一歩ずつ、積雪で足場の悪い山道を登っていく。この山を越えた先に、目指す砦があるのだという。
だいぶ標高の高いところまで来たようで、酸素が薄いのか呼吸が苦しい。
ただ――背後に振り返って見下ろすと、一面に広がる景色は見事としか言いようがなかった。
ぼんやりとフィエルテが眼下に広がる景色を眺めていると、頭上から声が降ってきた。
「おい、何をしている」
彼女は振り仰いで口を開いた。
「ミラさま」
彼は不機嫌そうに彼女を見下ろしていた。まるで突き刺さりそうなほど尖った視線だ。
「足を止めるな、辛いのなら進め。進まねば楽にはならんぞ」
「あ、いえ、そういうわけではないのです」そう言いながら、彼女は景色に視線を戻すと、ふっと頬が緩ませた。「……きれい、と思っただけなのです」
そうつぶやくと、フィエルテは再度、彼を振り仰ぐ。
「足止めして申し訳ございません。もう、大丈夫です」
はあ、と彼は溜息をつくと、少し口許を緩めた。
「足を止めたついでだ、構わん。そのまま、前を見ていろ」
彼はそう言いながら、前を――フィエルテの背後を指し示した。
言われたとおりに彼女は振り返った。
すると、山の奥がほのかに明るい。空の色が深い紺色から青みがかった橙色へと移り変わっている。
思わずフィエルテは息を呑んだ。言葉もなかった。
しばらくすると、どんどんと明るくなって山の向こうから大きな丸が姿を現した。
空がにわかに明るくなっていく。丸は徐々に上がっていって、やがて辺り一面がぱあっと明るくなった。
日が昇ったのだ。
「年がまた一つ明けたな」ぽつりと彼は続けざまに独り言を漏らす。「……だからこそ、急がねば」
それは彼女の耳に届く前に、辺りに紛れて消えてしまった。日の出に夢中になっていた彼女には、どちらにしろ届いていなかっただろうが。
「さあ、行くぞ」
彼は日の出に見惚れる彼女の肩を一度掴んで揺さぶった。彼女がうんともすんとも言わぬ間に、さっさと放して踵を返して行ってしまう。
はっとフィエルテが我に返ったときには、ざっざっと雪を踏み分けていく音は既に遠ざかってしまっていた。彼女は名残惜しさを覚えつつも、見失わないうちに彼のあとを急いで追いかける。
どうか、彼が安息できる日々が早く訪れますように、と祈りながら。
ドアベルが鳴らされる。カンと高く耳障りな金属音。予期せぬものに叩き起こされたミラは、眉根をきつく寄せながら、のろのろと体を起こす。
昨晩は全くと言っていいほど寝られてない。昨日から熱を出したフィエルテの看病につききりだったからだ。蒼ざめているのに頬だけが林檎のように紅い。苦しいのか時折呻き声を洩らす様に、少しだけ恐怖を覚えた。
(ひとの看病などいつぶりだろう……)
氷枕を作ってやり、冷やしタオルで汗を拭ってやる。冷たいものを当ててやったときだけ、寄せられた眉が緩んだ。
寝苦しさにほんのひと時、瞼を開けてミラを見る。その目は潤んでいて、ひどくはかなく頼りなげだった。そんなとき、ミラは思い出すのだ。
彼女がまだ年端もいかない少女なのだということを。
己の所業に巻き込むことに罪悪感を覚えなかったわけではない。だが、それでも為さねばならない。そのために何を犠牲にしようとも。己が親類も、己が身も、――そして無垢な少女であろうとも。
再びドアベルが鳴らされた。急かすように響く音に、苛立ちながらもミラは入口へと向かう。ゆっくりと扉を開けると、前に立っていたのはフィエルテと同じ年頃の少女だ。
「……何か?」
見覚えのない来訪者だったが、努めて愛想よく彼は口を開いた。少女は出迎えたミラの姿を見て、怯えたように縮こまっていたが、手に持っていたものを彼に渡した。
「あ、あの……! お母さんからです……っ!」
差し出された物を反射的に受け取ってから、彼は目の前の少女の正体に思い至った。今、泊まっている宿屋の娘だ。よく見れば、目元の辺りが女将に似ている。
「ああ……わざわざ済まないね」渡された物は薬包だ。彼は貼りつけたような笑みを少女に向ける。「ありがとう、お嬢さん」
ぺこりと頭を下げて去っていく背に、女将さんによろしくと声をかけて、姿が消えるまで見送った。消えるや否や、彼は部屋に引き返して、フィエルテの傍に戻った。
「フィエルテ」
囁きかけると、彼女は薄っすらと目を開けた。
「……ミラさま……?」
「起きれるか」
はい、と吐息のような返事をして、ゆっくりとフィエルテは体を起こした。それを手伝いながら彼は彼女の額に手を当てた。わざわざ確かめるまでもなく熱かった。それは赤く火照った頬が物語っている。
彼は水差しを取り、グラスに水を注ぐと、薬包と共に彼女に渡した。
薬包を見て、ぼんやりとしている彼女の表情が少し歪んだ。眉根をきゅっと寄せると、一気に中身を口の中に入れて、水と共に飲み込む。苦いからなのか、辛いからなのか、彼女の目は潤んでいる。
その姿が、再びミラの心臓をじくじくと突き刺すのだ。
窓枠に肘をついて、ヘンリエッタはずっと外を見つめている。その視線の先にあるのはどんよりと厚い雲に覆われた曇天だ。窓に当たる呼気で白く曇ってしまうほど、外の気温は低いらしい。
「おい、ヘンリエッタ。お前、何をしているんだ」
一心に外を眺める彼女を訝しげに見ながら、ローレンスが口を開いた。
「んーと……」彼女は振り返ることなく答えた。「雪が降らないかなって、ずっと見てるの」
彼の眉間の皺が濃くなった。苦虫を噛み潰したような渋面を作ると、大きな溜息をついた。
彼の溜息の音を聞いて、彼女は振り返った。渋い顔をする彼を見て、くすくすと笑い声を上げる。彼は寒いのが嫌いなのだというが、話をするのも嫌がるとは。彼女が笑うので、彼はますます眉間の皺を深くした。
ヘンリエッタは窓枠に面したベッドから飛び下りると、てくてくと暖炉の傍をで本を読む彼の元へと歩いていく。
「ねえ、ロロ」
すり寄りながら甘えた声を出すと、彼は嫌そうに顔をしかめながら、口を開いた。
「何だ」
「お外、行こっ」
「断る」
即答すると、ローレンスは彼女を氷のように冷たい眼差しで見やる。その眼差しの冷たさは、おそらく外の気温より冷たい。
「お前、私が寒いのが嫌いなのを知っているだろう」
だってぇ、と彼女は唇を尖らせた。
「ずっとお部屋の中にいるのつまんないんだもん」
そうだ、と何かを思いついたらしいヘンリエッタが顔を輝かせた。
「じゃあ、わたし一人でお外行ってくる!」
「馬鹿を言うな。私の目の届く範囲にいろ」
間髪容れずに却下されて、彼女は頬を膨らませた。けち、と彼をぽこぽこっと叩くと、しゅんとして窓辺に戻っていく。その様子を横目で見ていたローレンスは、彼女があんまりにもしょんぼりとしているので、深々と溜息をついた。
ヘンリエッタ、と声をかけると、近くのポールハンガーに掛けてあったコートを掴んで、彼女に向かって放り投げる。真正面からそれを受けた彼女は、小さな悲鳴を上げた。
「な、何?」
困惑したようにコートを握り締める彼女に、ローレンスは自分もコートに袖を通しながら言った。
「雪が降るまでなら付き合ってやる。さっさと用意しろ。全く……好き好んで、寒い中に出たがるとは酔狂な……」
見る見るうちに顔を輝かせて、ヘンリエッタは満面の笑みを浮かべた。いそいそとコートを着込んで、マフラーを巻く。あっという間に用意した彼女は、扉の前で早く早くと彼を急かした。その無邪気な笑顔を見て、彼は知らず知らずのうちに口許を緩めていた。
今日は久々の練習のない休みの日。史貴と有名なイルミネーションを観に行く約束をした瞳は待ち合わせ場所に急いで向かっていた。
約束の時間にはまだまだ余裕があるが、いつだって彼はそれより先に待っている。こんな寒い日に外で何十分も待たせるのは、さすがに申し訳ない。彼のことだから、好きで待っているのだから気にしなくていいと言うのだろうけれど。
待ち合わせの場所は駅前広場の銅像の前。どこぞの犬の像みたいに、ここら辺に住む人間にはメジャーな待ち合わせ場所だ。
「史ちゃん!」
銅像の台に凭れかかって、文庫本を開いている青年に向かって瞳は声を張り上げた。
呼ばれた青年はゆっくりと顔を上げて、こちらを向く。瞳の姿を認めて、輝くような満面の笑みを浮かべた。
文庫本を閉じると、トトトと軽やかにこちらに走ってくる。
「おはよう、瞳」
「ええ、おはよう」にこりと微笑んで瞳は答えると、すぐに眉を八の字にした。「待たせて、ごめんなさい」
「さっき来たところで、そんなに待ってないよ」
予想通りの答えが返ってくる。瞳はくすりと小さく笑った。
「嘘、頬っぺが赤くなっているわ」
彼女がそう返すと、彼ははにかんだ。
「楽しみだったから、落ち着かなくってさ。待つのは好きだから、気にしないで」
むうと瞳は唇を尖らせた。
「史ちゃんと約束すると、時間より早く来ても、それよりももっと早く来ているのだもの。どうせなら、中で時間を潰してくれていたらいいのに」
「入れ違いで瞳を待たせるかもしれないだろ」
「そんなの……別にいつも待たせてるのだから、構わないわよ」
「俺が構うの!」
ぶんぶんと首を横に振って、彼は軽い笑い声を上げた。瞳は彼をじっと見つめた。急に黙った彼女に気づいた彼は、不思議そうに彼女を見やった。ぱちりと目が合ったとき、彼の顔が別の意味で朱色に染まる。
その姿を見て、瞳は敵わないなあと息をつく。彼の手を取ると、引っ張って歩き出した。すっかり冷え切っているから、口で言う以上の時間を外で待っていたのだろう。小さな頃は同じくらいだったのに、いつの間にか自分の手よりずっと大きい。
「あ、俺の手、冷たいから……」
彼女に引きずられるように歩き出した彼がそう言ったとき、瞳は彼の手をぎゅっと握り締めると振り向いた。
「あのね、史ちゃん。わたしのこと、あんまり甘やかしちゃ駄目。こうしたら、ちょっとぐらいあったかいでしょ」
顔を赤くした瞳はつんとして、そう言い放った。彼ははにかむと彼女の手を握り返す。
王城の廊下を歩いていたメユールは、石畳の隙間に躓いて前のめりに倒れ込んだ。咄嗟に手をついたので、顔面から地面に突っ込むことは免れたが、掌を擦り剥いてしまった。大した傷ではないが、広範囲に擦り剥いたので、洗い物などをする際に沁みるだろう。ぼんやりと掌を見つめながら、彼女は大きな溜息をついた。
最近、気持ちがふわふわと浮き足立っている。地に足をつけなくてはと思ってはいるのに、なかなか浮遊感は収まらない。そのせいで、あちらにぶつかり、こちらに躓きと、ここのところ生傷が絶えない。
(……原因は、わかっているのだけれど)
ひと月前、彼女は彼にプロポーズされた。とても嬉しかったが、彼と自分では身分が違いすぎる。そう思って丁重にお断りしようと言葉を重ねたが、のらりくらりと躱されて、終いには押し切られそうになった。
口の巧さでは彼に敵わない。今、国内外共に混乱していることを理由に、時勢が落ち着いて平和になるまで返答を待ってほしいと、苦し紛れにメユールは懇願した。彼はそれを快諾した。それで落ち着くはずだったのだが、それから彼は目に見えて、メユールに構い始めたのだ。嬉しいけど恥ずかしくて身悶えしてしまう。彼の侍女であるメユールに、それから逃れる術はなかった。
遠くから、足音が聞こえた。彼女は急いで立ち上がった。埃などを掃って、身だしなみを整えると、先ほどのことなどなかったかのような顔をして、彼女は歩き出した。
明朗な足音はあっという間に迫ってきて、
「メユール!」
肩を叩かれる。彼女は驚いて、肩が跳ねそうになったのを堪えながら、ぎこちなく振り向いた。
「……ジルベール様。どうかなさいましたか?」
「いや、特に差し迫った用事があるわけではない」彼は快活に笑った。「お前を見かけたから、声をかけただけだ」
そうですか、と彼女は強張った笑みを浮かべた。
「お前に訊きたいことがあるのだが……」
「何でしょう」
彼は彼女の腕を掴むと立ち止まった。メユールも仕方なく立ち止まる。
「最近、傷が増えていないか?」
「ここのところ、その……上の空になってしまっていて」
しどろもどろになる彼女を見て、彼は眉を八の字にした。
「俺のせいか?」
「そ、それは違います!」間髪容れずに否定してから、メユールは俯いた。どんどんと顔に熱が集まってくるのがわかる。「嬉しいです、とても。でも……は、恥ずかしくて……」
彼は軽い笑い声を上げた。
「俺はお前を愛している。それは変わらない。仕方ないと、慣れてもらうしかないな!」
そう言うと、林檎のように顔を赤くした彼女を、彼は愛おしげに見つめるのだった。