【いつまでも捨てられないもの】
(あら、寝落ちしちゃったのね)
ユキノは静かな寝息をたてているサキの手から、そっと手帳を引き抜いた。
今日はパートの仕事が長引いてしまい、慎ましやかなアパートの部屋に戻ってくる頃にはサキはソファで眠ってしまっていた。身体の弱いサキは小さい頃から入退院を繰り返しているが、ここのところは少し調子が良く、自宅に戻っている。
サキに毛布を掛け、サキの手帳を娘のかばんにしまおうとしたところ、ひらりと、なにかが手帳から落ちた。拾い上げてみると、それはサキが小さい頃に親子3人で撮った写真だった。3人で水族館に出掛けた時の写真で、サキはおみやげに買ってもらったイルカのぬいぐるみを嬉しそうに抱いている。夫も元々のタレ目をさらに垂れさせて、すっかり娘に骨抜きになっているのが分かる顔だ。
(まだこんなの大事に持ってるのね。)
夫のカズオとは、夫の借金を理由に離婚した。サキの医療費がかさむというのに、その上夫の借金まで負うことなんて到底できない。ユキノは早々に見切りをつけて離婚を切り出した。夫の面倒まで見てられないと判断したからだ。
(それ以外、不満なんてなかったのにね…。)
ユキノはかつての夫の顔を眺めた。カズオは断りきれない優しい性格で、ギャンブルを始めたのも付き合いだった。従来真面目に働くし、妻にも娘にも優しいし、文句のない夫だったのに。
(優しいだけじゃだめなのよね。強くなきゃ。)
古い写真を手帳に戻し、娘のかばんにしまいこむ。離婚してから、娘とはパパの話はあまりしていない。サキも何も聞いてこないから、もうすっかり忘れてるのかと思っていたけど。捨てられないものなのね。
そんな事を考えながら、ユキノは無意識に左手の薬指を触っている自分に気づいた。自嘲気味に笑いながら、印鑑などを入れている引き出しを開く。そこにはまだ、カズオから贈られた結婚指輪があった。どんなにお金がなかったときも、結局、売れなかった。
(わたし、まだあの人のこと愛してるのかしら?)
問いかけながら、指輪を左手にはめてみた。
(うーん。情が残ってるだけね。悪い人じゃなかったから。)
「ママ…?帰ってたの…?」
不意にサキの声が聞こえ、ユキノは慌てて指輪を外し引き出しにしまいこんだ。
「ええ、さっき帰ってきたとこよ。ただいま。」
「おかえりなさい」
あの人への情は捨てられないかもしれないけど、何よりこの子を守らなきゃ。
【夜の海】
夜の海は優しい。
夜の海はミステリアスだ。
海風が絶えず吹き付け、意外と冷える。
波の音が続く。
空に浮かぶ月が、波の上に道を作っている。
わたしは海の底でしか、息ができない。
そこで踊りつづけるのだ。
目にとめる者などいない。
誰にも聞こえない歌を歌う。
ずっと独りでいるんだと思ってた。
ふたりが軽やかに舞えるのはここだけ。
日が昇ればまた重く濡れたからだを引きずって
今日という日を生きるの。
夜の海で会えた時だけ――――。
シズクは目を覚ました。微かに残る夢の余韻が体にまとわりついて重く、起き上がれない。
なんであんな夢を見たのか、原因は分かっている。昨日舞い上がって考えたアニメーションのせいだろう。絵コンテのラフを書いている途中で寝落ちしてしまったらしい。
鉛のような体をなんとか持ち上げてベッドの端に座る。壁際に置いてある姿見に映る自分が目に入った。
(寝起きだというのに、無駄に整った顔)
長く伸ばした黒髪は癖のないストレートで艶があり、誰からも羨ましがられる。というより、彼女には他人から羨ましがれない所など一つもなかった。くっきりふたえのまぶたに長いまつげ、ひとたび目が合えば吸い込まれそうな柔らかな黒の瞳、スッと通った鼻筋、小ぶりでかわいらしい唇、長い手足。なんとなく人を寄せ付けない雰囲気の美人だ。その上頭も良く、スポーツもできる。
(はぁ…)
顔を洗って、鏡に映る自分を睨みつけた。才色兼備。それが彼女に似合う言葉だ。彼女自身は、見た目や成績といった表面上の事で評価されるのに辟易していた。それでいて、一度「見目麗しい女性」として扱われることを味わってしまうと、そこから降りることをプライドが許さない。常に気を張っていなければならなくなる。息苦しさを感じるが、何よりそこから降りられない自分に腹が立つ。
(息が詰まる…)
制服を着て、靴下を履こうとしたが、昨日塗った深い青のフットネイルが目に入って、顔が緩んだ。
(わたしの自我は、ちゃんと足の爪に隠してる)
夜の海をつま先に閉じ込めて、シズクの一日がスタートした。
【自転車に乗って】
〜ハルトにっき〜
ぼくはもうお兄ちゃんだから、自転車に乗ってどこまででも行ける。今日もあいしゃに乗ってぼうけんだ。
ぼくのあいしゃは青のボディーにシルバーの文字が書いてあってさいこうにかっこいい。なんて書いてあるかはまだ読めないけど、たぶんかっこいい事が書いてある。
自転車に乗るのは気持ちがいい。風がふいてすずしいし、はやく走れる。いつも遊んでるこうえんをぬけて、かどのコンビニを曲がって、走りつづける。どこまででも行ける。途中、この間会ったお兄ちゃんとすれちがったから、手をふった。お兄ちゃん、カノジョとなかなおりできたかな。
小さい川が流れているところまで来た。ようちえんの先生に教えてもらった葉っぱでつくるふねをつくってながしてみた。ふねはすぐに流れに乗って、どんどん進んでいく。ふねを追いかけるように、ぼくもどんどん自転車をこいだ。ふねは草に引っかかってうごかなくなった。ぼくはもっと走れる。でも少しくらくなってきたからそろそろ帰ろうかな。
近所の犬はいつも吠えてるからきらいだ。できるだけ道の反対側をとおって、猛スピードですりぬけた。
「ハルト、おかえり」
ママがちょうど玄関の前に立っている。
「だいぶ上手に乗れるようになったわね。そろそろ補助輪取ってもいいかしら。」
ほじょりんまで取れたら、ますますかっこよくなっちゃうな。明日も自転車に乗ってぼうけんだ!
【君の奏でる音楽】
ユウキはヘッドホンに両手を当てたまま、少し眉をひそめた。
最近一緒に楽曲制作をしているREONAから送られてきたギターの音源を聞いたところだ。ユウキはキーボード担当で、これに合う音を当てていく役目。
正直、REONAから送られてくるギターの旋律は毎度 攻撃的過ぎて、最初に聞くときは少し抵抗を感じる。反抗心や絶望感ばかりが伝わってきて悲しい気持ちにすらなる。それでもREONAとの楽曲制作に付き合っているのには理由があった。
ユウキはGANと書かれたアカウントを開き、REONAに返事を書いた。今はREONAとはこの名前でやりとりしていて、自分は引きこもりだと話している。REONAの方はGANの事をネット上の知り合いとしか認識していないが、実際は違った。
ユウキとREONA、もといレオナは幼馴染だ。小さい頃から家が近所で、よく一緒に遊んでいた。同じ小学校、中学校に通っているが、最近レオナは引きこもるようになって、学校にも出てこない。ユウキは何度も部屋の前まで行って話しかけたり、DMを送ってみたりしたが、全部無視されてしまった。
そんな時に、SNSでREONAというアカウントを見つけた。同級生の文句や親の愚痴などを呟いていたので、なんとなくレオナ本人だと見当がついた。それで、騙すようで心は痛んだものの、同じく引きこもりの中学生、GANとして話しかけ、仲良くなった。次第に、共通の趣味である音楽で話が盛り上がるようになり、一緒に楽曲を作るようになった。他にも、SNSで知り合った同じような年齢、境遇の仲間ができ、すでに何曲か作ってはSNSで公開している。少数ではあるが、コアなファンもいる。ついこの間には、「絶対課金したいので配信アプリに出す時はお声がけください!」なんてDMまで届いたようだ。ユウキとしては人気になることよりも、いつかまた、部屋の外に出てきてほしい、そんな想いでずっと楽曲制作に付き合っている。
小さい頃からレオナはよくギターを弾いてくれた。憧れのギタリストの話もたくさんしてくれた。でもあの頃はレオナの奏でる音楽はこんなに攻撃的ではなかった。レオナはどちらかと言うと女王様タイプの気質で、気の弱いユウキはほとんど子分のような扱いを受けていたが、彼女が根は真面目で、面倒見がいいことを、ユウキはよく知っていた。何よりも、彼女の指先がつまはじくメロディは優しく、自信に満ち溢れていて、心地よかった。
何が彼女をここまで駆り立てるんだろう。思考を巡らしながら、ユウキはもう一度REONAのギターを流し始めた。
曲の途中、聞き覚えのあるメロディが耳をかすめる。どこで聞いたんだろう。確か………。
ユウキはハッと我に返った。そうだ、これは小さい頃、二人で作ったメロディだ。懐かしい気持ちも手伝って、切ないメロディがさり気なく組み込まれた小節に一気に豊かな香りが立ち上った。そうか、これは、ただの攻撃ではない。葛藤だ。挫折、迷い、葛藤…。それでもまだ諦めていない、芯の強さ。
(やっぱり、君の奏でる音楽は、いいね)
ユウキはひとり微笑みを浮かべながら、キーボードで音を探し始めた。
【麦わら帽子】
まだ日差しの強い秋口。レイは一人でばら園に来ていた。
レイは花が好きだ。
小さい頃家族で旅行に行った沖縄で、南国のカラフルな花々を見て衝撃を受けてから、花をモチーフにしたデザインをたくさん描いてきた。特に、「いぺー」と呼ばれる濃い黄色の花を見て感激し、部屋にはイエローのカラードレスのデザインが何枚もある。いつかもっと自由に使えるお金ができたら、実際に作るつもりだ。
そういう理由で、今でも時々花園に出かけては写真を撮ったり、簡単なデッサンをしている。
斜面に植えられたバラの華やかさを堪能し、トンネルになった温室を抜ける。香りもいい刺激になる。甘く誘惑するような香りや、ただひたすらに美しく爽やかに立ち去るような香りもいい。バラにはたくさんの種類があるから、見ていて飽きない。ベルベットのような肌触りの真紅のバラや、少し触れただけで裂けてしまいそうな透き通る白い一重咲きのバラ、かすれたようなピンクの花びらが重なりあって陰影が美しいバラ・・・。一つ一つモチーフにしてドレスを作って、そのバラの名前を付けたいくらいだ。
円形になった花壇の中で、エレガントレディという名前のバラが気を引いた。柔らかくしなやかな花びらは、中心から端に向かってクリーム色から可愛らしいピンクへと変化する。華やかというよりは、純真で優しいイメージだ。
秋空に向かって背を伸ばすその姿を写真に納めてふと振り返ったレイは一人の少女に目を奪われた。
透け感のある柔らかなアイボリーのワンピースに、麦わら帽子。少女はとても華奢で、色が白く、儚くて、今にも消えてしまいそうに見える。そんなからだとは対照的に、興奮を隠しきれない明るい笑顔がとてもまぶしい。少女はちょうど温室から出てきたところで、眼下に広がる美しい景色にとてもはしゃいでいるようだ。
こちらの視線に気づいたのか、少女が少し不思議そうな顔になった。すぐに後ろから母親らしき女性が顔を出し、こちらを伺うようにして見る。
今日のレイはフード付きのカジュアルなロングワンピースを着ていて、キャップをかぶっていた。暑いのは覚悟でミディアムの長さのウィッグをかぶり、三つ編みにしていた。遠目には男だとは分からないだろう。軽く会釈をして立ち去ろうとしたとき、母親らしき女性の方が話しかけてきた。
「もしかして、レイくんじゃない?」
レイは驚いて立ち止まった。
「はい・・・。どこかでお会いしましたか?」
「もう覚えてないかもね。むかーし、公園でサキと何度か遊んでくれたことがあるのよ。」
後ろに立つ麦わら帽子の少女を指さす。
「サキちゃん・・・?」
懐かしい記憶が呼び出された。そういえば、あの頃もこんな麦わら帽子をかぶった女の子が公園にいて、一緒に遊んだっけ。
「サキは覚えてない?ほらあなた、体が弱いからなかなか他の子と一緒に遊べなくて、でもレイ君は一緒に木陰で花冠作って遊んでくれたでしょう。」
「あ・・・!覚えてる・・・!」
「あの時から美少年だったけど、ほんと素敵に成長したわね。」
サキの母親がにっこりと笑う。すっと通った鼻筋に、流し目が色っぽい表情を作る。素敵という言葉はあなたのためにあるのでは、とレイは思った。名前は確か、藤本さんだ。
「そういえばよく、親子と間違われていましたね。サキちゃんはお父さん似で。あ、今日はお父さんは・・・?」
「ああ、あの後離婚したのよ。今は二人暮らし。」
藤本さんが肩をすくめた。
「って言っても、わたしはほとんど病院だけどね。」
二人ともあっけらかんとしている。
「レイ君は一人?」
「はい、たまに一人で来るんです。花を見てるといろんな服のデザインが思い浮かぶから。」
「あら、デザイナーさん目指してるの?」
それからしばらく雑談をして、連絡先を交換した。
「サキとまたお友達になってちょうだい。この子、あんまり友達いないから。」
「いないこともないわよ。」
ふくれっ面もかわいらしい。
別れてからもしばらく、ワンピースをなびかせながら歩いていくサキの後姿を眺めていた。麦わら帽子のつばからのぞく白いうなじが、日差しを浴びて輝いているように見えた。一言でいうと、儚げな少女。
(もしかしてモデルにぴったり…?)