『秋🍁』
春は恋の季節だと言うけれど、私にとっては秋こそが恋の季節。
私が求めているのは、桜のような淡い桃色ではなくて。暖かくて穏やかな空気でもなくて。
美しいけどちょっとドライな、涼しくて心地いい、さっぱりとした秋のような……そんな恋。
甘い空気は、私にはいらないから。
だから、この心地のいい関係のままで……できるなら、ずっと。
『声が聞こえる』
夜の砂浜。
潮風とさざ波の音だけが耳を掠める。
何の目的もなく、ただ一人で砂浜を歩いていた。
そのとき、声が聞こえた。
少し離れた崖の上。一人の少女が立っている。童謡のようなリズムで、素朴な声が言葉を紡ぐ。
歌詞はたぶん、英語だと思う。
儚げで、決して大きな声ではないけれど、下にいる私にもよく聞こえた。
少女は自らの腹部に手を当てて、時々撫でているように見えた。歌うときの癖なのかもしれない。
少し叩けば壊れそうな歌声だった。泡沫のようだ。
綺麗なのに、とても痛々しい。
彼女の見えないところに、まだかさぶたができていないジクジクした傷があるような気がした。
____あの子の傷を、潮風が刺激しませんように。
てきとうに歩いていたこの砂浜でも、ふと聞こえてきた声の先にも、きっとこんなふうに、物語が広がっているんだろう。
それは楽しい話かもしれないし、悲しい話かもしれない。
でも、声が聞こえるだけで、その先を思い描けるなら。それはきっと、本や映画よりもよほどリアルなノンフィクションになると思う。
それが見えるなら、こういうてきとうな散歩も悪くないかもしれない。
『秋恋』
恋することを、春が来ると言うけれど……
私の恋は、春なんてとっくに過ぎてしまった。
桜のような、ほんのり淡く可憐な桃色ではなくて。春風のような、包み込む温もりのあるものではなくて。
はっきりとした色で、鮮やかだけど少しドライな、さっぱりとした……まるで秋のような恋。
仲のいい友達にはバレてるし、私自身もしっかり自覚している。けれど、甘い雰囲気にはなりたくない。付き合いたいとも、大して思わない。
今のように、普通の友達より仲がいい、くらいのさっぱりした関係。
これが心地いい。
だから、このままでいい。
……やっぱり、この恋は秋でもないかもしれない。
いろんな木の実が実る秋という季節で例えるには……
私の、実らせるつもりのない恋は、とても似合わない。
『大事にしたい』
「大事にしたいんだ」
そう言っておいて、私に何一つ選択肢を与えなかった彼。
いらないと言ったブランド物のバッグ。
やめさせられたバイクと庭仕事。
せっかく行ったのにやらせてもらえなかったバンジージャンプ。
私を真綿の中心に押し込んで、私の望むものは与えてくれなかった彼。
私は安くて使い勝手のいいものが好きだ。
バイクで風を切るのが楽しい。庭のバラは、たまに怪我をしてでも、綺麗に手入れするのがいいのだ。
そして、よく意外と言われるが、スリルのあることが好きだ。
それが私。
……大事にするって、なんだろう。
彼は私にいっさい傷をつけたくなかったんだろう。ずいぶんと丁寧に扱われていたと思う。
でもそれはきっと、「人を大事にする」ことじゃない。
彼とは別れた。
丈夫でシンプルなトートバッグを荷台に乗せて、今は海岸線沿いを一人でツーリングしている。
「大事にしたい」……それはただの免罪符。私を閉じ込めておくための呪い。
人を大事にするとはどんなことなのか、はっきりとは言えないけど。
あんな彼より、今この瞬間の私自身のほうが、私をよっぽど大事にしていると思う。
今日の風は、一段と涼しい。
『時間よ止まれ』
あの子が乗った電車が遠ざかっていく。
ホームの端、古びた柵から上半身を乗り出して、目だけで電車を追う。
満員電車の窓を覗くといろんな人が見えるけれど、小柄なあの子はその中に埋もれていて、指先ひとつも見えやしない。
でも、窓は開いている。
今ならまだ届く。私の言葉。
大声で、叫んだらきっと、あの子の耳にも届く。
ずっとずっと、言えなかった言葉を。
何日も、何ヶ月も、心の中で育て続けた大切な言葉を。あの子のための言葉を。
『ありがとう』って言わないと。
そう思うのに、声が出せない。
大声で叫ぶのって、けっこう勇気がいる。
そんな簡単なことにすら思い至らなかった。
柵を握る手に力がこもる。大きく開けた口が、当惑している。行き場をなくした小鳥のように、震えている。
……まだ届くのに。今なら、まだ
時間がほしい。たった数秒。
大きく息を吸って、吐いて、心臓の音を聞いて……自分の中から勇気を見つける時間が、ほしい。
そう思ううちにも、どんどん電車は駆けていく。
はやくしないと。きっとこれが最後なんだから。
だから……お願い。少しだけ。少しだけでいいから。
「時間よ……止まれ」