針間碧

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3/25/2024, 11:42:41 AM

『好きじゃないのに』

 私の趣味は美術館巡りだ。色々な美術館を巡って、様々な作家によって描かれた絵画たちを眺める。ただ、それだけ。
 このような話をすると、大概の人が「誰の絵が好き?」と聞いてくる。あるいは、「印象派?写実派?」といった絵画の特徴に関する話を持ち掛けてくる。私は、そのどちらの質問に対して、こう答える。「別に」と。そう答えると、周りは少し困ったような顔をして、次に何事もなかったかのように次の話題にうつる。
 悪いとは思っているのだ。相手は私の趣味に対して話題を広げようとしてくれたに過ぎない。それをたった一言で無碍にしているのはほかの誰でもない、私自身なのだから。しかし、恐らく次に同じような質問をされても、きっと私は答えられないだろう。
 私は、別に絵画は好きではない。興味もさほどない。では、なぜ美術館に行くのか。それは偏に私という人間の情緒を育てるためだ。私は齢二十四でありながら、人間の感情に対して鈍すぎる節があるらしい。いや、鈍いどころの騒ぎではない、わかってない、と言われた。例えば、今目の前に大量の星で覆われた星空があったとする。普通なら、「綺麗」やら「明るい」やら、何かしらの感想を得るらしい。それが、私には一切ない。ただ、星空がそこにあるだけ。その星空を見てどう思ったか、と言われても、わからない。星空に感情を求めるのか?私にはわからない。
 だから、人々が感情を得るものを見て、自分の情緒を育てようと思った。その一つが、美術館巡りであった。
 正直なところ、絵画を見るのは、そこまで好きじゃない。見ても何も感じられないから。そこに絵画があるだけ、としか感じられず、私の情緒のなさが浮き彫りになってしまうから。でも、何故か人々は絵画を見て、何かを感じている。必死に絵画にかじりついて、片時も離れまいと言わんばかりに見つめ続けている人だっている。私はそのような人たちの気持ちはわからないが、少し羨ましいなと思う。
 私は、絵画は好きではない。好きではないが、いずれは好きになれると、私が見つめる人々のようになれると信じて、今日も私は美術館を訪れる。

3/24/2024, 1:26:54 PM

『ところにより雨』

「…なあ、いい加減魔法やめてくれよ」
「なんで?」
 馬鹿みたいに大きな本を背負って俺の隣を歩く少女に、俺は苦言を呈した。隣のコイツはただ普段通りに歩いているように見えるが、俺にはわかる。コイツは今魔法を使っている。しかも、恐らくはそれなりにはた迷惑になりかねない魔法を。
「お前のせいだろ、ずっと曇りが続いてんの。この雨雲だと数日は雨が続いてもおかしくないのに、一切雨が降ってこない。いくらなんでもおかしすぎる」
「そーんなわけあるかもね」
「ほらあるんじゃないか!」
 隣の少女はすぐに白状してきた。しかも、全く悪びれていない様子。俺がおかしいのかと頭を悩ませていると、コイツは俺の前にまわってきて、俺を見上げながら首を傾げた。
「でも、それは君のせいだよ?」
「なんでそうなるんだよ」
「だって、連日雨続きで足場の悪い山道を歩くの嫌だってぼやいていたの、君じゃん。だから雨降らないようにしてあげたのに」
「うっ……」
 言った。確かに言った。数日前に出発した町から次の村まで、山道を進まざるを得ない。おおぶりではなかったとはいえ、雨が降り続けられると足も取られるし、滑って大事故になりかねないのでできれば避けたかったのだ。とはいえど、天候を変えるなんてこともしたくなかったので、なんとか我慢していた。しかし、朝起きてまだ雨が降っているのを見て、つい口にしてしまったのだ。「雨、いい加減やんでくんねぇかな」と。まだコイツは寝ていると思っていたからすっかり油断していた。まさか聞かれていたとは。
「わたしは君の願いを叶えてあげただけだよ?まあ、さすがに天候を大きく変えることはできないから、せいぜい雨を降らさないように雲を操っているくらいだけど」
 それがせいぜいで済むことではないことに何故コイツは気が付かない。いや、それはこの際いい。コイツの情操教育は今後いくらでもできる。今は、操っている天候をもとに戻すように言うのが先決だ。
「確かに雨がやんでくれればいいのにとは言った。その方が安全に進めるしな。でも、天候を操るのはよくない。世界の循環を狂わせることになるぞ」
「どうして?」
「お前は今、雨を降らさないように雲を操っているといったな。具体的にはどのように操っているんだ」
「そりゃ勿論、雲の中の水分が落下してこない程度の大きさで固定しているの。できるのはわたしから半径五キロってところだけど、わたしたちが今ここを歩いている分にはそこまで問題ないでしょ?」
「俺たちが歩いている分にはな。お前の範囲外に入った雲はどうなるんだ」
「そりゃ勿論、効果が切れるんだから、雨が降るでしょうね」
「ってことは、俺たちの後ろでは、大雨が降ってんじゃないのか?」
 少女は大きな目を瞬かせた。やっぱりコイツ、気づいていなかったな。
「俺たちが楽をしようとした結果、周りが大きな被害にあっているんだ。それは俺の意に沿わない。だから、頼むからその魔法はやめてくれ」
「……わかった」
 随分不本意そうではあったが、雲をコントロールするのはやめてくれるようだ。もとは俺の呟きが発端であるから、コイツばかり叱るのはお門違いではあるのだが、このまま周りが見えないままは問題がある。これを機に、自分の懐に入れた人間以外も目を向けるようになってくれればいいが。
 考え事をしていると、鼻先に水滴が落ちてきたのがわかった。雨を降らし始めてくれたのだろう。
「…ちなみに」
「なんだ?」
「今頭上にある雲も、間違いなくわたしの魔法がかかっていた雲なわけでして」
「そうだな」
「しかも、半径五キロ分の雨を抱えているわけでして」
「……おい、まさか」
「今から、五キロ分の雨が一気に降ってきまーす!」
 ドドドドドドドドド。まるで滝のような雨が一気に降ってきた。前言撤回だ。コイツはもっと叱るべきだった。ていうか、半径五キロ分でこの雨量だったら、その後ろではもっととんでもない雨が降っているんじゃないのか。
「てめぇ!今度あの町に帰ったら、誠心誠意謝れよ!わかったか!」
「大丈夫だよ。私の効果範囲を離れた雲は少しずつ雨が降るように調整はしたから。まあ、その分長期間の雨にはなるけれど」
「それを!先に!言え!」
「ははっ!魔女のいるところにより雨ってね!」
「雨どころの騒ぎじゃねぇだろうが‼」
 まあ、あとでちゃんと町のことも考えているじゃないかと褒めてやろう。そう思いながら、降りしきる大雨をしのげる場所に向かって走り出した。

3/21/2024, 2:45:01 PM

『二人ぼっち』

「お前の今一番叶えたい願いを一つ叶えてやろう。その代わり、お前の二つ目の願いはおれがもらってやろう」
 今、目の前にいる悪魔から、突然そう告げられた。この世に悪魔がいたという事実にも驚きだが、その悪魔がなんとも頓珍漢なことを言ってきたことにも驚いた。
「…そういう時、普通『願いを叶える代わりに命をもらう』っていうのが定石じゃないんですか?」
「確かに普通はそうなんだがな。流石に何千年も命ばかり食らっていたから、飽きがきてしまったのだ。だから、人間の感情を食らうことにした。するとどうだ。人間の願いのなんと美味なことか!人間側も願いを忘れて何不自由なく生きているようだし、お前たちの言葉で言う『うぃんうぃん』というやつさ」
 悪魔がWin-Winの関係を築いていいのだろうか。人間の欲望に対して、命という他の何物にもかえられないものをいただくのが悪魔というものだと思っていたのだが。最近は悪魔もアップデートするようになったらしい。それがいいことなのかどうかは自分にはわかりもしないが。
「さて、おれがお前の願いを求めているのは十分わかっただろう。早くお前の一番叶えたい願いを言うのだ」
「二番目の願いは言わなくてもいいんですか?」
「二番目の願いは必要ない。一番目の願いを叶えた時点でわかるからな」
「はぁ、そういうもんですか……」
「ほら、早く言え。その願いがおれの糧となるのだから」
 そうは言われてもな。自分は今ビルの屋上で飛び降りようとしていたところで、願いも何も未来すら考えていなかった。そんなところに現れるとは、この悪魔はだいぶ抜けているのかもしれない。いや、もしかするとわかっていて自分の前に現れたのかもしれない。それなら、この悪魔の想定通りに動いてやるのもまた一興だろう。
「じゃあ、自分を死なせてください」
「は?」
「もともと自分は死にたくてここにいるんです。だから、なんの問題もなく自分を死なせてください」
「それが、願いなのか?」
 おや、随分と困惑している。もしかして、本当にただただ偶然自分の前に現れただけだったのか?だとしたらとんだおマヌケな悪魔だ。
「いや、ほら、折角願いを叶えられる機会が目の前にあるのだぞ?もっと生産的な願いを言ってみろ」
「ちゃんと生産的じゃないですか。なんたって死体がうまれるんだから」
「それは生産的とは言わない!」
 なぜ自分は悪魔から正論を言われているのだろう。おかしなものだ。これではどちらが人間なのかわからなくなってきそうだ。少しおかしな気分になってきた。
「どれだけ悪魔さんに言われても、自分の願いは変わりません。自分を死なせてください」
「…本当に、それが願いでいいんだな?」
「ええ、問題ありません。後悔もいたしません」
「…わかった。その願い、叶えてやろう」
 そう言うと、悪魔は自分に覆いかぶさり、あたりは一切の闇となった。自分の意識は、そこで途絶えた。



 なんとも酔狂な人間だった。己の欲望のままに生を楽しむことができる手段を与えてやったというのに、それを無碍にしたのだから。この人間が叶えた願いは、到底一人では叶えられないものではなかったのに。わざわざそんな願いを悪魔たるおれにした。本当に不思議なものだ。
 まあいい。とりあえずこの人間の願いは叶えたのだ。二番目の願いをいただくとしよう。さてさて、コイツの願いは、と……。輪廻転生することなく、世界を見届けたい、だぁ?余計わけわからんぞ、コイツ。まさか、死にたいと思っていたのも、この世界に嫌なことがあったからではなく、この世界を見続けたいと望んだからだとでもいうのか?確実にその願いが叶う可能性だって限りなく低いというのに?
 …いや、この二番目の願いが美味であるのは、人間が無意識に願っていることであるからこそのもの。ということは、この人間は意図して願っていたわけではない。となると、この人間は何故かわからんが死にたいと思い、ちょうど目の前に都合よく殺してくれそうな悪魔が現れたから、願いを叶えてもらったと。そういうことになるのか。いやわからん。
 とりあえず、この願いはありがたくいただくとしよう。……うむ、予想通り、いや予想以上に旨い。命は食い飽きたとはいえ、やはり命を天秤にかけたものは限りなく旨い。ここ数百年で一番の味ではないだろうか。
 さて、願いはいただいたことだし、この残ってしまった魂はどうしたものか。今まで願いを叶えた人間は普通に日常生活に戻していたから、日常生活に戻れないコイツの処遇には困ったものだ。せっかくならこの魂も食らってしまってもいいが、対価を既にいただいている以上これ以上コイツからもらうわけにもいかない。放置でもいいが、そうすれば天使どもに連れていかれることは想像に難くなく、それはおれの意に沿わない。
 そうだ。コイツはおれが飼ってしまおう。どうせ捨てられた魂だ。おれが食らう以外で何しようがコイツに文句を言われる筋合いはない。ちょうど話し相手も欲しかったところだ。なんせ人間の願いを食らうようになってから、他の悪魔どもにも敬遠されていつも一人だったからな。わけもわからず死を望んだコイツと、魂を食わないおれ。外れものの二人でちょうどいいではないか。
おい、喜べ人間。これからお前は、おれのしもべだ。せいぜいおれが他の人間どもの願いを食らうさまを共に見続けているがいい。

3/20/2024, 2:29:52 PM

『夢が醒める前に』

 なんということだ。今、私の目の前には推しがいる。何年も追いかけてきた、あの推しが、だ。しかも、私に笑顔を向けている。そんなことはあり得ないのに。
 私の推しはそんなことは絶対にしない。推しは本人も自覚していないくらい博愛主義で、ファンに対してならまだしも、推し自身の周囲に対しても同じように接するからだ。芸能界においてはそれが悪影響になっている時もごく稀にあるようだが、少なくともファンの間では、一種の安心材料となっていた。私たちの推しは、誰のものでもある代わりに、誰のものでもない。それが推し自身によって証明されていたからであった。その推しが、だ。
 もしかして、これは夢なのではないだろうか。急いで私の頬をつまむと、驚くほど痛覚がなかった。驚いてそのまま自身の手で頬をひっぱたいても、痛みは一切ない。なんだ、ゆめか。話の流れとしては、ここで実は夢ではなかった!というほうが面白かったのかもしれないが、まあ夢であるほうが現実的でいいだろう。こちらとしても安心する。私の推しは、皆を平等に愛してこその推しなのだから。
 そこまで考えて、ふと思いいたる。夢というのは、脳内の記憶を睡眠時に処理しているか、あるいは自身が思い描いているものを具現化しているものではなかったか。その場合、前者であることはあり得ない。なんたって、私は推しに微笑まれた記憶なんて一切ないし、そうでなくても他人から今目の前にいる推しのように微笑まれた記憶もないからだ。とすると、この夢は後者になる。私の、想像の、具現化?
 ……そんなわけない!私は推しに対して微笑んでほしいと願っているというのか!そんなわけない!私があの人を推しているのはあの人の博愛主義性を信じているから推しているのだ!私に、ひいては特定の誰かにだけ微笑みかけるような不平等性を見せる推しなんて、そんなの推しじゃない!それはお前のエゴだ?なんとでも言ってくれ。推しという存在に対して、偶像崇拝してしまうのは仕方のないことだろう。私の今の感情について理解は示せなくても、否定をされる謂れはない。
だから、これは、夢じゃない。私は、推しに対して、私にだけ目を向けてほしいという、そんな薄汚れた感情なんて、持ち合わせているはずがない。でも、これは、まごうことなき夢であると、私が私自身に、語りかけていた。それに、もしこれが現実だったとすると、推しが私に微笑みかけているこの状況は、結局、解釈違いとなってしまう。それも、私の本意ではない。
 果たして、どちらが私にとって都合のいい現実なのだろう?私に微笑みかけるような不平等な推しと、そんな推しを想像し、創造してしまっている汚らわしい私。どちらがいいのだろう。私は、無意識に推しに認知してほしいと思っていたとでもいうのだろうか。認知してほしくて推していたわけじゃないのに。これが夢である以上、私は推しにそのような感情を抱いていたということが証明されてしまった。推しは、今もなお私に対して微笑み続けている。私自身はこんなに微笑みかける推しに対して解釈違いを起こし、私自身に嫌悪感を抱いているというのに。
 こんな感情、現実の推しに見せてはならない。私のこの感情は、今殺しきらなければならない。それが、今の推しを推すための条件である。私は、今目覚めてはならない。目覚めるときは、目の前の推しが私を見なくなったその瞬間だ。それまで、決して目覚めてはならない。だというのに、少しずつ脳が覚醒しているのがわかる。推しは変わらず、こちらを見ている。
だめだ、今目が覚めてはだめだ。早く、早く今この感情を殺さなければ。この夢が醒めてしまう前に!

3/18/2024, 3:01:44 PM

『不条理』

 はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……。大雨の降る中、俺は傘もささずに走り続けていた。足元は既に泥にまみれ、見るも無残な姿になっていることだろう。それでも、俺はわき目も降らず走り続けていた。奴らに捕まらないように。捕まったら最後、死は免れない。どうして…どうしてこうなってしまったのだろう。
 別になんてことない日だった。お腹がすいたはいいものの、家に食べられるものが碌になく、近くのコンビニに買い出しに出ている最中であった。俺の家からコンビニまではそこまで遠くない。徒歩で五分かかるかかからないか、といったところか。人通りこそ少ないものの、街灯の少ないこの場所では貴重な光源である。俺は定期的にこのコンビニに通っていた。コンビニには、珍しくパトカーが停まっていた。どうやらパトロール中の警察官がここで一休憩入れているらしい。結構なことだ。最近はやれ救急隊員が休憩していただ、パトカーが意味もなく停まっているだ、世間がうるさいことこの上ない。自己を主張しやすい世の中になったのはいいことだが、いきすぎた主張はかえって世の中を生きづらくする。何故それを理解できないのだろうか。…おっと、口が過ぎた。予定通り何か食べられるものを買って帰るとしよう。俺はコンビニに入り、おにぎりとスナックを買った。
 それは、コンビニからの帰り道であった。いつも通る道の途中にある路地裏から「うぅ……」とうめき声が聞こえてきた。この路地裏はよく酔っ払いが飲んだくれているから、今日も誰かが泥酔しているのだろうと気にせず通り過ぎようとした。しかし、ふと鼻に入ってきたにおいが、普段のアルコールのにおいとは明らかに違った。なんだろう、鉄のような……。血?まさか、誰かが倒れて血が出ているんじゃないだろうか。ここまで血のにおいが流れてきているのであれば、相当出血している可能性が高い。そうであれば話は別だ。このまま帰るのは気が咎める。俺は急いで暗い路地裏を進んだ。
 スマホであたりを照らしながら、声の主を探す。声の大きさからしてそこまで遠くはないはず。倒れている人の声を逃さないよう静かに、慎重に進んだ。少しすると、声の主らしき人が倒れているのが見えた。暗がりながらも、赤い血だまりができているのも確認できた。
「大丈夫ですか!」
 焦って近づこうとした、その時だった。倒れている人とは別に、違う人もいるのに気が付いた。その人は、倒れている人の目の前にいた。いや、正確には一人ではなかった。複数人いた。どうやら倒れている人を無視して去ろうとしているところであったようだ。全員こちらを振り向くような体勢になっていた。なぜこの人たちは倒れている人を助けようとしないのだろう。そう思いつつ、救急車を呼ぶようお願いしようと息を吸った時だった。
「ヒュッ」
 吸い込んだ息を、もう一度吸い込んだ。彼らの内の一人の手に、大きめの刃物が握られているのが目に見えたからだ。しかも、その刃物は赤く光り輝いていた。
 間違いない。倒れている人は、彼らによって殺されたのだ。死体をそのままに去ろうとしたところで、俺が出くわしてしまった。現状を、瞬時に理解してしまった。
 彼らが何を話しているのかわからない。耳鳴りがし、聞こえてこない。ただ、この現場を見てしまった俺の処遇をどうすべきか話をしているのだけはなんとなくわかった。今俺にできることは、今の状況を背にして逃げることだけであった。
 そのまま走る。走る。家に帰るわけにもいかず、焦ってコンビニとは逆方向に走ってしまい、どこを走っているのかもわからなくなってきた。いつの間にか雨が降り始め、アスファルトで覆われていた地面は、雨を吸い込んだ土に様変わりしていた。
 とうとう足がもつれて倒れてしまった。と同時に、俺の後ろ髪を思いっきりつかまれ、無理矢理顔をあげさせられた。目の前には先ほどの集団の内の一人の顔があり、微笑を浮かべながらこちらに語りかけてきた。
「すまないね。見られたからには生かして帰すわけにはいかないんだ。君の運の悪さを恨むがいいさ」
 目の前の男が言う言葉が、遠くなってきた。
 なぜ、なぜこんなことになっているんだ。俺は荒事が苦手だから、誰の邪魔にもならないように静かに生きてきたのに。なぜ「見た」だけでこんな目に合わないといけないんだ。なぜ、このような不条理を受け入れなければならないのだ。
 俺は、そのまま意識を失った。

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