【月夜】
「あっ、出てきた。」
彼女はそう呟いた。僕のことなんか完全に忘れた独り言だ。
「え、何が?」
それでも、反応せざるを得なかった。
これがただの独り言だって事くらい分かっている。何が彼女をそこまで夢中にしているのか、どうしても知りたかった。
「え?…あぁ、お月様。」
彼女は視線を逸らさず空を指さす。
その先にはただの欠けた月、雲の隙間で淡く輝いていた。
彼女はこんな退屈なものに見入っているらしい。
前に月を見上げた時の事を思い出す。
空を真剣に見つめるその横顔に見入っていた僕の視線を、誘導する彼女の人差し指。月光を反射したネイルストーン。
その時も、彼女の瞳の中を覗くように月を見上げた。そこには丸くすら無い、ただの月だけ。
「綺麗だ…」
思わずそう零してしまう。ただの月なのに、特別綺麗だった。悔しいほど。
「…そう?」
彼女は興味無さげに返事をしてくれた。
【絆】
『で、今はどう思っている?』
「絆を、また一から築いていきたいと思ってる。」
『 “絆” 、ねえ…』
「でもやっぱり、そう簡単にはいかないみたい。」
―――息。
『絆とはキミ、要は脳活動の同調を生めばいいわけだ。それならsexをすればいい。』
「違うよ、絆って、そんなちんけなものじゃないもの…」
『ある種のネズミにおいて、オーガズムが脳を再配線し“絆” の形成を促しているという事を示唆する研究結果があり、もちろん人間においても同じ現象が起こると考えられている。“絆” とは、そういうものさ。』
「…なんか急に絆が安っぽく見えて、悲しい。」
『ああ、全部安っぽくて陳腐…そもそも、悲しみだって投薬で覆るんだ。』
「そう考えると、心ってくだらないね。」
【たまには】
「たまには」だって、馬鹿みたい。
いつもと同じなのに「たまには」なんて抜かすところまで、いつも通り。
たった61年と4ヶ月12日じゃ、あなたが変わるには短かったみたい。
その事実が、不思議と私の心の奥底を溶かしていく
「いつもじゃない。」と揶揄った。
何故だか、普段と変わらないこのやり取りに、涙を零しながら。
【大好きな君に】
「大好きな君に」なんて書かれた紙を、ボーッと見つめて立ち尽くす。
可哀想に、と思った。
この人がこの手紙を送った『大好きな君』なんてどこにも存在しないのに。送り主は哀れな事に虚像を只管愛し続けているというのだ。
でも、全部私のせい。
どうにか人になりきろうと『大好きな君』を演じ続けて、送り主を騙した、私のせいだ。
もちろん、応える気は無い。私を愛せる人間なんて、存在しないのだから。
ああ、これは決して悲しい事じゃない。誰も私を知らないというだけ、むしろ素晴らしい事ではないか。
拒絶され毎日後ろ指を指されて生きていく必要が無いというだけの事が、私には充分過ぎる程の幸せだった。
早い内に、手紙の返事を書こう。
『大好きな君』を演じながら。
【ひなまつり】
家の人達は、朝からせかせかと雛人形を出している。その様子に溜息をついた。
お雛様を出すのが遅れれば、遅れた分だけお嫁に行き遅れるらしい。
これは素晴らしい仕組みじゃないか、と思う脳裏を縁談の話が過ぎる。お雛様さえ出さなければ、これから逃げられると言うのだから。
しかし、誰も私を行き遅れさせてくれる気はないようだった。
今日は三月三日、雛祭り。
朝っぱらから綺麗に並べられた雛人形達とは視線を合わせないようにしながら、その場を立ち去った。