『遠い日の記憶』
あれは何年前だったか。よく晴れた春の日のことだった。いつものように庭の植木を整えていた俺に、貴女が話しかけてきたのが最初だった。
「あなたがいつも、ここのお庭を整えてくれているの?」
烟るような長い睫毛に縁取られた、宝石のような瞳。陶器のように滑らかな白い肌。ゆるやかなウェーブを描くやわらかそうな髪は、陽光にきらきらと輝くようで。本家のお姫様だということは、すぐにわかった。
別宅の庭師の若造にすぎない俺には、見惚れることも許されない。俺はすぐにひざまづいて頭を下げた。
「さようでございます。こちらの別宅のお庭は、私と師匠の二人で担当しております。」
「そんなに畏まらないで。頭をお上げなさい。」
視界の端に、白いレースの裾が揺れる。頭を下げたままの俺に、お姫様は焦れたようだった。影帽子が小さくなって、白いレースが地面に触れるのが見えた。俺は慌てて頭を上げる。
「お姫様。お召し物が汚れてしまいます。」
「あら、あなたが一向に頭を上げないのが悪いのよ。私の服を汚したくないのなら、あなたもお立ちなさいな。」
膝をつく俺と目線を合わせたお姫様は、いたずらっ子のように笑った。少し首を傾げた彼女があまりに綺麗で、俺はお姫様のお召し物を汚さないためだと言い訳しながら、目線を逸らすように立ち上がった。お姫様は立ち上がる様すら優雅で、髪を耳にかける仕草は俺の頭をくらくら揺すった。立ち姿そのものが、まるで絵画のようだった。
「あなた、年はいくつ?きっと私とほとんど変わらないでしょう?」
「今年で十九になります。」
「あら、私よりひとつ上ね。」
お姫様はくすくすと笑った。やわらかそうな髪が揺れる。遠目に何度か見かけただけのお人が、こんなに近くにいることが俺には信じられなかった。
「私、しばらく別宅で過ごすことになったの。ここには年の近いひとがいないから、話し相手になってくれないかしら。」
お姫様はそれから、俺が庭の仕事をしていると、よく顔を出すようになった。その日にあった出来事や、本家のご家族からのお手紙について俺にお話になっては、鈴を転がすようにころころと笑う。天上のお人が、束の間地上に舞い降りてきたかのようだった。
お姫様との時間はあっという間に過ぎて行く。いつしか俺は、庭にお姫様がやってくるのを心待ちにするようになっていた。
お姫様は本家の一人娘だ。使用人にすぎない俺のこの想いは、到底許されるものではなかった。お姫様は、今でこそ静養のために別宅で過ごされているが、いつかは本家にお戻りになる。そうなればきっと、俺のことなど忘れてしまうだろう。それでいい。それが正しいのだ。
お姫様は俺のような使用人にも、まるで身分の差などないかのように素直に接してくださる。その美しい無邪気さを勘違いしないように、近づきすぎないように、俺は自分を律しなければならない。
裏庭の落ち葉を掃きながら、俺はお姫様のことを考えていた。
お姫様が別宅で過ごされるようになってから、今日でちょうど三年の月日が過ぎた。お姫様の体調は、長い時間をかけてゆっくりと回復し、昔と比べれば目に見えてよくなっている。本家にお戻りになる日は、そう遠くないだろう。
お会いすることがなくなれば、お姫様への想いも、きっと薄れていってくれるはずだ。もとより雲の上のお人なのだ、お話できること自体が、すでに夢のようなものだった。あの時間を一生の宝物にして、また日常に戻ればいい。少し前までの当たり前に戻るだけだ。それなのに、どうしてこんなにこの胸は痛むのだろう。
叶うはずもない、過ぎた想いだ。お姫様との想い出は、いつか遠い日の美しい記憶となって、俺の青春時代を彩ってくれる。きっとそうなる。それだけで、十分じゃないか。
庭の落ち葉は、まだ少しも片付かなかった。
7/17/2023, 6:22:53 PM