/一年後
ぽた、ぽた。ぽた、ぽた。
髪から大粒の水滴が落ちる。
ぽた……ぽた。
頬を撫で顎に伝った水滴が地面を濡らす。
これで一体何回目だろうか。数えるのはとうの昔にやめてしまった。けれど、今日こそはと思って川に飛び込んで失敗したこの感覚は飽きるほど多く体験してきた。
何がダメだったのだろうか。
川の深さ? 流れの強さ?
足に重りも付けた。藻掻いてしまわないように睡眠薬もたらふく飲んだ。
失敗の要因が分からない。
※※※※※
家に帰ると部屋の電気が着いていた。僕の元を訪れる人間なんていないに等しいけれど、もしいるとするならコイツだろうという人物に心当たりがあった。
「……ねぇ、何しに来たわけ? 迷惑なんだけ……ど」
びしょ濡れのコートを廊下に放り投げ、リビングに足を踏み入れる。吐き出す文句はどんどん小さくなり、最後は消え入りそうなほど小さくなった。
リビングのテーブルにあるのは豪勢なケーキ。その前にいるのは予想通りの彼の姿。
「今日は記念すべき日だから祝ってやろうと思ってな」
彼がどこか得意げに言った。
「記念すべき日? 誰かの誕生日?」
「馬鹿。違ぇよ。今日は俺が手前と出会ってから手前が自殺に失敗した回数が百に達した記念日だよ」
彼が笑った。ケーキの横にワインがある。もう酔っているらしかった。
「……君、性格悪いよ」
うんざりしながら呟いたそれも、彼にはなんのダメージにもならない。
「お前に言われたかねぇよ。無駄に頭良くてなんでもこなす癖に本当にしたい事は出来ねぇんだもんなぁ? 俺からしたら愉快でしかねぇな」
ワイングラスを掲げて一気に飲み干す。上機嫌に笑う彼の頬は赤く染まっている。
「おら、食えよ。折角用意したんだぞ」
「そのケーキに毒は入れてくれた?」
「一流のパティシエに作らせた」
「馬鹿」
髪から、顎から、服から落ちた水滴が床に水たまりを作る。
「絶対すぐ死んでやる」
「おー、一年後にまだ生きてたらまた祝ってやるよ」
「いらないってば」
/優しくしないで
トン、と地面を蹴った。
正しく言えば、乗っていた椅子を蹴った。
足がつかなくなって、首にかけたロープに体重がかかる。
一瞬の衝撃に脳が揺れて、喉が締まる苦しさに喘いだ。
——また、失敗した。
目から涙が零れた。
苦しくて、痛くて。
藻掻くように空気を蹴ったところで地面に足なんかつかなかった。
意識も失えず、ただ中途半端に首が絞まる苦しさに喘いだ。
後遺症だけが残って生き延びるなんて、絶対に嫌だった。でも、痺れ始めた指ではロープとの間に隙間を作ることも出来なかった。
呑み込めない涎が口から零れ、涙と一緒に床を濡らした。
この世界は、僕に優しくない。
※※※※
目を覚ました時、真っ先に目に入るのは、趣味の悪い黒い天井だった。
「おー、起きたな。相変わらずタフなこった」
「……うるさい」
彼の声に眉を寄せ、声を出す。腕を持ち上げ、拳を作って広げる。
「意識も耳も、運動能力も問題ねぇっぽいな」
深く息を吐き出して持ち上げた腕をベッドに落とした。
「君が、助けたの?」
「あんまりにも苦しそうに藻掻いてたからな。まぁ俺の優しさだ」
「……君からの優しさなんていらないよ」
「でも、あのままじゃ死にぞこなったうえに後遺症残ったぞ」
視線を逸らして溜息を吐き出せば、彼が笑った。
「失敗ばっかり。いつになったら死ねるんだろ」
「さぁな。俺からの優しさは要らねぇみたいだし、殺してやることも出来ねぇしな」
恨めしく睨む。意地悪な言葉に彼に背中を向けて布団を被った。
「お礼なんて、絶対言わないからね」
「期待してねぇよ」
/流れ星に願いを
「「あ、」」と声が重なった。
真っ黒い空に星が流れた。
互いに声が重なったことに驚いて顔を見合せ、それから気まづくて視線を逸らした。
流れ星なんて、こんな都会で見られるものだなんて思ってもいなかった。だから、思わず声に出てしまったそれが、彼と同じだったなんて思うと、少し気恥しい。
星に願いを、だなんて僕らには許されないような事だけど、もしも願っても良いなら——。
「星に願うなら、やっぱ前向きな事だよな?」
僕の思考を読み取ったように彼が言う。彼はたまに、こうして確信を突くようなことを言うから苦手だ。
「何さ。僕にとってはどれも前向きだよ? 願いなんだから」
「死にたいっつーのは前向きじゃねぇんだよ」
「決めつけないでよ」
「違うのか?」
何も答えなかった。
答えられなかった。
けど、それ以外でもし願うなら。
生きるなら、君のいる世界がいい。
君がいないと、退屈できっと死んでしまうから。
/今日の心模
今日は朝からかなり腹が立っていた。何もかもが上手くいかなかった。
立て続けに起きた部下のミス。自殺も失敗し、挙句どこかのフロント企業から面倒な会食でやりたくも無い機嫌取り。その話も何も身にならない、無駄なもの。
ため息が漏れる。押さえ込んでもそれなりの大きさになってしまった。
外に出れば、空一面に鮮やかな茜色が滲んでいた。今日は快晴だ。僕の心模様とは真逆だ。
「おい」
疲れすぎだろうか。聞きたくもない幻聴まで聞こえてきた。
「おいコラ手前」
無視して歩いた僕の腕を掴んで無理やり引き止めた彼が、無理やり視線を絡ませてきた。
「手前がそんなに苛立ってるのも珍しいな」
そう鼻で笑った彼を睨みつけると、乗っていたバイクのハンドルにかけられた、黒いヘルメットを被せられた。
「乗れよ」
きみの言葉に少し考えてから、後ろに乗った。
なめらかに動きだし、スピードをあげるバイクから見た、君の髪と同じ色の空を、ただ眺めた。
/たとえ間違いだったとしても
俺はアイツと生きていたい。
アイツはきっと、俺と死にたいんだ。
互いのわがままで、互いのエゴだ。
アイツと生きたいのも、俺と死にたいのも。どちらも正しくてどちらも間違っている。それをどうこう言う権利は誰にもない。
だが、アイツを肯定したい気持ちも確かにある。
それが例え、間違いだとしても。
アイツに流されてアイツと俺が死ぬことになろうが、俺に流されてアイツが寿命まで生きようが、それは何もおかしくない。
全てが、あるべきように動いてそうなっているのだ。
「どう転んでも、俺は絶対ぇ後悔しねぇ」
「……なに? 急に」
俺の突然の言葉にアイツは驚いたように目を丸くさせた。「なんでもねぇ」と答えればアイツは戸惑ったように声を出した。
「なに、ほんと。気持ち悪い」
アイツの言葉に失笑した。一生、教えてやる気は無い。