針間碧

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『夢が醒める前に』

 なんということだ。今、私の目の前には推しがいる。何年も追いかけてきた、あの推しが、だ。しかも、私に笑顔を向けている。そんなことはあり得ないのに。
 私の推しはそんなことは絶対にしない。推しは本人も自覚していないくらい博愛主義で、ファンに対してならまだしも、推し自身の周囲に対しても同じように接するからだ。芸能界においてはそれが悪影響になっている時もごく稀にあるようだが、少なくともファンの間では、一種の安心材料となっていた。私たちの推しは、誰のものでもある代わりに、誰のものでもない。それが推し自身によって証明されていたからであった。その推しが、だ。
 もしかして、これは夢なのではないだろうか。急いで私の頬をつまむと、驚くほど痛覚がなかった。驚いてそのまま自身の手で頬をひっぱたいても、痛みは一切ない。なんだ、ゆめか。話の流れとしては、ここで実は夢ではなかった!というほうが面白かったのかもしれないが、まあ夢であるほうが現実的でいいだろう。こちらとしても安心する。私の推しは、皆を平等に愛してこその推しなのだから。
 そこまで考えて、ふと思いいたる。夢というのは、脳内の記憶を睡眠時に処理しているか、あるいは自身が思い描いているものを具現化しているものではなかったか。その場合、前者であることはあり得ない。なんたって、私は推しに微笑まれた記憶なんて一切ないし、そうでなくても他人から今目の前にいる推しのように微笑まれた記憶もないからだ。とすると、この夢は後者になる。私の、想像の、具現化?
 ……そんなわけない!私は推しに対して微笑んでほしいと願っているというのか!そんなわけない!私があの人を推しているのはあの人の博愛主義性を信じているから推しているのだ!私に、ひいては特定の誰かにだけ微笑みかけるような不平等性を見せる推しなんて、そんなの推しじゃない!それはお前のエゴだ?なんとでも言ってくれ。推しという存在に対して、偶像崇拝してしまうのは仕方のないことだろう。私の今の感情について理解は示せなくても、否定をされる謂れはない。
だから、これは、夢じゃない。私は、推しに対して、私にだけ目を向けてほしいという、そんな薄汚れた感情なんて、持ち合わせているはずがない。でも、これは、まごうことなき夢であると、私が私自身に、語りかけていた。それに、もしこれが現実だったとすると、推しが私に微笑みかけているこの状況は、結局、解釈違いとなってしまう。それも、私の本意ではない。
 果たして、どちらが私にとって都合のいい現実なのだろう?私に微笑みかけるような不平等な推しと、そんな推しを想像し、創造してしまっている汚らわしい私。どちらがいいのだろう。私は、無意識に推しに認知してほしいと思っていたとでもいうのだろうか。認知してほしくて推していたわけじゃないのに。これが夢である以上、私は推しにそのような感情を抱いていたということが証明されてしまった。推しは、今もなお私に対して微笑み続けている。私自身はこんなに微笑みかける推しに対して解釈違いを起こし、私自身に嫌悪感を抱いているというのに。
 こんな感情、現実の推しに見せてはならない。私のこの感情は、今殺しきらなければならない。それが、今の推しを推すための条件である。私は、今目覚めてはならない。目覚めるときは、目の前の推しが私を見なくなったその瞬間だ。それまで、決して目覚めてはならない。だというのに、少しずつ脳が覚醒しているのがわかる。推しは変わらず、こちらを見ている。
だめだ、今目が覚めてはだめだ。早く、早く今この感情を殺さなければ。この夢が醒めてしまう前に!

3/20/2024, 2:29:52 PM