ニェナの心臓は早鐘を打っていた。生まれてこの方、感じたことのないような緊張が、総身を震えさせる。
左手を胸に当てて、何度か深呼吸を繰り返す。
(――駄目だ。全然落ち着かないや)
ふっと口元を緩めると、ニェナは自嘲の笑みを浮かべた。
(洞窟の奥を進んでいくこと、廃宮殿を進むこと、大廃墟を進んでいくこと――未知との遭遇するかもしれないその道を進むことに、緊張したことは一度もなかった)
ニェナは目を瞑ると更に深呼吸を繰り返す。しかし、何度繰り返そうとも緊張が和らぐ気配はなかった。
(……仕方ないな)
ニェナは顔を上げた。その表情は決意に満ちて輝いている。彼女はノッカーを掴むと、ノックした。
部屋の奥の方から「どうぞ」と聞こえる。ニェナはノブを掴むと、体重をかけて扉を押し開けた。
部屋の主はニェナが入るや否や、彼女を見ることなく口を開いた。
「どうかしたのかい」
「あの……」ニェナは言いながら、その人の正面へと回った。その人――つまりはニェナの育ての親で、この神殿の巫女長であった。「おばあさま、お話があるんです」
巫女長は肩を竦めた。
「そりゃあるだろうねえ。私も訊きたいことがたくさんあるんだ」
含みのある言い方に、ニェナはたじろいだ。言いたいことを言って、すぐに去るつもりだったが、何だかそれをしにくくなってしまった。
ニェナは悩んだが、先に巫女長の話を訊くことにした。
「……お、おばあさまは……わたしに何のご用事がおありなのですか?」
恐る恐るといった体で彼女は口を開いた。巫女長がぐるんと頭を回してニェナを見つめる。
「異変が終わったが、だからといってすぐに元の生活に戻れるわけではない。それはお前もわかっておいでだね?」
「も、もちろんです。おばあさま」
ニェナのかき集めてきた勇気が少しずつ消えていく。まるで炭酸が瓶の隙間から抜けていくように。
「だが、お前は身を粉にして本当によく頑張ってくれた」巫女長はニェナを真っ直ぐに見つめた。「お前に何か成したいことがあるのならば、私は止めやしないよ」
しゅんとしていたニェナの表情が瞬く間に輝きだした。
「旅に出たいのです。おばあさま」
「ああそうかい。好きに行っておいで。道中は気をつけるんだよ」
巫女長はそういうと、もう眠たいからと言って、ニェナを部屋から追い立てた。
彼女は追い立てられた勢いで走り出した。その顔は喜びと希望に輝いている。
わたしはあなたの元へ駆けていく。あなたの傍で生きていくために。
彼女の進む先に誰かが立っているのが見えた。
ギルドの食堂で、アンネは遅めの朝食を食べながらレイナードとお喋りをしていた。そのときだ。
食堂の扉がガンを蹴り開けられた。ギルドに常駐しているメンバーに、このようなことをする奴など一人しかいない。
アンネが振り返ると同時に、レイナードが闖入者に向かって怒鳴りつけた。
「ナハト!」
ナハトと呼ばれた青年は気にすることなく二人の方へと近づいてくる。
「扉を足で開けるなと何度言えば――」
レイナードは思わず口を噤んだ。珍しく、ナハトが切羽詰まったような困った表情をしているからだ。彼はレイナードを無視して、アンネの方を向くと口を開いた。
「なァ、アンネ」
「どうされました?」
にこりと微笑んでアンネは小首を傾げた。ナハトは何も言わず、彼女の方へと手を差し伸べる。アンネも何も言わずに手のひらを重ねた。
ぐいっと引っ張り上げられて、そのままナハトは歩き出した。引きずられるようにしてアンネは彼の後をついていく。その二人の様子を見ていたレイナードは溜息をついて、再び食事を始めた。
ナハトは食堂を出て、エントランスホールに入ると、そのままエントランスから出て行こうとする。アンネは困惑しつつも何も言わなかった。
外に出て、少し歩いたところで彼は立ち止まった。茂みがあった。彼はそこにしゃがみ込む。
「ナハトさん?」
彼はちらりと振り向いた。そのあと、何かを茂みから引き出した。それをアンネの目の前へと引きずると口を開いた。
「これ……どうしたらいいかなァ……」
アンネはそれを見て目を丸くした。
「まあ、捨て猫ですか?」彼女は手を伸ばすと箱の中の一匹を抱き上げた。大人しくしている。「ギルドの他の人に訊いてみましょう。すぐに引き取り手が見つかりますよ」
安心させるように彼女は微笑んだ。ナハトは不安そうにしつつも、ちらちらとアンネの腕の中と箱の中を交互に見ている。
「ナハトさんも抱っこされてみてはどうです? 人に慣れているみたいですから、大人しいですよ」
「……オレが持ったら潰しそうだからいいよ」
「そっと壊れものを触るときみたいに持てばいいんですよ」
彼女の言葉にナハトは首を横に振った。
「……そんなのわかんな――」言いかけて、何か閃いたように彼女を見る。「そっか。アンネにさわるときと一緒ってこと?」
アンネは再び目をぱちくりとさせたが、すぐに微笑むと小さく笑った。
常夏のような熱帯林を歩いていた。べたべたとした湿気が肌にまとわりついて、衣類が体に張りついて鬱陶しい。
この辺りは下生えの背が高く、フィエルテの頭が見えたり見えなかったりとする。
フィエルテはまるでお花畑でも歩いているかのような軽やかな足取りで、どんどんと先を進んでいってしまう。
ミラは先を歩く彼女に向かって声をかけた。
「おい! あんまり先に行かないでくれ」
彼女は立ち止まるとくるりと振り返った。
「ごめんなさい」彼女ははにかんだ。「見たことない景色だから、わくわくしちゃって」
やっと彼女に追いついた彼は苦笑を浮かべた。
「まあ……確かにお前は見たことのない景色が多いのだろうな」
二人はそれぞれ使命を背負って生きてきた。二人の使命は重なり合うところがあり、お互いの最終目的のために二人は共に行動していた。
「ミラさまは色んなところを旅されていたんですよね?」
フィエルテは隠れ里と、海を渡ろうとして難破し漂着した先の寒村での生活しか知らない。紆余曲折を経て、フィエルテはミラと出会い、彼と共に旅に出た。
「ああ。……まあ、多少はな」
彼は言葉を濁した。フィエルテと出会う前の自分の足跡を、彼女に告げたことはない。褒められたものでもないから、今後も告げるつもりはない。
しかし、全てが終わった。彼の終生の敵であった亜神を斃した。亜神はまた、フィエルテの隠れ里にとっても敵だった。再び復活はするであろうが、少なくとも数百年ぐらいは平穏がやってくるはずだ。
ゆえに、最終目的をお互いに果たした今、フィエルテは各地を旅して回ろうとしているのだった。ミラは彼女の旅の助けをするべく、定まらない道のりに同行している。
初めて見るものが多いのだろう。彼女はいつでも目をきらきらと輝かせて辺りを見回している。彼女のその様子を見ていると、遙か遠くまだ見ぬ景色に心を躍らせていた頃を思い出し、年若の彼女に対する罪悪感が湿気のようにまとわりついてくるのだった。
無事に内定を得た直子は、順当に大学を卒業し就職していた。初めの一年間はわからないことだらけで、ついていくので精一杯だった。気づけば一年間が終わり、現在二年目を迎えている。
去年は先輩の手伝いがメインだったが、今年からは自分も小規模ながら企画・運営を任されるようになった。責任重大だという一言では表せられないほどのプレッシャーを感じている。同期たちが涼しい顔をしてすいすいこなしていく様を見ていると、自分の落ちこぼれ具合に溜息が出てしまう。
人見知りの直子には、相談したくても相談できる人がいなかった。――いや、厳密に言えば、相談できる人はいたが、遠くて忙しい身だ。たまに通話はするものの、自分の仕様もない愚痴で煩わせたくなかった。
逼迫感を覚えて目を覚ました直子は、スマホを見て、今日が日曜日であったことに気づき、二度寝するかどうか悩んでいた。
最近、夢見が悪い。何を見ていたか覚えているわけではないのだけれど、目覚めたときにいつも何かに追われていたような気がする。おかげで毎日、憂鬱だ。こういうときは、何か非日常的なことを夢想してしまう。例えば、白馬の王子様がやってくるとか。
まだちょっと眠気を感じる。でも、このまま二度寝すると昼過ぎまで寝てしまいそうだ。それだとあまりにももったいなく思う。そんなことを考えているとき、ピンポーンとチャイムが鳴った。
ここ最近、ネットショッピングをした記憶がなかったものの、配達員さんを待たすわけにはいかない。渋々と起きると、カーディガンを羽織って玄関に向かう。急かすように再びチャイムが鳴った。
急いで扉を開けると――。
「……た、匠くん?」
ぽかんと直子は口を開けた。
「久しぶり」
彼はしてやったりとでも言いたげに、目を細めて微笑んだ。
目の前に彼がいることが信じられない。何でこんなところにいるんだろう? 疑問はつきなかったが、何だか安堵して涙が止まらなくなってきた。
泣きじゃくる彼女を、彼はしっかりと抱きしめた。
ここ数日、野宿が続いていた。ようやく見えた街に、二人は喜び勇んで宿屋に飛び込んだ。やっとベッドで寝ることができる。
満面に喜びを表すヘンリエッタとは対照的に、ローレンスの様子は平生と変わらなかったものの、彼だって安堵したに違いない。
翌日、二人は今後の旅の行程について相談していた。元々の目的地はもっと先にある。この街はちょうどその中間地点にあるようなものだ。街を出たあと、南に直進するか、西で迂回しながら向かうか。どちらがよいかを考えあぐねている。
とはいえ、ヘンリエッタにはあまり地理がわからない。彼の説明を理解しようと、小さな地図を取り出すと、説明を思い返しながら行程を辿る。
夢中になっていたせいで、ヘンリエッタのお腹が鳴った頃には、既に空は橙色になっていた。
「ロロ、お腹減った」
ローレンスは部屋の時計をちらりと見やって、肩を竦めた。ポールハンガーにかけていたコートの一つを彼女に抛り、一つを羽織った。
宿屋から少し離れたところにあった食堂で二人は早めの夕食を摂った。その帰り道、寒さにヘンリエッタはくしゃみをした。だいぶ冷え込んできた。空を仰ぐと、夜空からちらちらと白い物が降ってくる。
「あ、雪だ」
彼女がそう言うと、ローレンスは顔をしかめた。彼は寒いのが嫌いで、寒さを生じさせるものならば全てが嫌いだ。
「……早く戻るぞ」
彼はそう言うや否や、足早に先を進む。はあいと返事して、ヘンリエッタは小走りで彼を追った。彼の足は速く、ヘンリエッタは途中で追いつくことを諦めた。
途中、曲がり角を間違えて、ようやく部屋に戻ると、既に暖炉には火が点いていた。その傍らで彼が椅子に座って本を読んでいる。
「遅かったな」
戻ってきたヘンリエッタを一瞥して、ローレンスは言った。
「ロロを見失ったから迷っちゃったの」
彼女の返事に、彼は肩を竦めると持っていた本をぱたんと閉じた。
「……私はもう寝るが、お前はどうする」
「じゃあ、わたしももう寝るー」
わかった、と返して、彼は着替え始めた。ヘンリエッタも寝間着に着替える。先に着替え終えた彼がベッドに横になる。
ヘンリエッタは彼の横にもぐり込むと、彼に体を預けて言った。
「こうしてたら、暖かいね」
「……ああ。まあ、悪くないな」
彼は口元を緩ませると彼女を抱き寄せた。