常夏のような熱帯林を歩いていた。べたべたとした湿気が肌にまとわりついて、衣類が体に張りついて鬱陶しい。
この辺りは下生えの背が高く、フィエルテの頭が見えたり見えなかったりとする。
フィエルテはまるでお花畑でも歩いているかのような軽やかな足取りで、どんどんと先を進んでいってしまう。
ミラは先を歩く彼女に向かって声をかけた。
「おい! あんまり先に行かないでくれ」
彼女は立ち止まるとくるりと振り返った。
「ごめんなさい」彼女ははにかんだ。「見たことない景色だから、わくわくしちゃって」
やっと彼女に追いついた彼は苦笑を浮かべた。
「まあ……確かにお前は見たことのない景色が多いのだろうな」
二人はそれぞれ使命を背負って生きてきた。二人の使命は重なり合うところがあり、お互いの最終目的のために二人は共に行動していた。
「ミラさまは色んなところを旅されていたんですよね?」
フィエルテは隠れ里と、海を渡ろうとして難破し漂着した先の寒村での生活しか知らない。紆余曲折を経て、フィエルテはミラと出会い、彼と共に旅に出た。
「ああ。……まあ、多少はな」
彼は言葉を濁した。フィエルテと出会う前の自分の足跡を、彼女に告げたことはない。褒められたものでもないから、今後も告げるつもりはない。
しかし、全てが終わった。彼の終生の敵であった亜神を斃した。亜神はまた、フィエルテの隠れ里にとっても敵だった。再び復活はするであろうが、少なくとも数百年ぐらいは平穏がやってくるはずだ。
ゆえに、最終目的をお互いに果たした今、フィエルテは各地を旅して回ろうとしているのだった。ミラは彼女の旅の助けをするべく、定まらない道のりに同行している。
初めて見るものが多いのだろう。彼女はいつでも目をきらきらと輝かせて辺りを見回している。彼女のその様子を見ていると、遙か遠くまだ見ぬ景色に心を躍らせていた頃を思い出し、年若の彼女に対する罪悪感が湿気のようにまとわりついてくるのだった。
無事に内定を得た直子は、順当に大学を卒業し就職していた。初めの一年間はわからないことだらけで、ついていくので精一杯だった。気づけば一年間が終わり、現在二年目を迎えている。
去年は先輩の手伝いがメインだったが、今年からは自分も小規模ながら企画・運営を任されるようになった。責任重大だという一言では表せられないほどのプレッシャーを感じている。同期たちが涼しい顔をしてすいすいこなしていく様を見ていると、自分の落ちこぼれ具合に溜息が出てしまう。
人見知りの直子には、相談したくても相談できる人がいなかった。――いや、厳密に言えば、相談できる人はいたが、遠くて忙しい身だ。たまに通話はするものの、自分の仕様もない愚痴で煩わせたくなかった。
逼迫感を覚えて目を覚ました直子は、スマホを見て、今日が日曜日であったことに気づき、二度寝するかどうか悩んでいた。
最近、夢見が悪い。何を見ていたか覚えているわけではないのだけれど、目覚めたときにいつも何かに追われていたような気がする。おかげで毎日、憂鬱だ。こういうときは、何か非日常的なことを夢想してしまう。例えば、白馬の王子様がやってくるとか。
まだちょっと眠気を感じる。でも、このまま二度寝すると昼過ぎまで寝てしまいそうだ。それだとあまりにももったいなく思う。そんなことを考えているとき、ピンポーンとチャイムが鳴った。
ここ最近、ネットショッピングをした記憶がなかったものの、配達員さんを待たすわけにはいかない。渋々と起きると、カーディガンを羽織って玄関に向かう。急かすように再びチャイムが鳴った。
急いで扉を開けると――。
「……た、匠くん?」
ぽかんと直子は口を開けた。
「久しぶり」
彼はしてやったりとでも言いたげに、目を細めて微笑んだ。
目の前に彼がいることが信じられない。何でこんなところにいるんだろう? 疑問はつきなかったが、何だか安堵して涙が止まらなくなってきた。
泣きじゃくる彼女を、彼はしっかりと抱きしめた。
ここ数日、野宿が続いていた。ようやく見えた街に、二人は喜び勇んで宿屋に飛び込んだ。やっとベッドで寝ることができる。
満面に喜びを表すヘンリエッタとは対照的に、ローレンスの様子は平生と変わらなかったものの、彼だって安堵したに違いない。
翌日、二人は今後の旅の行程について相談していた。元々の目的地はもっと先にある。この街はちょうどその中間地点にあるようなものだ。街を出たあと、南に直進するか、西で迂回しながら向かうか。どちらがよいかを考えあぐねている。
とはいえ、ヘンリエッタにはあまり地理がわからない。彼の説明を理解しようと、小さな地図を取り出すと、説明を思い返しながら行程を辿る。
夢中になっていたせいで、ヘンリエッタのお腹が鳴った頃には、既に空は橙色になっていた。
「ロロ、お腹減った」
ローレンスは部屋の時計をちらりと見やって、肩を竦めた。ポールハンガーにかけていたコートの一つを彼女に抛り、一つを羽織った。
宿屋から少し離れたところにあった食堂で二人は早めの夕食を摂った。その帰り道、寒さにヘンリエッタはくしゃみをした。だいぶ冷え込んできた。空を仰ぐと、夜空からちらちらと白い物が降ってくる。
「あ、雪だ」
彼女がそう言うと、ローレンスは顔をしかめた。彼は寒いのが嫌いで、寒さを生じさせるものならば全てが嫌いだ。
「……早く戻るぞ」
彼はそう言うや否や、足早に先を進む。はあいと返事して、ヘンリエッタは小走りで彼を追った。彼の足は速く、ヘンリエッタは途中で追いつくことを諦めた。
途中、曲がり角を間違えて、ようやく部屋に戻ると、既に暖炉には火が点いていた。その傍らで彼が椅子に座って本を読んでいる。
「遅かったな」
戻ってきたヘンリエッタを一瞥して、ローレンスは言った。
「ロロを見失ったから迷っちゃったの」
彼女の返事に、彼は肩を竦めると持っていた本をぱたんと閉じた。
「……私はもう寝るが、お前はどうする」
「じゃあ、わたしももう寝るー」
わかった、と返して、彼は着替え始めた。ヘンリエッタも寝間着に着替える。先に着替え終えた彼がベッドに横になる。
ヘンリエッタは彼の横にもぐり込むと、彼に体を預けて言った。
「こうしてたら、暖かいね」
「……ああ。まあ、悪くないな」
彼は口元を緩ませると彼女を抱き寄せた。
それはまさに青天の霹靂だった。
(重大な事実を知ってしまったかもしれない)
アンネは不吉な予感に身震いした。しかし、この事実を他人に広めるわけにはいかない。それこそ、親しい人にだって教えることはできない。誰にも知られないうちに、原因を対処しなければならない。
でも、どうしたらいいのだろう。対処はせねばならないが、自分はそれについて、まだ全然知識が足りない。この街をひと月も滞在して、当たれそうなものには全て当たってみたが、それだけではどうしようもない。
アンネは人知れず決心すると、荷物をまとめ始めた。まずは大きな都市に行って、図書館がないかどうかを探さなくては。
コンコンと扉がノックされて、部屋の扉が開く。ナハトが中に入ってきた。
彼は荷物をまとめている彼女を見て、小首を傾げた。
「あ、そろそろこの街、出る?」
ナハトは自分の体質のため、あまり一ところに留まらないようにしていた。しかし、アンネの旅に同行して、もうひと月も同じ街に滞在している。
何かこだわりがあるわけでもないので、景色がよかろうが悪かろうが、治安がよかろうが悪かろうが、住みよかろうが住みにくかろうが、ナハトにとっては関係なかった。しかし、やはりひと月も滞在していると、少しは居心地もよく感じてくるし、愛着も湧いてくるというもの。
アンネは申し訳なさそうに眉を八の字にした。
「はい。……済みません、長居をしてしまって」
「別にいーよォ。結構気に入ってたし」
思いがけないナハトの言葉に、アンネは目を見開き――再び目を伏せた。
「済みません……その、急に出ると言って……」
「だから別にいいって。いちいち謝ンなよ」
彼はそう言うと呆れたように肩を竦めた。
アンネは頭を下げると、荷造りを再開した。収集した研究資料をどう詰めるか悩んでいると、横からにゅっとナハトが顔を出した。
「何、これ?」
「……えっと“未来への鍵”ですかね」
彼女の答えに、ナハトは興味なさそうにふうんと返した。
決意を秘めたアンネの横顔は、逆光を受けて、まるで強い輝きを放っているかのようだ。
セントラル所属の『描き手』ローダは「森奥の廃墟」と呼ばれるダンジョンの探索を命じられていた。「管理人」の協力により、管理人から彼女の護衛を兼ねたダンジョンの「案内人」を貸与された。
その案内人との顔合わせは済んでおり、今日からその案内人と共にダンジョンの探索を行うこととなる。
ローダは指定された待ち合わせ場所で、かれこれ一時間ほど待っていた。
(……舐められたものね)
溜息をつくと拳をぎゅっと握る。振り仰いで「森奥の廃墟」のダンジョンを見上げる。このダンジョンは珍しく、ダンジョンとしての入り口が高いところにあった。
とはいえ、届かない距離ではない。
このまま愚直に待ち続けて、あの案内人が本当にやってくるのか疑わしいものだ。軽薄が服を着て歩いているような青年だった。
ローダは書き置きを残すと、ワイヤーを使って登り、ダンジョンの中に足を踏み入れた。
廃墟と呼ばれているものの、ダンジョンの中はどちらかというと洋館といった体だった。足下もしっかりしているし、探索するにはいい環境と言えるだろう。
ローダは画板を取り出すと、羊皮紙を画板にセットする。携帯インク壺を左手に、羽ペンを右手に持って、彼女は今いる入り口を起点に、ゆっくりと地図を描き始めた。
仕事に没頭していた彼女は、急に肩を叩かれて、思わず小さな悲鳴を上げ、肩を大きく跳ねさせてしまった。持っていた物をぼろぼろと地面に落としてしまう。
「だっ、誰ッ!?」
身を護ろうと小さくなりながら、ローダは振り向いた。
「俺だよ、ローダちゃん。遅れてごめんな~」
軽薄そうな青年が、そう言いながら、彼女の落とした荷物を拾っていく。ローダはその青年を見て、ほっとしたように胸を撫で下ろした。
「なんだ……ウェルナーか……驚かせないでよ」
ウェルナーと呼ばれた青年は、彼女の荷物を拾い終えると立ち上がった。
「一応、何度か声はかけたんだよ? うんともすんとも言ってくれないからさ」そう言いながら、彼女の荷物を渡す。「これで全部? 足りない物ある?」
ううん、とローダは首を振った。礼を言うと、再び画板に羊皮紙をセットし直し、地図を描く準備を整え直す。
あのさ、とウェルナーが口を開いたので、ローダは彼の方を見やった。
「何?」
「遅れて本当にごめん」彼はそう言うと頭を下げた。「……こんなざまじゃ格好もつかないけど、これ貰ってくれる?」
彼はローダに碧玉のペンダントを渡した。ローダは不思議そうに小首を傾げた。
「何、これ?」彼女は口元を緩ませた。「綺麗ね。星の欠片みたい」
「えっとね、まあ……魔除け、みたいな? あと、俺にとっての目印みたいな……」
しどろもどろになって言う彼を見て、
「そう。ありがとう、ウェルナー」
ローダは微笑んだ。