とある日の昼下がり、ハイネはリビングの窓際のソファで読書をしていた。
前評判は高かったものの、自分にはいまいちだった。中でも登場人物の一人の言動に共感性羞恥を覚えて、とても苦痛だった。いまいちだったものの、いつか面白くなるだろうと期待して、ページを繰るうちにいつの間にか残りは全体の三分の一程度。ここまで読んでしまったのなら、もう読み切ってしまおう。
そんな気持ちで必死に繰っていると、ドアベルが鳴った。まるで天からの助けのようだ。
彼から昼間の来客予定を聞かされていないので、おそらく彼だろう。
(……珍しい)
いつも、朝見送っても夜帰ってくるところを見ることがない。夜半に帰ってきているようなのだが、いつもその頃にはハイネは眠ってしまっている。彼女が起きたとき、彼が横で眠っているのだ。
本を閉じると、ハイネは急いで玄関に向かった。扉を開けると、予想通り、彼がそこに立っている。
「お帰りなさい」彼女は彼の上着を受け取りながら言った。「珍しく、随分と早いお帰りなんですね」
彼はああ、と朗らかに笑った。
「元々、昼までの会議の予定だったんだ。時間通りに終わってくれてよかったよ」
「紅茶か何かご用意しましょうか?」
「いいのかい? じゃあ、お願いしようかな」
ハイネは頷くと、彼の上着を片付けてから、リビングへと向かった。そろそろアフタヌーンティーでもしようと思って、先に用意だけしてあった。
紅茶とお茶請けの用意を終えた頃、まるで見計らったかのように彼がリビングへと入ってきた。相変わらずタイミングがいい人だ。しかし、彼は何だかそわそわとしていた。
内心首を傾げたが彼は何も言わずに席に就いた。ハイネも席に就き、一言二言交わしたのちに紅茶を飲む。今日もまあ美味しく紅茶が淹れることができた。お茶請けは以前に彼が買ってきたものだし、外れはない。
彼女がカップを置くと同時に、彼が口を開いた。
「あのさ……ハイネちゃん。これを受け取ってほしいんだけど」
そう言いながら彼は小箱を差し出してきた。ハイネは困惑しつつ、それを開けると、中には虹色に輝く宝石が納められていた。いや、これは裸の宝石ではなく――指輪だ。
「……ヴィルヘルム、これは?」
首を傾げる彼女に、彼は少し目を見開いてから悪戯っぽく微笑んだ。
「今日は君の誕生日だろう?」
今度はハイネが目を見開く番だった。固まる彼女の指に、ヴィルヘルムはすっと指輪を通す。彼女の指にきらきらと輝く虹色は、まるで手のひらの宇宙のようだ。
(……誤算だったなあ……)
帰宅する準備を整えながら、瞳は胸中でごちていた。すっと彼に教室に入って、さっと彼にチョコを渡して、さっさと帰るつもりだったのに。
チャイムが鳴るや否や、彼の教室に向かうと、目当ての人物はたくさんの女子に囲まれていた。さすがにそれを割って渡すのは論外だし、待って渡すのは面倒くさい。
早々に見切りをつけた瞳は、諦めて帰ることにした。
教室を出ると、廊下を進んで階段を下りる。そのまま進んで突き当たりを左に曲がって、少し進んだところが昇降口だ。上履きを履き替えて、そのまま帰宅するつもりだった。
何だか昇降口が騒がしい。この時期特有の騒がしさといっても過言ではない。しかし、何だかそれだけではなさそうな気がする。
「瞳!」
誰かが瞳の名前を呼んだ。瞬きをする僅かな時間、少しだけ辺りがしんと静まりかえった。
誰が自分を呼んだのか見当がついた瞳の眉は、くっきりと寄せられている。呼びかけを無視して、上靴を脱ぎ、下靴を履く。話を聞くつもりもないし、帰るという意思表示だ。
昇降口の重たい扉を開けながら、瞳は首だけで振り返った。思った通りの人物がそこに立っている。この騒がしさの直接的な原因だ。
「何でこんなところにいるの? 史ちゃん」
「瞳が帰りそうだったから、追いかけて来たんだよ」
体力はあるはずだが、それでも肩で息をしているあたり、彼が自分で言う通り、確かに急いで用意してきたのだろう。
瞳は扉を開けきると、昇降口の中を見た。彼と話したり足りないのであろう人々が、じっと彼――どちらかというと邪魔をする瞳の方――を見つめている。
そんな彼女たちを横目で見やると、瞳は肩を竦めて言った。
「まだ、史ちゃんに用事のある人、たくさんいるみたいだけど」
じゃあね、と瞳はそういうと、校門の方に向かって歩き出した。彼が忙しいのは彼の問題であって、瞳には関係ない。
校門から外に足を踏み出して、ようやく高校の敷地を出たといえよう。瞳はこれから十数分歩いて最寄り駅で、鈍行に乗って帰って行く。
「瞳!!」
また誰かが声を張り上げた。瞳の眉根の皺がくっきりと深くなる。足音が近づいてくる。ガッと肩を掴まれたので、瞳は眉根の皺を深くしながら振り返った。
そのとき、突風が辺りに吹き荒れる。瞳の荷物を覆っていた覆いが舞い上がってどこかに飛んでいってしまった。
「瞳……あのさ……それって」彼が指差すのは瞳が持っていたチョコレートの紙袋だ。「誰に渡すつもりだったの?」
瞳は深々と溜息をついた。それから、泣き笑いのような笑顔を作ると、彼に向かって紙袋を突きつける。
「史ちゃんに渡すつもりだったわ」
ねえ、どうしたの。
彼がそう言いながら、顔を覗き込んできたので、トルデニーニャは思わず体を仰け反らせた。急に視界が彼の端正な顔でいっぱいになったので、心臓が早鐘を打っている。まるで物理的に抑えようとしているかのように、彼女は胸に手を当てると深呼吸をした。
「……な、何が?」
彼女の様子に彼は呆れたように溜息をついた。彼は人差し指を立てると、自分の頬骨を指した。不思議そうに首を傾げる彼女に向かって、簡潔に言う。
「泣いてるよ、君」彼女の目が大きく見開かれたのを見て、彼は肩を竦めた。「……気づいてなかったんだ」
トルデニーニャは自分の頬をさわった。確かに濡れる感触がする。目尻にはどうやら涙も溜まっているようだ。
(……ああ、通りで視界が滲むなって……)
きょとんとした彼女を見て、リヴァルシュタインは再度溜息をついた。まるで茫然自失といった様子の彼女は、見ていて非常に危なっかしい。危なっかしいだけで、実際は凍りついたかのように動かなくなるのだが。
(昔もそうだったな)
彼女の涙をハンカチで拭ってやりながら、彼は回想する。
トルデニーニャの父親が亡くなったときもそうだった。彼女は茫然自失としていて、微動だにしない。傍で声をかけても、うんともすんとも言わないので、もしかすると彼女は立ったまま自死したのではないかと怖くなったほどだ。
あのときは、彼女にとって重大な出来事があった。だから処理しきるのに時間がかかった。ただそれだけのことだと思っている。
だが、今は? 何かあったのだろうか。何か前触れがあるわけでもなく、急に静かに泣き出したから驚いてしまった。
(……僕は彼女を泣かせた前科があるからな……)
ふ、と彼は自嘲していると、トルデニーニャが口を開いた。彼女の眼差しは遠くに向けられている。その方向には――二人の故郷がある。
「何か悲しいことがあったとか、そういうのじゃないの」彼女は一度口を噤んだ。「わたし……故郷でいつも笛の音が聞こえていたの。故郷の方を見ていると、故郷の景色とその音がわたしの眼前に浮かび上がるんだ」
彼女は目を眇めた。
「だから……そうだね。たぶん、言葉にするのならば……わたし、郷愁で涙しているのかも」
その両目から透明なしずくがぽたりぽたりとこぼれ落ちていく。
ニェナの心臓は早鐘を打っていた。生まれてこの方、感じたことのないような緊張が、総身を震えさせる。
左手を胸に当てて、何度か深呼吸を繰り返す。
(――駄目だ。全然落ち着かないや)
ふっと口元を緩めると、ニェナは自嘲の笑みを浮かべた。
(洞窟の奥を進んでいくこと、廃宮殿を進むこと、大廃墟を進んでいくこと――未知との遭遇するかもしれないその道を進むことに、緊張したことは一度もなかった)
ニェナは目を瞑ると更に深呼吸を繰り返す。しかし、何度繰り返そうとも緊張が和らぐ気配はなかった。
(……仕方ないな)
ニェナは顔を上げた。その表情は決意に満ちて輝いている。彼女はノッカーを掴むと、ノックした。
部屋の奥の方から「どうぞ」と聞こえる。ニェナはノブを掴むと、体重をかけて扉を押し開けた。
部屋の主はニェナが入るや否や、彼女を見ることなく口を開いた。
「どうかしたのかい」
「あの……」ニェナは言いながら、その人の正面へと回った。その人――つまりはニェナの育ての親で、この神殿の巫女長であった。「おばあさま、お話があるんです」
巫女長は肩を竦めた。
「そりゃあるだろうねえ。私も訊きたいことがたくさんあるんだ」
含みのある言い方に、ニェナはたじろいだ。言いたいことを言って、すぐに去るつもりだったが、何だかそれをしにくくなってしまった。
ニェナは悩んだが、先に巫女長の話を訊くことにした。
「……お、おばあさまは……わたしに何のご用事がおありなのですか?」
恐る恐るといった体で彼女は口を開いた。巫女長がぐるんと頭を回してニェナを見つめる。
「異変が終わったが、だからといってすぐに元の生活に戻れるわけではない。それはお前もわかっておいでだね?」
「も、もちろんです。おばあさま」
ニェナのかき集めてきた勇気が少しずつ消えていく。まるで炭酸が瓶の隙間から抜けていくように。
「だが、お前は身を粉にして本当によく頑張ってくれた」巫女長はニェナを真っ直ぐに見つめた。「お前に何か成したいことがあるのならば、私は止めやしないよ」
しゅんとしていたニェナの表情が瞬く間に輝きだした。
「旅に出たいのです。おばあさま」
「ああそうかい。好きに行っておいで。道中は気をつけるんだよ」
巫女長はそういうと、もう眠たいからと言って、ニェナを部屋から追い立てた。
彼女は追い立てられた勢いで走り出した。その顔は喜びと希望に輝いている。
わたしはあなたの元へ駆けていく。あなたの傍で生きていくために。
彼女の進む先に誰かが立っているのが見えた。
ギルドの食堂で、アンネは遅めの朝食を食べながらレイナードとお喋りをしていた。そのときだ。
食堂の扉がガンを蹴り開けられた。ギルドに常駐しているメンバーに、このようなことをする奴など一人しかいない。
アンネが振り返ると同時に、レイナードが闖入者に向かって怒鳴りつけた。
「ナハト!」
ナハトと呼ばれた青年は気にすることなく二人の方へと近づいてくる。
「扉を足で開けるなと何度言えば――」
レイナードは思わず口を噤んだ。珍しく、ナハトが切羽詰まったような困った表情をしているからだ。彼はレイナードを無視して、アンネの方を向くと口を開いた。
「なァ、アンネ」
「どうされました?」
にこりと微笑んでアンネは小首を傾げた。ナハトは何も言わず、彼女の方へと手を差し伸べる。アンネも何も言わずに手のひらを重ねた。
ぐいっと引っ張り上げられて、そのままナハトは歩き出した。引きずられるようにしてアンネは彼の後をついていく。その二人の様子を見ていたレイナードは溜息をついて、再び食事を始めた。
ナハトは食堂を出て、エントランスホールに入ると、そのままエントランスから出て行こうとする。アンネは困惑しつつも何も言わなかった。
外に出て、少し歩いたところで彼は立ち止まった。茂みがあった。彼はそこにしゃがみ込む。
「ナハトさん?」
彼はちらりと振り向いた。そのあと、何かを茂みから引き出した。それをアンネの目の前へと引きずると口を開いた。
「これ……どうしたらいいかなァ……」
アンネはそれを見て目を丸くした。
「まあ、捨て猫ですか?」彼女は手を伸ばすと箱の中の一匹を抱き上げた。大人しくしている。「ギルドの他の人に訊いてみましょう。すぐに引き取り手が見つかりますよ」
安心させるように彼女は微笑んだ。ナハトは不安そうにしつつも、ちらちらとアンネの腕の中と箱の中を交互に見ている。
「ナハトさんも抱っこされてみてはどうです? 人に慣れているみたいですから、大人しいですよ」
「……オレが持ったら潰しそうだからいいよ」
「そっと壊れものを触るときみたいに持てばいいんですよ」
彼女の言葉にナハトは首を横に振った。
「……そんなのわかんな――」言いかけて、何か閃いたように彼女を見る。「そっか。アンネにさわるときと一緒ってこと?」
アンネは再び目をぱちくりとさせたが、すぐに微笑むと小さく笑った。