ここ数日、野宿が続いていた。ようやく見えた街に、二人は喜び勇んで宿屋に飛び込んだ。やっとベッドで寝ることができる。
満面に喜びを表すヘンリエッタとは対照的に、ローレンスの様子は平生と変わらなかったものの、彼だって安堵したに違いない。
翌日、二人は今後の旅の行程について相談していた。元々の目的地はもっと先にある。この街はちょうどその中間地点にあるようなものだ。街を出たあと、南に直進するか、西で迂回しながら向かうか。どちらがよいかを考えあぐねている。
とはいえ、ヘンリエッタにはあまり地理がわからない。彼の説明を理解しようと、小さな地図を取り出すと、説明を思い返しながら行程を辿る。
夢中になっていたせいで、ヘンリエッタのお腹が鳴った頃には、既に空は橙色になっていた。
「ロロ、お腹減った」
ローレンスは部屋の時計をちらりと見やって、肩を竦めた。ポールハンガーにかけていたコートの一つを彼女に抛り、一つを羽織った。
宿屋から少し離れたところにあった食堂で二人は早めの夕食を摂った。その帰り道、寒さにヘンリエッタはくしゃみをした。だいぶ冷え込んできた。空を仰ぐと、夜空からちらちらと白い物が降ってくる。
「あ、雪だ」
彼女がそう言うと、ローレンスは顔をしかめた。彼は寒いのが嫌いで、寒さを生じさせるものならば全てが嫌いだ。
「……早く戻るぞ」
彼はそう言うや否や、足早に先を進む。はあいと返事して、ヘンリエッタは小走りで彼を追った。彼の足は速く、ヘンリエッタは途中で追いつくことを諦めた。
途中、曲がり角を間違えて、ようやく部屋に戻ると、既に暖炉には火が点いていた。その傍らで彼が椅子に座って本を読んでいる。
「遅かったな」
戻ってきたヘンリエッタを一瞥して、ローレンスは言った。
「ロロを見失ったから迷っちゃったの」
彼女の返事に、彼は肩を竦めると持っていた本をぱたんと閉じた。
「……私はもう寝るが、お前はどうする」
「じゃあ、わたしももう寝るー」
わかった、と返して、彼は着替え始めた。ヘンリエッタも寝間着に着替える。先に着替え終えた彼がベッドに横になる。
ヘンリエッタは彼の横にもぐり込むと、彼に体を預けて言った。
「こうしてたら、暖かいね」
「……ああ。まあ、悪くないな」
彼は口元を緩ませると彼女を抱き寄せた。
それはまさに青天の霹靂だった。
(重大な事実を知ってしまったかもしれない)
アンネは不吉な予感に身震いした。しかし、この事実を他人に広めるわけにはいかない。それこそ、親しい人にだって教えることはできない。誰にも知られないうちに、原因を対処しなければならない。
でも、どうしたらいいのだろう。対処はせねばならないが、自分はそれについて、まだ全然知識が足りない。この街をひと月も滞在して、当たれそうなものには全て当たってみたが、それだけではどうしようもない。
アンネは人知れず決心すると、荷物をまとめ始めた。まずは大きな都市に行って、図書館がないかどうかを探さなくては。
コンコンと扉がノックされて、部屋の扉が開く。ナハトが中に入ってきた。
彼は荷物をまとめている彼女を見て、小首を傾げた。
「あ、そろそろこの街、出る?」
ナハトは自分の体質のため、あまり一ところに留まらないようにしていた。しかし、アンネの旅に同行して、もうひと月も同じ街に滞在している。
何かこだわりがあるわけでもないので、景色がよかろうが悪かろうが、治安がよかろうが悪かろうが、住みよかろうが住みにくかろうが、ナハトにとっては関係なかった。しかし、やはりひと月も滞在していると、少しは居心地もよく感じてくるし、愛着も湧いてくるというもの。
アンネは申し訳なさそうに眉を八の字にした。
「はい。……済みません、長居をしてしまって」
「別にいーよォ。結構気に入ってたし」
思いがけないナハトの言葉に、アンネは目を見開き――再び目を伏せた。
「済みません……その、急に出ると言って……」
「だから別にいいって。いちいち謝ンなよ」
彼はそう言うと呆れたように肩を竦めた。
アンネは頭を下げると、荷造りを再開した。収集した研究資料をどう詰めるか悩んでいると、横からにゅっとナハトが顔を出した。
「何、これ?」
「……えっと“未来への鍵”ですかね」
彼女の答えに、ナハトは興味なさそうにふうんと返した。
決意を秘めたアンネの横顔は、逆光を受けて、まるで強い輝きを放っているかのようだ。
セントラル所属の『描き手』ローダは「森奥の廃墟」と呼ばれるダンジョンの探索を命じられていた。「管理人」の協力により、管理人から彼女の護衛を兼ねたダンジョンの「案内人」を貸与された。
その案内人との顔合わせは済んでおり、今日からその案内人と共にダンジョンの探索を行うこととなる。
ローダは指定された待ち合わせ場所で、かれこれ一時間ほど待っていた。
(……舐められたものね)
溜息をつくと拳をぎゅっと握る。振り仰いで「森奥の廃墟」のダンジョンを見上げる。このダンジョンは珍しく、ダンジョンとしての入り口が高いところにあった。
とはいえ、届かない距離ではない。
このまま愚直に待ち続けて、あの案内人が本当にやってくるのか疑わしいものだ。軽薄が服を着て歩いているような青年だった。
ローダは書き置きを残すと、ワイヤーを使って登り、ダンジョンの中に足を踏み入れた。
廃墟と呼ばれているものの、ダンジョンの中はどちらかというと洋館といった体だった。足下もしっかりしているし、探索するにはいい環境と言えるだろう。
ローダは画板を取り出すと、羊皮紙を画板にセットする。携帯インク壺を左手に、羽ペンを右手に持って、彼女は今いる入り口を起点に、ゆっくりと地図を描き始めた。
仕事に没頭していた彼女は、急に肩を叩かれて、思わず小さな悲鳴を上げ、肩を大きく跳ねさせてしまった。持っていた物をぼろぼろと地面に落としてしまう。
「だっ、誰ッ!?」
身を護ろうと小さくなりながら、ローダは振り向いた。
「俺だよ、ローダちゃん。遅れてごめんな~」
軽薄そうな青年が、そう言いながら、彼女の落とした荷物を拾っていく。ローダはその青年を見て、ほっとしたように胸を撫で下ろした。
「なんだ……ウェルナーか……驚かせないでよ」
ウェルナーと呼ばれた青年は、彼女の荷物を拾い終えると立ち上がった。
「一応、何度か声はかけたんだよ? うんともすんとも言ってくれないからさ」そう言いながら、彼女の荷物を渡す。「これで全部? 足りない物ある?」
ううん、とローダは首を振った。礼を言うと、再び画板に羊皮紙をセットし直し、地図を描く準備を整え直す。
あのさ、とウェルナーが口を開いたので、ローダは彼の方を見やった。
「何?」
「遅れて本当にごめん」彼はそう言うと頭を下げた。「……こんなざまじゃ格好もつかないけど、これ貰ってくれる?」
彼はローダに碧玉のペンダントを渡した。ローダは不思議そうに小首を傾げた。
「何、これ?」彼女は口元を緩ませた。「綺麗ね。星の欠片みたい」
「えっとね、まあ……魔除け、みたいな? あと、俺にとっての目印みたいな……」
しどろもどろになって言う彼を見て、
「そう。ありがとう、ウェルナー」
ローダは微笑んだ。
友達と飲み会でオールして、家に戻ってきたのは今朝の五時。すっかり酔いが回っていたので、部屋に着くや否やベッドに倒れ込んでしまった。
そんな郡司を叩き起こしたのは、ケータイの着メロだった。
(……この音は……)
寝惚け眼でケータイを探す。頭の回りを探して、ケータイらしき四角を掴む。画面を点けると彼女の名前が表示されている。
(どうしたんだろう……)
受話器のボタンを押した。もしもしと言いながらスピーカーに耳を当てる。
『あ、もしかして起こしちゃった? ごめんね、郡司くん』
彼女の涼やかな声が聞こえてくる。彼女は郡司の声の調子で、自分の電話が彼を起こしたことを悟ったらしい。
「いや、いつもなら……起きてる時間だし……」欠伸をこぼしながら、郡司は続けた。「でも……どうしたの? 秋穂サンから連絡くれるなんて、珍しいね」
電話口の向こうで彼女が口籠もったのがわかった。
『あ、ええとね……何か用事があったわけじゃないの』申し訳なさそうに彼女は言う。『その……なんだか郡司くんの声が聞きたくなっちゃって』
そう言うと、彼女は照れたように小さく笑った。
郡司は自分の彼女の可愛さに絶句して、しばらく何も返せなかった。
ウェルス王国北西部に位置する有翼族の里フェアンヴェー。リヴァルシュタインの故郷である。
フェアンヴェー一の勇士であり、次期族長である彼は、その能力を請われて、ウェルス王城にてフェアンヴェーの名代として勤めていた。
王城での仕事はとてもつまらない。部族間の融和政策の一環とはいえ、こんな温い環境では鍛錬の意味を成さない。これならば、故郷で暮らし、故郷を護っている方が随分とマシというもの。
とりあえず、彼は今、一週間の休みを貰い帰郷していた。
戻ってきたリヴァルシュタインを里長が出迎える。
「おお、リヴァルシュタイン。息災であったか」
「見ての通りですよ、長」
彼はそう返しながら肩を竦めた。
「王城ではどうじゃ? 不本意な扱いはされておらぬか?」
「不本意な扱いはされてませんが……王城の兵はレベルが低すぎて話になりませんね。鍛錬相手にもならないので困っています」
リヴァルシュタインはそう言うと溜息をついた。
「強い者もいるにはいますが、ほんの一握りです。こんなことなら里で修行している方がよっぽど有意義ですよ」
「まあ、そう言うな。お前には不向きな役割を与えていることは重々承知している。融和のためじゃ。どうか堪えてくれ」
リヴァルシュタインは再度溜息をつくと、里長に向き直った。
「ええ、承知しています。……長の考える“融和”が私にできるかどうかは保証しかねますが」 そう言うと、彼は里長の前を辞した。帰る足でフェアンヴェーの中心に建つ物見塔を登っていく。
塔のてっぺんに来ると、ウェルス北西部が端から端までよく見える。彼は腕を翼に変化させると、欄干を蹴って宙に飛び上がった。
北部の雪山の方へ向かうつもりではあるが、特に目的地はなかった。
追い風が吹いている。この調子へどんどんと前へ、遙か遠くへと進んでいきたい。
どんどんとフェアンヴェーが小さくなっていく。