【雨に佇む】
しまった。傘を忘れてきた。
いつもの塾の帰り、シズクはビルの軒先で雨宿りしていた。すぐ近くにコンビニはないし、雨足もけっこう強い。少し涼しくなってきている季節なので、濡れて帰るには風邪をひきそうだ。
ザァーーっと降りやむ気配のない雨の音に耳を傾けていると、頭がぼぅっとしてくる。塾のすぐ近くで降り出したなら、同級生とか、誰かしら傘に入れてくれたかもしれないのに。あいにく知り合いが通りかかる様子はない。
空を厚い雲に覆われて、辺りは暗い。今日は母はパートの遅番の日だし、父はまだ仕事から帰ってきてないだろう。なすすべもなく、シズクは佇んだ。
やることもなくそうしていると、ふと、SNSで知り合った男性のことを思い出す。10歳以上年が離れた人で、既婚者子持ち。最初はシズクの描いたイラストを褒めてくれただけだった。そのうちやりとりをするようになって、最近じゃほぼ毎日だ。既婚者だし、SNSで知り合ったどこの誰だか分からない人に恋愛感情なんてもつ訳がないと思っていたが、やりとりを重ねるにつれて、誰よりも理解してくれる、大切な人になっていた。いつも見た目で判断されることにウンザリしていたシズクにとって、外見に関わらず心を見てくれて、親身になってくれる人なんてこれまでいなかったから、恋愛経験の少ないシズクが絆されるのも時間の問題だった。
あの人の住む地域も、同じような雨が降ってるんだろうか。こんな雨の中あの人が帰ってきたら、わたしならタオルを持って玄関まで走って出迎えるのに。
シズクはそっと頭を振った。このところ、ぶつける先のない感情ばかりが大きくなって、苦しい。心臓をレモンみたいに擦りおろされてる気分だ。好きになったってしょうがないんだから、忘れよう。
そんなことを考えていると突然、暗闇からぬっと人影が現れて、シズクは思わず小さく悲鳴をあげてしまった。身体の大きな男性が雨宿りしようと入ってきたのだ。
「あ、すみません。」
シズクを驚かせたのを悪く思ったのか、男性はすぐに出ていこうとした。シズクはなぜかとっさに男性の手をつかまえて、
「雨、強いですよ。」
と引き止めた。
「え、ああ、じゃあ。」
男性は戻ってきてシズクの隣に立った。シズクも女子の中では背は高い方だが、その男性はもっと大きい。バスケ部の男子くらいありそうだ。
暗闇に目が慣れてきて、その男性が近くの高校の制服を着ているのに気づいた。
「前山高校なんですか?」
勇気を出して、聞いてみる。
「あ、そうです。」
返事が返ってきた。
「何年生ですか?」
「あっとー、2年です。」
「じゃあ、同じ年ですね。私は聡慧高校の2年です。」
「あー、おれ、留年してるんで、同い年ではないです。」
わざわざ初対面の相手にそこまで正直に言わなくていいのに、その男性は大きな体を縮こまらせながら言った。
(なんか、思ったより優しそうな人。)
シズクは心の中でクスクスと笑った。
「雨、止まないですね。塾の帰りですか?」
「そう。あなたは?」
「おれはバイト帰りなんですけど…」
それからしばらく、会話が続いた。大降りの雨音の中、ポツリポツリと、一つ聞いたら一つしか返ってこない、静かでのんびりとした会話だった。
「あ、雨、弱くなってきましたね。」
「ほんとだ。これなら帰れそう。」
先程までバケツをひっくり返したように降っていた雨が、いつの間にか小雨になっている。
「じゃあ、気をつけて。」
身体の大きい、前山高校の男子。彼はあっさりその場を離れて小走りに去って行った。年の近い男の子と話したのは久しぶりかもしれない。学校では高嶺の花になってしまっていてあまり誰も話しかけてこないからだ。
(もう会えないんだろうなぁ…)
ほんのり寂しさを抱えながら、彼の走っていった方向を見つめて、シズクは佇んだ。
【向かい合わせ】
レイは緊張したまま、向かい合わせに座った身体のデカい男を上目遣いに見た。
名前はナカジマシュンと言うらしい。通っている高校はレイの通う高校より偏差値が低い所だ。それに目つきが悪くていかにも、不良みたいな雰囲気の男。普段なら絶対に関わりたくないタイプだが、この男の体格は完璧だし、カフェの店長とのやりとりを見ている限りでは、そんなに危ない奴ではないはずだ。
「なにそれ?」
男が喋った。レイのカバンの中のスケッチブックを指差している。
「え…と、これは僕が書いたデザイン画なんだけど…」
「見てもいい?」
「う、うん!」
レイからスケッチブックを受け取ってパラパラとめくり始めたシュンはほとんど表情を変えずに、
「すげぇ…」
とつぶやいた。仲の良い友達には何度も見せてるし褒められるのは慣れてるはずなのに、なぜか顔から火が吹き出しそうだ。
いつも、少し斜めから物事を見てきた。こうやって真正面から何かに立ち向かい、真正面からのぞき込まれるのは、怖いし、いたたまれない気持ちになる。でも、これはチャンスでもあるんだ。
「ここ、最後のページ。」
そこには、がっしりした男性に着てほしくてデザインした、黒をベースとした衣装が書かれている。
「なんか、ガンダムみたいでかっこいいな。」
シュンの顔が一瞬、おもちゃを見つけた子どものように輝いて見えた。
「うん。『変幻』っていうテーマで作ったんだ。着方を変えると、日常的にも着れるようなデザインにしてある。」
「へぇ。」
レイはすぅっと息を吸い込んで、言った。
「これを、着てほしいんだ。モデルになって欲しい。」
シュンがぽかんとした顔をしている。
「え、俺が?なんで?」
「なんでって…。体格がいいし、イメージにぴったりなんだ。絶対かっこよくなるよ!」
シュンは目をぱちくりさせてこっちを見ている。眼光鋭いと思っていた瞳は、よく見てみるとただひたすらに黒く、何もないようにすら見える。まるでブラックホールだ。
(吸い込まれそう…)
もちろん気のせいだろうが、かすかに引力のようなものを感じてめまいがしかけたときだ。店長の声が聞こえた。
「シュン、モデルやるの?いいねぇー。背も高いし、ばっちりハマるんじゃないの?」
例にもれず、なんともいけ好かないニヤついた顔でカウンター越しにこちらを見ている。日曜日のお昼どき、料理の出ないこのカフェはガランとしていて、レイたちの他に客はいない。
「別にいいけど…、具体的にどんな事すんの?」
「まず、シュ、シュン君の体格に合わせて衣装を制作するから、採寸させてほしいんだ。出来上がったら着てもらって、写真をとりたい。」
名前を呼ぼうとして、噛んだ。穴があったら入りたい。
「それくらいなら、いいよ。」
シュンは何も気にしてなさそうだ。
「ほんと?じゃあ、今度うちに来てもらってもいいかな。」
今度は跳び上がって叫び出しそうだ。レイはなんとか感情を抑えた。もしかしたら文化祭でファッションショーができるかもしれない、ってことは、まだ言わなくていいかな。
(冷たい奴に見えたけど、こんな顔するんだな。)
シュンは心の中で感心していた。レイは抑えたつもりだったが、デザインにかける情熱、その熱量は、向かい合わせに座るシュンの方までしっかりと流れ込んで来ていたのだ。
【やるせない気持ち】
いつもやるせない気持ちをどこかに抱えている
タバコに火をつけて、シュウイチは大きく息を吐いた。
それなりに、幸せな人生だと言える。カメラマンとしてそこそこ名を挙げているし、元モデルの美人妻がいる。子どもはふたり、中学生の娘と高校生の息子がいる。二人ともそこまでグレてないし、問題はないだろう。
じゃあ、なぜこんなに不満を感じるのか。
そこそこの富、そこそこの地位、そこそこにやりがいのある仕事。あまり外見には恵まれなかったが、なぜか女には困らなかった。カメラマンとしての仕事だけで食っていけるようになるまでも、ヒモみたいなことをして上手く生きてきた。正直、末っ子としての「危うさ」が女たちの母性本能を上手く刺激してくれたのだろうと、シュウイチは思う。
そうは言っても、おれはいつだって本気だし、真面目に生きているつもりだ。それなのに、夜になるとどうしようもない虚無感に襲われる。そして女を漁る、の繰り返しだ。どうしようもない。
タバコの灰を少し落とし、シュウイチはスマホの画面に視線を落とした。自分が送る私生活の荒れ具合とは程遠い、世界の絶景ばかりを撮るカメラマンのアカウントをいくつかフォローしている。
彼らだって、シュウイチと同じそこそこに汚い道を歩いてきたはずだ。それなのに、彼らのファインダーを通して見る景色は、これほどまでに美しい。
(いっぺん、充電期間と称して旅行でも行きてぇな)
そう考えた瞬間、脳裏にはカナコの顔が思い浮かぶ。最近は娘のレオナの心配ばかりしている。
(不登校なんて、勝手にさせとけよ)
スマホの画面をスクロールして、REONAのアカウントを開く。
(部屋にこもってる間に、こんな才能が花開くなら、学校なんか行く必要ねぇだろ)
その攻撃的な音楽の裏側には、シュウイチや、カナコへの恨みに近い激情的な思いが原動力になっている事は明らかだった。
(アーティストあるあるだな…)
気づけば、タバコがかなり短くなっている。シュウイチはタバコを携帯灰皿に押し付けながらため息をついた。
(負の感情ばっかりが、芸術の燃料になんだ。)
これを、やるせない気持ちと呼ばずになんと呼ぶのだろう―――――。
【さよならを言う前に】
何か一つ、もう一度伝えられることがあるとするならー
もし何か未練が少しでもあるなら、さよならなんて言うべきじゃないんだ
じゃあ、なぜ別れを選択したのか?
それが説明できないなら、死んじまえ
「ちょっと思想が強いんじゃない?」
マコトが言う。
「俺はよく知らない。そっちが聞いてきたんでしょ。最近どんな歌が流行ってるのって」
「いや、そうだけど」
学校が休みの土曜日。いつもより少し遅い時間にマコトのカフェを訪れたシュンは、コーヒーを啜りながら顔をしかめた。
「まぁ、良かったじゃん。音楽何聞いてるか教え合えるような友達ができて。」
「・・・。」
高校生のシュンがこのカフェに通うようになったのは、留年してほとんどグレて夜の街で喧嘩してぶっ倒れてるところを、このカフェの店主、マコトに介抱されてからだ。それ以来、なんとなく近所のおばちゃんみたいな雰囲気のあるマコトの店に入り浸っている。
「同級生じゃねぇよ。」
「え、じゃあ、誰?」
シュンは少し大きく息を吸ってから言った。バイトを始めたことはまだマコトには話してない。
「バイト先。」
「え?バイトなんかしてんの?いつの間に!」
ほとんどじゃれ合っているような二人の後ろで、マユミはカフェのドアを開けたまま固まって二人を見ていた。
「おじさんて、なぜか若い男好きですよね。」
マユミのすぐ耳の後ろで、見透かしたような声が聞こえた。振り向くと、綺麗な顔立ちの少年が立っている。これまた高校生くらいか。
「え、今私の考えてること分かっ・・・」
「とにかく、お姉さん、中に入ったらどうですか?シンプルに邪魔なんですけど。」
「あ、ごめんなさい・・・」
マユミは道を譲るように端に寄った。
「あ!ナガツカ先輩!」
マコトの声に振り返ると、背の高い男子高校生の腕を掴んだまま、こちらに手を振っている。
「・・・。よっ。」
我ながら間抜けな声である。
「お客さんも。いらっしゃいませ。」
マコトはマユミの後ろにいる美少年に営業スマイルを向けた。
マユミは背の高い男子高校生のいるカウンター席に座った。マコトは美少年の方に注文を取りに行った。男子高校生は身長180cm以上はあるだろう。体格もいいし、不良っぽい目つきの悪さだが、まだ幼さが残るのか、よく見ると可愛い。タケヨシマコトはそれに比べると少し背が低く、もちろん可愛い。
「先輩は何にしますか?」
「あ、えーと・・・」
タケヨシと会うのは、あの日以来、つまり、お泊りをしたものの何もなかった日以来だ。マユミは多少の気まずさがあるのに、タケヨシはあっけらかんとしている。
「じゃあ、ホットカプチーノで。」
「はい、かしこまりました~」
マコトはカウンターの内側にまわる。コーヒーの準備をするマコトの手つきを眺めながら、マユミはモヤモヤしていた。どうにかこの男子高校生の正体を暴けないかな・・・。
「先輩、最近はどうですか?」
マコトの声に顔を上げると、いつもの優しそうな表情でこちらを見ている。男子高校生の方は、素知らぬ顔をしてスマホを見ている。
「ん~、特に変わりないよ!あ、タケヨシくん知らないでしょ、最近若い子の間で流行ってる歌~。これ!」
マユミはスマホでREONAの新曲、「さよならを言う前に」を出してマコトに見せた。もちろん横にいる男子高校生の反応も伺っていた。うまくいけば、話せるようになるかもしれない。
「えっと・・・。」
客が少ないとは言え、カフェの雰囲気にそぐわない音楽を大音量で流すわけにもいかないので、そのままスマホをマコトに渡す。
「あれ?これって、さっきシュンが教えてくれた曲?」
そう言うとマコトはマユミの許可も取らずにスマホをシュンに見せた。
「ああ・・・、そうっすね」
シュンは遠慮がちにマユミのスマホを覗き込んだ。
「先輩、こういう歌聞くんですね。ちょうどさっき、思想強くない?って話してたんですよ。」
「え、そうなの?」
シュンを巻き込むことを狙っていたとはいえ、あまりにドンピシャでマユミはうろたえた。
「俺はいい曲だと思いますよ。他にもいろいろ勧められたけど、それが一番良かった。」
シュンが言う。
「そうよね!!」
それから結局、シュンという男子高校生とREONAについて語り合ってしまった。といっても、ほとんどマユミが熱弁しているのにシュンがうなずくだけだったが。
気が済んだのか、マコトが先輩と呼ぶ女の人が店を出て、マコトも見送りに付いていった。
「もし何か未練が少しでもあるなら、さよならなんて言うべきじゃないんだ」
シュンは歌詞を眺めて、思った。「死んじまえ」と思うほど、母親を恨んだことはない。
(さよならすら、言わせてもらえなかったしな・・・。)
マコトの先輩のせいで冷め切ったコーヒーを喉に流し込んだ。
【鏡】
シズクは鏡を見た。
そこには見慣れた顔がある。その無駄な造形美のせいで生きにくさを感じてることはもうどうでもいいし、考えないようにしている。
それでも穴が開くまで鏡を見つめているのは、子供のころ読んだ鏡の中に広がる世界のファンタジーを描いた本のことを思い出していたからだ。
現実では虐げられていても、自分のカラを破れなくても、どんな姿をしていても、ひとたび鏡を潜り抜けて違う世界へ行けば、己を苦しめる暗黙の了解というしがらみも、偏見もカーストも何もない。自由でありのままの自分で冒険ができる。
シズクの現実の世界を、苦しいとか、大変だとか、ましてや無理ゲーなどと表現する者はいないだろう。でもそれは他人の主観だ。他の人達が楽をしているとは思わないが、自分が苦労していないとも思わない。
シズクは鏡をそっと押してみた。物語とは違って、それは無表情で冷たく、硬くシズクの手を押し戻した。
ふと気づくと、その鏡の中に、知らない女生徒が写っていた。シズクは少し目を泳がせたが、精いっぱい素知らぬ顔をして、もう一度手を洗い、ポケットからハンカチを取り出して手を拭いた。
その間もずっと女生徒はシズクの後ろに立っていた。
「どうかした?」
意を決して、シズクが尋ねる。
女生徒はうろたえたような顔をして、
「いえ、なんでもありません。」
女生徒は一つ下の学年の色のジャージを着ていた。
腰まで届きそうなロングヘアが少し不自然に光ったような気がした。よく見ると、女生徒といっても、少し筋張った腕が気になる。
(いや、あんまり見るのも悪いな)
シズクはそのまま振り切るように女子トイレを出た。
シズクのいなくなったトイレで、今度はレイが鏡を見つめていた。
(ヨシカワ先輩・・・だよな。)
一つ下のレイの学年にも、彼女の名は知れ渡っている。才色兼備、文武両道、完璧超人と言われる人だ。
(先輩が、Kanzaki・・・?そんなまさかな・・・。)
レイは、SNSでたくさんの絵師たちをフォローしている。色彩やコンセプトなど、服のデザインに繋がるところがあるからだ。
(でも、あのキーホルダーは・・・。)
シズクの制服のポケットから出ていたキーホルダーに、見覚えがあった。
たしか、Kanzakiの投稿で見かけたような・・・。
Kanzakiとは、イラストや、短いアニメーションを投稿しているユーザーだ。その、やけに純粋で卑屈な世界観が癖になる。
(まさかな・・・。)
そう思いながらレイは鏡を見る。そして思い出す、鏡越しに見たシズクの顔。
(なんか、別人に見えたな・・・。)