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『私の名前を』

 「お姫様」って、あの人は私を呼ぶ。
 おひいさま。大仰な呼び名ではあるけれど、使用人の、それも別宅の庭師である彼からしたら、本家の娘である私は、そのくらい遠い存在なのかもしれない。

「お姫様、こちらを。」

 秋。風が冷たくなり始めて、庭に出ると少し肌寒さを感じる季節。そっと差し出されたストールをありがたく受け取って、私は彼に、ずっと疑問に思っていたことを問いかけた。

「ねえ、あなたは私の名前を知っていて?」
「はい。存じ上げております。」
「あら。じゃあ、なぜ"お姫様"って呼ぶのかしら。」
「私のような者がお姫様の御名前を口にするなど、畏れ多いことでございます。」

 彼は恭しく頭を下げる。別宅で過ごすようになってから___彼と出会ってから、三年の月日がすぎた。別宅では唯一、年の近い使用人だということもあって、彼とは少なくない時間を共に過ごした。ほとんど毎日のように庭を訪れては、日頃のちょっとしたことを話す日々。時には軽口を叩き合うことだってあった。名前を呼ぶくらいで畏れ多いだなんて表現、少し滑稽なくらいには打ち解けているはずなのに。彼は、こういう時だけ身分の差を持ち出してくる。

「……私は気にしないのに。」
「どうかご容赦を。」

 彼は困ったように少し眉を下げて微笑む。その顔をされると、私はもう何も言えなくなってしまう。

「まあ、いいわ。ねえ、あちらの花壇を見に行きたいの。着いてきてちょうだい。」
「仰せのままに。」

 おひいさま。私、その呼び方も嫌いじゃないわ。だってあなたが、大事な言葉を紡ぐみたいに、まるくやさしく呼んでくれるから。
 でも。一度くらいは、私の名前を呼んでほしいと思うのは、わがままが過ぎるのかしら。命令だって言ったら、あなたはきっと従うでしょう。でもそうじゃないの。あなたの口から、一度でいいから。

 半分諦めているこの願いがどこから来るのかなんて、もうとっくに気がついている。ああ、本家に残してきたばあやに知られたら、きっと怒られてしまうわ。

 夜、一人になると考える。本家に戻る日はいつになるのだろう、と。自分の体調が本家での生活に耐えうるものになってきていると、自分でわかる。別宅のある地域の穏やかな気候と静かな暮らしは、私の体を少しはマシなものにしてくれた。それ自体は喜ばしいことのはずなのに、素直に喜べない自分がいる。

 元気になんてなりたくない、なんて。昔の私に叱られてしまいそうな願いを胸の奥にしまって、明日も私は、彼の待つ庭を訪れる。

7/20/2023, 11:23:50 AM