【安らかな瞳】
四〇八号室。今すぐにでも中に押し入りたい気持ちを抑えて、インターホンを押す。
ピンポーン、昼下がりの4階に無機質な音が余韻を残す。彼女は出てこない。
合鍵で部屋に入る。静まりかえった部屋は時が止まっているみたいだ。
逸っていた心を灰色の沈黙に宥めすかされ、僕は冷たくなる。
寝室の扉を開けた。
アパシーが僕を護っているのだろう。最も恐れていたはずのそれに、僕の心は揺れなかった。
彼女は寝息も立てず、静かに眠っていた。
その瞳に映る地獄を瞼で消し去って、きっと安らかな瞳で眠っている。
僕はとうとう一度も見ることの無かったその瞳で、眠っている。
【もっと知りたい】
私は誰よりも君のことを知ってる。
今日の夕方、帰ってすぐに配信を始めたこと。指先に血がまん丸く乗ったサムネを使っていたこと。その写真は約四ヶ月前に撮ったものであること。
部屋にあったカッターナイフの刃をたった一度も折っていないこと。それで胸に傷を付けたこと。わざと刃先に血を付けたまま、目につく場所に置いていたこと。その血は私が見つけた日から過去二日以内のものであること。
父親から性的虐待を受けていたこと。母親と一緒に父親から逃げて、今は母親から暴力を振るわれるだけになったこと。これら全部、明るく笑いながら語らないと心を保てないこと。
兄の話は全て嘘であること。彼氏の話は全て嘘であること。私にしてくる言い寄られたって話は殆ど嘘であること。あの子が苦手だ、あの子と嫌なことがあった、なんて話は半分嘘であること。
「大丈夫!」なんて笑顔は、嘘であること。君は怖い時、辛い時、苦しい時ほど笑うこと。いつも独りで泣くこと。
私はなんだって知ってる。誰よりも知ってる。
だから私が君を酷く傷付けてしまったことだって、よーーーく、知ってるよ。
それなのに、君は私の名前を呼んでくれた。私はあんな酷いことをして、君を傷付けてしまったのに。
君は怖くなかったの?私は、怖くてずっと出来なかった。
「なんで、なんでなんだよー」って、君はいつも通り明るい声のまま繰り返した。私だって聞きたかった。
私は君のこと、知ってるはずなのに何も分からなかった。
でも君は、「めっちゃ仲良かったー。あ、わたしが仲良いと思ってただけかもしれないけど!」って、言った。
だから私は、「いや、仲良かった。ほんとうに」とだけ言って、君の全てを知りたいだとかは全部どうでもよくなった。
君が言った「またね」には、何も言わず手を振るだけだったけれど。もしも君が次をくれるのなら。
【過ぎ去った日々】
自分が過去に書いた話を、時々読み返す。特に2~3年前に書いたものを。
私は文章を組み立てるのが本当に苦手だから、私がたまにしか書いていなかった2~3年前の文章は今以上に拙い。
日本語ネイティブだと言うのに、海外の日本人に擬態した詐欺師だったら優秀といった程度の言語力だ。
その時に比べれば、今は幾分かマシにはなったと思う。物書きではない一般人の平均レベルには何とか収まれていると、そう思っている。
それなのに、近頃私はいつも自分の古い作品を追いかけている。悔しいことに、過去の私の話の方が、私が書きたくて目指してきたそれに近いのだ。
世界観、発想、着眼点、全て今の私を遥かに上回っている。
当時の私は毎日のようにストレスの源へと出向いて、フラッシュバックと戦って、脚を割いて、よく分からない薬をザラザラ食べて、それを全部隠して生きていた。
日常を機械的に過ごしていたから、考える時間は沢山あった。叫び散らかしたくて仕方が無い呪いも、腐るほどあった。
だから、だろう。
私が書きたいのは、呪いだ。呪い、私を全て消化して、呪いとして残してやりたい。そう思って書いている。
その素となる重い感情は、あの日々と殆ど共に過ぎ去ってしまった。だから、中身の無い話ばかり書くようになってしまったのだ。
あの地獄をまた見にいけば、きっと、もっといいものが書けるようになると思う。
あの頃足りなかった文章力、インプット、経験値、いっぱいになったら、また会いに行こう。
だから待っててね、過去の私。
【お金より大事なもの】
( 2163 / 05 / 25 )
前の記録からかなり月日が空いてしまった。
文明崩壊が起きてから、もう15年もの時が過ぎた。
崩壊前の世界を殆ど覚えていない世代がだんだんと大人になり、新たな価値観を生み出し始めている。
俺は資本主義社会に産まれた。だから産まれた時からずっと、お金こそが全てであると教え込まれてきた。
貨幣経済が引き起こしたあの悲劇以来、人類は表立って通貨を用いらなくなったが、俺は…いや、あの悲劇を大人の身で生き延びた者たちの多くは、まだ貨幣信仰を辞められずにいる。
そもそも腹の足しにもならないただの紙切れと金属、それを今の今まで人類は信仰し続けていたのだと考えると滑稽だとすら思える。
しかし産まれた時から刷り込まれ続けて、その真の姿を見つめる事も無く大人になってしまったのだ。仕方があるまい。
だから俺達は、今も必死に通貨的価値を掻き集めている。もう変われないのだ。
俺達はもう古い人間で、この古い価値観は次期に淘汰されていくだろう。
新しい世界は新しい人間が作る。
その世界がまた俺達の時と同じような悲劇を繰り返してしまわないように…前置きが長くなってしまった、俺はつい最近教師になったんだ。
教え子達はとても優秀だ。何より若く、思考の凝り固まった俺なんかでは到底思い付かないような事を容易く思い付く。
いつもこっちが逆に教わっているようで、今は毎日が楽しい。
俺には固定概念に隠れて見えないたくさんの大事なものが、きっと彼らには見えているのだろう。
彼らはきっと新たな価値観・信仰を産み出して、社会をより良く作り替えてくれると、俺は信じているよ。
―――この日の記録はここまでのようだ。
【月夜】
「あっ、出てきた。」
彼女はそう呟いた。僕のことなんか完全に忘れた独り言だ。
「え、何が?」
それでも、反応せざるを得なかった。
これがただの独り言だって事くらい分かっている。何が彼女をそこまで夢中にしているのか、どうしても知りたかった。
「え?…あぁ、お月様。」
彼女は視線を逸らさず空を指さす。
その先にはただの欠けた月、雲の隙間で淡く輝いていた。
彼女はこんな退屈なものに見入っているらしい。
前に月を見上げた時の事を思い出す。
空を真剣に見つめるその横顔に見入っていた僕の視線を、誘導する彼女の人差し指。月光を反射したネイルストーン。
その時も、彼女の瞳の中を覗くように月を見上げた。そこには丸くすら無い、ただの月だけ。
「綺麗だ…」
思わずそう零してしまう。ただの月なのに、特別綺麗だった。悔しいほど。
「…そう?」
彼女は興味無さげに返事をしてくれた。