『二人ぼっち』
「お前の今一番叶えたい願いを一つ叶えてやろう。その代わり、お前の二つ目の願いはおれがもらってやろう」
今、目の前にいる悪魔から、突然そう告げられた。この世に悪魔がいたという事実にも驚きだが、その悪魔がなんとも頓珍漢なことを言ってきたことにも驚いた。
「…そういう時、普通『願いを叶える代わりに命をもらう』っていうのが定石じゃないんですか?」
「確かに普通はそうなんだがな。流石に何千年も命ばかり食らっていたから、飽きがきてしまったのだ。だから、人間の感情を食らうことにした。するとどうだ。人間の願いのなんと美味なことか!人間側も願いを忘れて何不自由なく生きているようだし、お前たちの言葉で言う『うぃんうぃん』というやつさ」
悪魔がWin-Winの関係を築いていいのだろうか。人間の欲望に対して、命という他の何物にもかえられないものをいただくのが悪魔というものだと思っていたのだが。最近は悪魔もアップデートするようになったらしい。それがいいことなのかどうかは自分にはわかりもしないが。
「さて、おれがお前の願いを求めているのは十分わかっただろう。早くお前の一番叶えたい願いを言うのだ」
「二番目の願いは言わなくてもいいんですか?」
「二番目の願いは必要ない。一番目の願いを叶えた時点でわかるからな」
「はぁ、そういうもんですか……」
「ほら、早く言え。その願いがおれの糧となるのだから」
そうは言われてもな。自分は今ビルの屋上で飛び降りようとしていたところで、願いも何も未来すら考えていなかった。そんなところに現れるとは、この悪魔はだいぶ抜けているのかもしれない。いや、もしかするとわかっていて自分の前に現れたのかもしれない。それなら、この悪魔の想定通りに動いてやるのもまた一興だろう。
「じゃあ、自分を死なせてください」
「は?」
「もともと自分は死にたくてここにいるんです。だから、なんの問題もなく自分を死なせてください」
「それが、願いなのか?」
おや、随分と困惑している。もしかして、本当にただただ偶然自分の前に現れただけだったのか?だとしたらとんだおマヌケな悪魔だ。
「いや、ほら、折角願いを叶えられる機会が目の前にあるのだぞ?もっと生産的な願いを言ってみろ」
「ちゃんと生産的じゃないですか。なんたって死体がうまれるんだから」
「それは生産的とは言わない!」
なぜ自分は悪魔から正論を言われているのだろう。おかしなものだ。これではどちらが人間なのかわからなくなってきそうだ。少しおかしな気分になってきた。
「どれだけ悪魔さんに言われても、自分の願いは変わりません。自分を死なせてください」
「…本当に、それが願いでいいんだな?」
「ええ、問題ありません。後悔もいたしません」
「…わかった。その願い、叶えてやろう」
そう言うと、悪魔は自分に覆いかぶさり、あたりは一切の闇となった。自分の意識は、そこで途絶えた。
なんとも酔狂な人間だった。己の欲望のままに生を楽しむことができる手段を与えてやったというのに、それを無碍にしたのだから。この人間が叶えた願いは、到底一人では叶えられないものではなかったのに。わざわざそんな願いを悪魔たるおれにした。本当に不思議なものだ。
まあいい。とりあえずこの人間の願いは叶えたのだ。二番目の願いをいただくとしよう。さてさて、コイツの願いは、と……。輪廻転生することなく、世界を見届けたい、だぁ?余計わけわからんぞ、コイツ。まさか、死にたいと思っていたのも、この世界に嫌なことがあったからではなく、この世界を見続けたいと望んだからだとでもいうのか?確実にその願いが叶う可能性だって限りなく低いというのに?
…いや、この二番目の願いが美味であるのは、人間が無意識に願っていることであるからこそのもの。ということは、この人間は意図して願っていたわけではない。となると、この人間は何故かわからんが死にたいと思い、ちょうど目の前に都合よく殺してくれそうな悪魔が現れたから、願いを叶えてもらったと。そういうことになるのか。いやわからん。
とりあえず、この願いはありがたくいただくとしよう。……うむ、予想通り、いや予想以上に旨い。命は食い飽きたとはいえ、やはり命を天秤にかけたものは限りなく旨い。ここ数百年で一番の味ではないだろうか。
さて、願いはいただいたことだし、この残ってしまった魂はどうしたものか。今まで願いを叶えた人間は普通に日常生活に戻していたから、日常生活に戻れないコイツの処遇には困ったものだ。せっかくならこの魂も食らってしまってもいいが、対価を既にいただいている以上これ以上コイツからもらうわけにもいかない。放置でもいいが、そうすれば天使どもに連れていかれることは想像に難くなく、それはおれの意に沿わない。
そうだ。コイツはおれが飼ってしまおう。どうせ捨てられた魂だ。おれが食らう以外で何しようがコイツに文句を言われる筋合いはない。ちょうど話し相手も欲しかったところだ。なんせ人間の願いを食らうようになってから、他の悪魔どもにも敬遠されていつも一人だったからな。わけもわからず死を望んだコイツと、魂を食わないおれ。外れものの二人でちょうどいいではないか。
おい、喜べ人間。これからお前は、おれのしもべだ。せいぜいおれが他の人間どもの願いを食らうさまを共に見続けているがいい。
『夢が醒める前に』
なんということだ。今、私の目の前には推しがいる。何年も追いかけてきた、あの推しが、だ。しかも、私に笑顔を向けている。そんなことはあり得ないのに。
私の推しはそんなことは絶対にしない。推しは本人も自覚していないくらい博愛主義で、ファンに対してならまだしも、推し自身の周囲に対しても同じように接するからだ。芸能界においてはそれが悪影響になっている時もごく稀にあるようだが、少なくともファンの間では、一種の安心材料となっていた。私たちの推しは、誰のものでもある代わりに、誰のものでもない。それが推し自身によって証明されていたからであった。その推しが、だ。
もしかして、これは夢なのではないだろうか。急いで私の頬をつまむと、驚くほど痛覚がなかった。驚いてそのまま自身の手で頬をひっぱたいても、痛みは一切ない。なんだ、ゆめか。話の流れとしては、ここで実は夢ではなかった!というほうが面白かったのかもしれないが、まあ夢であるほうが現実的でいいだろう。こちらとしても安心する。私の推しは、皆を平等に愛してこその推しなのだから。
そこまで考えて、ふと思いいたる。夢というのは、脳内の記憶を睡眠時に処理しているか、あるいは自身が思い描いているものを具現化しているものではなかったか。その場合、前者であることはあり得ない。なんたって、私は推しに微笑まれた記憶なんて一切ないし、そうでなくても他人から今目の前にいる推しのように微笑まれた記憶もないからだ。とすると、この夢は後者になる。私の、想像の、具現化?
……そんなわけない!私は推しに対して微笑んでほしいと願っているというのか!そんなわけない!私があの人を推しているのはあの人の博愛主義性を信じているから推しているのだ!私に、ひいては特定の誰かにだけ微笑みかけるような不平等性を見せる推しなんて、そんなの推しじゃない!それはお前のエゴだ?なんとでも言ってくれ。推しという存在に対して、偶像崇拝してしまうのは仕方のないことだろう。私の今の感情について理解は示せなくても、否定をされる謂れはない。
だから、これは、夢じゃない。私は、推しに対して、私にだけ目を向けてほしいという、そんな薄汚れた感情なんて、持ち合わせているはずがない。でも、これは、まごうことなき夢であると、私が私自身に、語りかけていた。それに、もしこれが現実だったとすると、推しが私に微笑みかけているこの状況は、結局、解釈違いとなってしまう。それも、私の本意ではない。
果たして、どちらが私にとって都合のいい現実なのだろう?私に微笑みかけるような不平等な推しと、そんな推しを想像し、創造してしまっている汚らわしい私。どちらがいいのだろう。私は、無意識に推しに認知してほしいと思っていたとでもいうのだろうか。認知してほしくて推していたわけじゃないのに。これが夢である以上、私は推しにそのような感情を抱いていたということが証明されてしまった。推しは、今もなお私に対して微笑み続けている。私自身はこんなに微笑みかける推しに対して解釈違いを起こし、私自身に嫌悪感を抱いているというのに。
こんな感情、現実の推しに見せてはならない。私のこの感情は、今殺しきらなければならない。それが、今の推しを推すための条件である。私は、今目覚めてはならない。目覚めるときは、目の前の推しが私を見なくなったその瞬間だ。それまで、決して目覚めてはならない。だというのに、少しずつ脳が覚醒しているのがわかる。推しは変わらず、こちらを見ている。
だめだ、今目が覚めてはだめだ。早く、早く今この感情を殺さなければ。この夢が醒めてしまう前に!
『不条理』
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……。大雨の降る中、俺は傘もささずに走り続けていた。足元は既に泥にまみれ、見るも無残な姿になっていることだろう。それでも、俺はわき目も降らず走り続けていた。奴らに捕まらないように。捕まったら最後、死は免れない。どうして…どうしてこうなってしまったのだろう。
別になんてことない日だった。お腹がすいたはいいものの、家に食べられるものが碌になく、近くのコンビニに買い出しに出ている最中であった。俺の家からコンビニまではそこまで遠くない。徒歩で五分かかるかかからないか、といったところか。人通りこそ少ないものの、街灯の少ないこの場所では貴重な光源である。俺は定期的にこのコンビニに通っていた。コンビニには、珍しくパトカーが停まっていた。どうやらパトロール中の警察官がここで一休憩入れているらしい。結構なことだ。最近はやれ救急隊員が休憩していただ、パトカーが意味もなく停まっているだ、世間がうるさいことこの上ない。自己を主張しやすい世の中になったのはいいことだが、いきすぎた主張はかえって世の中を生きづらくする。何故それを理解できないのだろうか。…おっと、口が過ぎた。予定通り何か食べられるものを買って帰るとしよう。俺はコンビニに入り、おにぎりとスナックを買った。
それは、コンビニからの帰り道であった。いつも通る道の途中にある路地裏から「うぅ……」とうめき声が聞こえてきた。この路地裏はよく酔っ払いが飲んだくれているから、今日も誰かが泥酔しているのだろうと気にせず通り過ぎようとした。しかし、ふと鼻に入ってきたにおいが、普段のアルコールのにおいとは明らかに違った。なんだろう、鉄のような……。血?まさか、誰かが倒れて血が出ているんじゃないだろうか。ここまで血のにおいが流れてきているのであれば、相当出血している可能性が高い。そうであれば話は別だ。このまま帰るのは気が咎める。俺は急いで暗い路地裏を進んだ。
スマホであたりを照らしながら、声の主を探す。声の大きさからしてそこまで遠くはないはず。倒れている人の声を逃さないよう静かに、慎重に進んだ。少しすると、声の主らしき人が倒れているのが見えた。暗がりながらも、赤い血だまりができているのも確認できた。
「大丈夫ですか!」
焦って近づこうとした、その時だった。倒れている人とは別に、違う人もいるのに気が付いた。その人は、倒れている人の目の前にいた。いや、正確には一人ではなかった。複数人いた。どうやら倒れている人を無視して去ろうとしているところであったようだ。全員こちらを振り向くような体勢になっていた。なぜこの人たちは倒れている人を助けようとしないのだろう。そう思いつつ、救急車を呼ぶようお願いしようと息を吸った時だった。
「ヒュッ」
吸い込んだ息を、もう一度吸い込んだ。彼らの内の一人の手に、大きめの刃物が握られているのが目に見えたからだ。しかも、その刃物は赤く光り輝いていた。
間違いない。倒れている人は、彼らによって殺されたのだ。死体をそのままに去ろうとしたところで、俺が出くわしてしまった。現状を、瞬時に理解してしまった。
彼らが何を話しているのかわからない。耳鳴りがし、聞こえてこない。ただ、この現場を見てしまった俺の処遇をどうすべきか話をしているのだけはなんとなくわかった。今俺にできることは、今の状況を背にして逃げることだけであった。
そのまま走る。走る。家に帰るわけにもいかず、焦ってコンビニとは逆方向に走ってしまい、どこを走っているのかもわからなくなってきた。いつの間にか雨が降り始め、アスファルトで覆われていた地面は、雨を吸い込んだ土に様変わりしていた。
とうとう足がもつれて倒れてしまった。と同時に、俺の後ろ髪を思いっきりつかまれ、無理矢理顔をあげさせられた。目の前には先ほどの集団の内の一人の顔があり、微笑を浮かべながらこちらに語りかけてきた。
「すまないね。見られたからには生かして帰すわけにはいかないんだ。君の運の悪さを恨むがいいさ」
目の前の男が言う言葉が、遠くなってきた。
なぜ、なぜこんなことになっているんだ。俺は荒事が苦手だから、誰の邪魔にもならないように静かに生きてきたのに。なぜ「見た」だけでこんな目に合わないといけないんだ。なぜ、このような不条理を受け入れなければならないのだ。
俺は、そのまま意識を失った。
『怖がり』
まんじゅうこわい。かなり広くの人に知られている落語の演目の一つだ。話は単純。互いに怖いものを伝えあっていた時に、とある男だけは「何も怖くない」という。本当か問い詰めると、実は怖いものがある、というので何か尋ねると、「まんじゅう」と呟き、別の部屋にこもってしまう。残った者たちでいたずらを仕掛けようとその部屋に山盛りのまんじゅうを持っていくとその男はひどく狼狽しながらまんじゅうを食べきる。いたずらを仕掛けた者たちは騙されたと気づき、怒りながら本当に怖いものは何か聞くと、次に男はこう答えた。「お茶が怖い」と。
「で、その話がどうしたのさ」
「いや、この話って、別に怖くもないものを怖いと答えて食べられるように仕向けたって話でしょ?この話だとうまくいったけど、もしそれで周りの人たちが哀れに思って饅頭をその男から遠ざけるようにしたら、その男は一生饅頭食べられなかったんじゃないかって思って……」
「そんなことないでしょ。実は嘘だったんだって後でカミングアウトすればいいだけだし、そもそも周りの人たちがいたずらを仕掛けるような性格だってわかってたからこそ言ったのかもしれない。そのあたりはこの話にそこまで詳しくないからわからないけどね」
「そっかぁ。確かに。じゃあ大丈夫だね!」
「いや、それだけ?」
「うん、それだけ」
「…………」
「…………」
話が終わってしまった。何がしたかったんだこの子は。いや脈絡もなく始まるのはいつものことだけど。
話を続けるのも面倒だったのでそのままぼーっとしていると、また隣の友人が話を始めた。
「ねえ、怖いものってある?」
「このタイミングで聞く?」
「うん、なんとなく気になって」
「相変わらずだな。いやまあいいけど」
「で、何が怖いの?」
「うーん急に言われると困るけど……特に怖いものはないかな」
「え、怖いものないの?いろいろあるでしょ幽霊とかなんとか」
「その辺は基本いないと思っているので怖いと思わない」
「そう言って~本当は何か怖いもの、あるんでしょ?」
「…まあ、あるってっちゃあるか」
「それって何?」
「アンタ」
「え?」
「アンタのことが怖いよ」
折角さっき落語の話をしたんだし、その流れにのってもいいだろう。そう思って放った言葉であった。きっとなんて返そうか悩んでいるのだろうなと友人を見てみると、そこには想像とは違う表情をした友人がいた。すごく悲しんでいるような、そんな表情であった。
「な、なんで私のこと怖いの?私そんなに怖いことしたっけ?」
「え、いや、あの」
「もしなにか悪いことしたのなら言って!直すから!」
「いや、さっきの『まんじゅうこわい』の話に合わせたかったんじゃないの?」
「え」
「え」
どうやら違ったらしい。本当に怖いものが知りたかったようだ。話の意図が理解できたようで、友人は一瞬安堵した表情をし、すぐに怒り始めた。
「もう、本当のこと言ってよ!」
「ご、ごめんよ。さっきの『まんじゅうこわい』ってわかってくれるかと思って……」
「それはいいよ、で、本当に怖いものは何なの?」
「そこはいいんだ……。そうだね……」
私は少し考えた。実際、怖いものはあまりない。そりゃあ自然災害とか、怖いものはいっぱいあるが、それは一般的に怖いものであって、私自身が怖いものではないだろう。それなら……。
「私は、『わからないもの』が怖いかな」
「わからないもの?」
「私は、科学的に説明できないものに対して恐怖を感じると思ってる。実際、昔の人は突然起こった現象に対して説明ができないから、妖怪がいる、と結論付けることによって恐怖を紛らわせていた、という話もあるし。だから、私は『理屈では説明をつけられないもの』が怖い」
「へぇ、なるほどね」
「そういう意味では、やっぱりアンタのことは怖いかな」
「え、なんで?」
「だって、私はアンタが次に何をするのか、何をしたいのか想像つかない。そうでなくてもアンタって理屈で説明つくような動きしないし。話の流れ理解しないし」
「それは言い過ぎでは?」
「とにかく、私は常に怖いものと一緒にいるというわけ」
そういうと、今度は友人はとても笑顔になっていた。なぜだ。今私はアンタのことを怖いと言ったんだぞ。今度は嘘じゃないんだぞ。なぜアンタは喜んでいるんだ。
「え、こわっ……」
「わぁ、今度は本当だ!本当に私のこと怖いの?」
「言っておくけど、『わからないことが怖い』んであって、アンタのことを怖いと言っているわけじゃないからね」
「うんうん、わかってるよ」
「絶対わかってない……」
なぜかわからないが、友人の機嫌はよくなったようだ。まあ悪くならなかっただけいいか。
今度は隣で急に鼻歌を歌い始めた友人を、静かに見守った。
『もっと知りたい』
誰も行かない無限の塔。塔の天辺は雲の上より高く、果てが見えない。誰がいつ何のために建てたのか、それすらわかっていない、そんな塔であった。人は皆その塔を気味悪く思い、滅多なことでは近づかなかった。塔に近づくのは、塔についてそこまで詳しくない輩か、研究者によって結成された調査団くらいであった。調査団に属していない野良の研究者もいるにはいるが、忍び込む前に調査団の警備によって摘発されていた。結果として、あの塔は調査団の関係者以外関わろうともしなくなったのであった。
ここで話が終わっては何ら面白くない。というわけで、俺は今その塔の近くの茂みに隠れている。なぜかというと、言うまでもなく、塔に入ってみたかったからだ。別に俺は塔について知らない輩でもないし、野良の研究者でもない。ただ近くの村に住んでいる、村人Aだ。じゃあなぜそんな俺が塔に入ってみたいか。それは、調査団の動きにある。
調査団は、塔を調べるためにやってきている。というのはただの名目だ。なんたって、調査団の者たちが塔に入っていく姿をここ最近見たことがないからだ。それこそ調査団がやってきた最初の頃は塔に入っていく姿を見たが、今や一切見なくなった。ということは、恐らくだが塔の調査はすでに終了している。というにも関わらず、撤退する様子を見せない。きっと、塔から離れられない理由があるのだ。俺はそれを知りたい。
ということで、一人で塔の近くまでやってきている。塔に入るための準備は既に整っている。調査団の食事にこっそり眠りを誘う薬草を入れたのだ。ちょうど今日は野菜たっぷりな食事だったからうまいこと誤魔化せてよかった。そして、極めつけに今、風上から食事に入れた薬草の香を焚いている。この周辺はいろいろな野草が生えているから、多少違うにおいがあっても問題ないだろう。実際、塔の警備は皆一様に目を擦っている。寝てしまうのも時間の問題だ。俺はそのままここで待っていればいい。言うまでもないが、俺には眠りの類は効きにくいから寝てしまうことはない。これで俺まで眠ってしまっていたらただの笑い種だ。
待機すること数十分、問題なく全員眠った。今のうちだ。抜き足差し足で塔の入り口まで向かう。塔へと入れる扉は、その辺にありそうな、しかし頑丈な鉄製の扉であった。果たしてこの塔は本当に警備がつくくらいには重要なものなのだろうか。幾分か疑問を禁じ得ないが、それもこれも塔に入ってしまえば全て解決するだろう。音をたてないように、静かに扉を開いて、中に入った。
中は、意外と明るかった。周りのどこを見ても蝋燭のような明かりになるようなものはないし、外は暗いから、言うまでもなく外の明かりが入り込んでいるわけでもない。入っていてもせいぜい微かな月明かりくらいだろう。もしかしたら魔法か何かで明るさを保っているのかもしれない。そう思いながら俺は塔を見上げた。
塔の天辺は、言うまでもなく何も見えなかった。底なしの闇だ。逆に言えば闇以外何もなかった。地上はこんなに明るいのに、なぜ上はあんなに暗いんだろう。不思議で仕方がない。塔を上るには壁伝いに作られている螺旋階段を上るしかないようだ。……これは、一夜では絶対に帰ってこれないな。まあいい。俺が塔に入ったとバレても、追いかけてくるのも時間がかかるだろう。今さっさと進むに限る。
俺は、階段を一段一段踏みしめて進む。今一気に進んでもいいけれど、体力が切れてしまっては元も子もない。幸いなことに階段にはカーペットが敷かれており、疲れにくくなっているようだった。少しずつ進むが、一切先が見えない。そうでなくてもこの塔には螺旋階段以外何もないのだ。どれくらい時間がたったかすらわからなくなってきた。入った時にも思ったが、本当にこの塔の何が重要なものなのだろうか。わからなく、なってきた。
今や俺は、「この塔の天辺には何があるのか」ということにとらわれていた。この先には、いったい何が。知りたい。知らずにはいられない。もう何もかもどうでもいい。この塔について知ることができれば、もう俺は満足なのだ。
俺には、もう下は見えなかった。
「これはどうしたことだ」
「申し訳ございません、何者かに睡眠薬を盛られたようです」
「被害を報告しろ」
「いえ、特にはなにもございません。ただ、誰かが塔に入った形跡があります」
「…そうか、わかった。ならいい。今まで通り警備をしろ。今後このようなことがないように」
「はっ」
「…にしても、塔に上ったという者は可哀そうなことだ。塔に上ったものは、一度も帰ってこないというのに」