女があまりに綺麗で、俺はお姫様のお召し物を汚さないためだと言い訳しながら、目線を逸らすように立ち上がった。お姫様は立ち上がる様すら優雅で、髪を耳にかける仕草は俺の頭をくらくら揺すった。立ち姿そのものが、まるで絵画のようだった。
「あなた、年はいくつ?きっと私とほとんど変わらないでしょう?」
「今年で十九になります。」
「あら、私よりひとつ上ね。」
お姫様はくすくすと笑った。やわらかそうな髪が揺れる。遠目に何度か見かけただけのお人が、こんなに近くにいることが俺には信じられなかった。
「私、しばらく別宅で過ごすことになったの。ここには年の近いひとがいないから、話し相手になってくれないかしら。」
お姫様はそれから、俺が庭の仕事をしていると、よく顔を出すようになった。その日にあった出来事や、本家のご家族からのお手紙について俺にお話になっては、鈴を転がすようにころころと笑う。天上のお人が、束の間地上に舞い降りてきたかのようだった。
お姫様との時間はあっという間に過ぎて行く。いつしか俺は、庭にお姫様がやってくるのを心待ちにするようになっていた。
お姫様は本家の一人娘だ。使用人にすぎない俺のこの想いは、到底許されるものではなかった。お姫様は、今でこそ静養のために別宅で過ごされているが、いつかは本家にお戻りになる。そうなればきっと、俺のことなど忘れてしまうだろう。それでいい。それが正しいのだ。
お姫様は俺のような使用人にも、まるで身分の差などないかのように素直に接してくださる。その美しい無邪気さを勘違いしないように、近づきすぎないように、俺は自分を律しなければならない。
裏庭の落ち葉を掃きながら、俺はお姫様のことを考えていた。
お姫様が別宅で過ごされるようになってから、今日でちょうど三年の月日が過ぎた。お姫様の体調は、長い時間をかけてゆっくりと回復し、昔と比べれば目に見えてよくなっている。本家にお戻りになる日は、そう遠くないだろう。
お会いすることがなくなれば、お姫様への想いも、きっと薄れていってくれるはずだ。もとより雲の上のお人なのだ、お話できること自体が、すでに夢のようなものだった。あの時間を一生の宝物にして、また日常に戻ればいい。少し前までの当たり前に戻るだけだ。それなのに、どうしてこんなにこの胸は痛むのだろう。
叶うはずもない、過ぎた想いだ。お姫様との想い出は、いつか遠い日の美しい記憶となって、俺の青春時代を彩ってくれる。きっとそうなる。それだけで、十分じゃないか。
庭の落ち葉は、まだ少しも片付かなかった。
『同じ空の下』
見上げた空は青かった。わずかな雲の輪郭が滲んでぼやける。憎らしいくらいの快晴だった。
「これでよかった。これでよかったんだ。」
呟いた声は情けないくらいに震えていて、視線を落とせば両の拳は無意識にシーツを握りしめていた。ゆっくりと目を閉じれば、骨張った右の手の甲に、生温い水滴が一滴落ちる。彼女は行ってしまった。きっともう戻っては来ないだろう。それでいい。それが彼女のためだと思った。このまま先の見えない闘病生活に付き合わせるよりは……一時彼女を傷付けてでも、僕から解放してあげたほうがいい。
去り際の、彼女の表情を思い出す。震える指先を振り払った、その時の傷ついた表情を、僕は一生忘れることができないだろう。
「……幸せになれよ。」
彼女が去っていった病室のドアを見つめながら、未練がましく呟いた。かわいくて優しくて、気遣いのできる彼女は、僕には勿体無いひとだった。もう君を縛る重荷は何もない。どうか僕のいない場所で、自由に生きて、幸せになってほしい。それさえ叶えば、僕はもう何もいらないから。
君から貰ったたくさんの優しさ、想い出、笑顔。胸の奥に大事にしまって、時折そっと取り出して、思い出しては頑張るよ。
病室の窓から見上げる、同じ空の下、それでも僕のいない場所で、君は生きている。君にはもう、返せないほどたくさんのものを貰ったから。同じ空を共有している、そんないちばん薄い繋がりでさえ、僕には十分すぎるくらいだ。
ありがとう、僕のいちばん大切なひと。どうか君が、世界で一番幸せになりますように。
『手を取り合って』
ふたり、手を取り合って、笑い合って。ただの並木道を歩くだけで幸せだった、あの頃。もう二度と戻らない、セピア色の春。
「いつもごめんね」
「…ありがとう、でしょ」
「……そうだね。ありがとう」
あなたは困ったように笑う。少し眉を下げて、申し訳なさそうに。白い歯を見せて笑うあなたの姿を、あのはじけるような笑顔を、見なくなって久しい。あの頃のあなたは、輝くような生命力に溢れていた。思い切り生を謳歌していた。今のあなたは、生きることにもう随分と疲れてしまっている。
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