【夜の海】
夜の海は優しい。
夜の海はミステリアスだ。
海風が絶えず吹き付け、意外と冷える。
波の音が続く。
空に浮かぶ月が、波の上に道を作っている。
わたしは海の底でしか、息ができない。
そこで踊りつづけるのだ。
目にとめる者などいない。
誰にも聞こえない歌を歌う。
ずっと独りでいるんだと思ってた。
ふたりが軽やかに舞えるのはここだけ。
日が昇ればまた重く濡れたからだを引きずって
今日という日を生きるの。
夜の海で会えた時だけ――――。
シズクは目を覚ました。微かに残る夢の余韻が体にまとわりついて重く、起き上がれない。
なんであんな夢を見たのか、原因は分かっている。昨日舞い上がって考えたアニメーションのせいだろう。絵コンテのラフを書いている途中で寝落ちしてしまったらしい。
鉛のような体をなんとか持ち上げてベッドの端に座る。壁際に置いてある姿見に映る自分が目に入った。
(寝起きだというのに、無駄に整った顔)
長く伸ばした黒髪は癖のないストレートで艶があり、誰からも羨ましがられる。というより、彼女には他人から羨ましがれない所など一つもなかった。くっきりふたえのまぶたに長いまつげ、ひとたび目が合えば吸い込まれそうな柔らかな黒の瞳、スッと通った鼻筋、小ぶりでかわいらしい唇、長い手足。なんとなく人を寄せ付けない雰囲気の美人だ。その上頭も良く、スポーツもできる。
(はぁ…)
顔を洗って、鏡に映る自分を睨みつけた。才色兼備。それが彼女に似合う言葉だ。彼女自身は、見た目や成績といった表面上の事で評価されるのに辟易していた。それでいて、一度「見目麗しい女性」として扱われることを味わってしまうと、そこから降りることをプライドが許さない。常に気を張っていなければならなくなる。息苦しさを感じるが、何よりそこから降りられない自分に腹が立つ。
(息が詰まる…)
制服を着て、靴下を履こうとしたが、昨日塗った深い青のフットネイルが目に入って、顔が緩んだ。
(わたしの自我は、ちゃんと足の爪に隠してる)
夜の海をつま先に閉じ込めて、シズクの一日がスタートした。
8/15/2023, 3:53:48 PM