『平穏な日常』
十七匹。それが今日倒した魔物の数。この世界は、魔物にあふれている。
俺は、魔物専門の討伐をしながら旅をしている。なぜ旅をしているのかといわれても、特に意味はない。しいて言えば帰る家もないから放浪している、といったほうが正しいか。魔物討伐だって、金になるからやっているに過ぎない。
俺が生まれる数十年前までは魔物なんて存在はいなかったらしい。突如、空から謎の隕石が降ってきたとともに魔物たちが蔓延るようになったそうだ。未だに隕石と魔物の関連性は解明できていない。
今や魔物は当たり前の存在となった。魔物は理性を持たない、動物となんら変わりない存在。ただ、動物とは違う意図をもって人間を襲ってきていることが判明している。だから、魔物討伐は必要なことであり、金になる。おかげで俺は生きていけるんだから魔物さまさまと言ったところだが。
今日もよく討伐したとほくほく顔で近くの町に向かっていると、獣道で同じく町に向かう人の姿が見えた。向こうもどうやら一人らしい。しかも、見た感じ碌な装備もしていないときた。
ここはそこまで厄介な魔物は存在しないにせよ、なんの装備もしていないのは流石に危ない。とはいえど、声をかけるとそのままの流れで護衛をするはめになりかねない。できるだけ金にならない仕事はしたくない。どうしたものかと悩んでいると、俺がいることに気が付いたようで、向こうから近付いてきた。
「あの、もしかして町へ向かう最中ですか?」
そういってぼろぼろのフードをとったその人は、中性的な顔をした女性であった。てっきり男性だと思っていたので、少し拍子抜けした。
「え、ええ、ハイ」
俺は、できるだけ表情に出さないように答えた。いや、だいぶしどろもどろになってしまったから、少し不審に思われたかもしれない。
幸運にも目の前の女性は気にしていなかったか気づかなかったようで、特に何も変わりなく話を続けた。
「それなら、そこまでご一緒しませんか?」
やはりそうきたか。しかし、どう見ても魔物と闘えそうな風貌をしていない。それに金を持っているようにも見えない。どう断ったものかと悩んでいる時だった。
「大丈夫ですよ。ここには魔物は出てきません」
「え、どういうことですか?」
「私はこの周辺の魔物の生態を調べているんです。そして、調べていくうちにこの獣道を使っている間は魔物には襲われないことが分かったんです」
「それはまたどうして。獣道なんて、人間を簡単に襲える格好の場所でしょうに」
「そうですね。しかし、魔物はこの獣道には近づけないのです。この花が咲いているから」
そう言って女性が顔を向けた先には、小さなスミレの花がそこかしこに咲いていた。淡い紫色がそこら中に散らばっている。それなりによく見る花だと思うが、果たしてこれが魔物が近づけない理由なのだろうか。
「正確に言うと、このスミレ特有の紫色が魔物には近づけない原因ではないかと推測しています。実際、他の色のスミレが咲いている場所では魔物は普通に出現する」
「じゃあ、この紫を再現できればいいのでは?」
「紫は貴族の色です。平民である私たちが簡単に身に着けることは禁じられています。それに、この色を再現すること自体難しいのです」
「そ、それならこのスミレを増やせば村が襲われる心配もなくなるのでは?」
言いながら、何を言っているんだ俺は、と自分に対してつっこんでいた。そうやって魔物の心配がなくなったら俺の仕事はなくなってしまう。それは困る。しかし、研究者を名乗る女性の話が気になって仕方なかった。
女性は、俺の疑問に対して誠実に回答してくれた。
「このスミレの植生は少し難しいようで、簡単に増やせないんです。今この獣道に育っているスミレを維持するのが限度です」
「そうなのか……」
安堵したような、気落ちしたような、複雑な気持ちであった。とりあえず、この獣道は安全は確保されているようだ。それならこの女性と一緒でもいいだろう。二人で町に向かって歩を進めた。
…道中でこんなに平穏な気持ちでいられるとは思わなかった。今まで、町や村へ向かう道中は警戒など怠ってはならなかった。改めて周囲を観察すると、普段は感じない木々のざわめきや鳥の囀りを感じられた。隣を見ると、俺以上に落ち着いて周囲を観察していた。
「…私は、今の状況がいいことだとは思っていません。今や魔物が存在する世界を当たり前となってしまっている。だから、できるだけ早く魔物の生態を解き明かして、魔物の存在しない日常を取り戻したいのです」
彼女の言うことはあまりにも無謀であった。机上の空論といってもいい。空論にすらなっていないかもしれない。しかし、彼女の決意は固く、俺には反論することができなかった。
…魔物が存在しない世界か。そんな世界、本当に叶うのだろうか。
「…俺も、そんな世界、見てみたいです」
ふと口に出てしまった言葉は、噛みしめれば噛みしめるほど自身の中で大きくなっていった。魔物と常に対峙するこの生活はなくなり、稼ぎはなくなってしまうかもしれないが、平穏な日常を取り戻すことができる。それは俺にとっても理想だったのかもしれない。
隣の女性は嬉しそうにはにかんでいた。それを見ながら、スミレが咲き誇るこの獣道を、ゆっくり進んでいった。
『愛と平和』
「正義のヒーローに!俺はなる!」
「いや無理だろ」
開口一番、友人から辛辣な言葉を向けられてしまった。酷いなぁ。いつものことだけど。
「なんで無理なんだよ。なれるかもしれないだろ」
「じゃあ聞くが、果たしてどのようなヒーローとやらになりたいんだ」
「だから、正義のヒーロー」
「その正義は何かって聞いてんだ」
「それは、正しいことをする事だろ」
「その正しいことって何なんだ」
「何って言われても……」
ここまで詳しく聞かれるとは思っていなかった。いつも通り、ただ一蹴されて終わるものと思っていた。だからこそ軽々しく口にしたというのに。案の定俺は具体的に話すことができず、友人を睨みつけながら黙り込んでしまった。友人はそんな俺を見て、すまない、少し言い過ぎた、と謝ってきた。
「別に全否定をしたいわけじゃない」
「でも最初に無理って……」
「どうせお前は具体案を考えてないだろうと思ったから無理って言ったんだ。イメージできないものになれるはずがない」
そう言って、友人は少し考え込む仕草をし始めた。こういう時のコイツは、どう説明すべきか悩んでいる時なので、急かすことなく静かに待つ。間もなく話す内容がまとまったのか、仕草をやめてこちらを向いた。
「正義というのは、確かに正しいことをすることかもしれない。でも、ただ正しいことをするのがいいことにつながるとも限らないんだ。…試しに聞いてみるが、お前は嘘をつくことは正しいことだと思うか?」
「そりゃ悪いに決まってるだろ」
「お前ならそう答えるだろうな。じゃあ、たとえ話をするぞ。例えば、今目の前でとあるカップルが破局しようとしているとする」
「それってお前のことになるけど」
「例えだっつってんだろ。そのカップルは偶然にも両方ともお前の友人であった」
「やっぱりお前じゃん」
「黙れ」
「はい」
「破局の理由は、彼氏側に他に好きな人ができたから。ここまで聞くと、どちらが悪い?」
「そりゃ勿論彼氏側だろ」
「まあそうだな。彼女は当然怒って出ていく。だが、お前は知っている。その彼氏が決して不貞などをするような性格ではないことを」
「お前なら絶対にしないだろうな」
「…もうそれでいいよ。その後、お前は彼氏側に声をかけ、詳細を聞くだろう。最初こそ彼氏は先ほどと同じ理由を言い続けるが、お前の熱意に負けて、ポツリとこう言い放った。『医者から余命宣告を受けている』と」
「⁉」
「それを聞いたお前は理解する。別れたのは彼女が後腐れなく次の相手を探せるようにするためだと。だが、先ほどのお前の定義では、嘘は正しいことではない。さあ、お前はどうする?」
「それは……」
「お前は、その彼氏の決意を無駄にするのか?」
「そんなことできない!」
「そういうことだ。正義やら正しいことやら、そういった言葉は大抵曖昧なものなんだ」
「……」
コイツの言っていることはもっともだ。俺は全く正義なんてものを理解してはいなかった。こんなに柔軟に対応しなければならないとは。
「…なんか、自信なくなってきた」
「いや、否定してからいうのもなんだが、お前なら正義のヒーロー、とまでは言わないが、慕われる存在にはなれると思うぞ」
「え、なんで?」
「お前、ちゃんと周りのことを考えて行動できるだろ。それも理屈抜きで。正義のヒーローなんてわけもわからん名称をつけなくとも、お前は十分周りから愛される存在になれるさ」
「お前……いいやつだな」
「何を今更」
「じゃあ正義のヒーローになるのはやめるよ。今まで通りの俺でいる」
「是非そうしてくれ」
「あ、でも、さっきの話だけど」
「さっきの話?」
「たとえ話だよ。もしお前が余命宣告で嘘ついて別れたなら」
「だからそれは俺にしなくてもいいんだが……」
「まあ聞けって。もしあのたとえ話がお前なら、俺はそれでも正直に言うべきだって言うね」
「それはまた、なんでだ?」
「だってわざとだとしても、お前が悪く言われるの嫌だから。誤解されたままで終わりにしてほしくない」
友人は虚を突かれたような顔をした。その後、すぐにそっぽを向いて何かを呟いた。
「全く、なんとも傲慢で、愛と平和にまみれたヒーローだよ」
『過ぎ去った日々』
友が死んだ。十年来の友人であった。まだ、二十五歳という若さであった。あれだけ元気で、何なら私よりも健康であった友人が、だ。交通事故であっけなく死んでしまったのだ。友人と飲み屋で語り合って、次の約束をして別れた後の事だったらしい。一週間一切音沙汰なかったので、心配して連絡したら、親族が出てきて教えてくれた。
葬儀はとっくに終わっていた。それもそうだ。私は彼女と友人でこそあったが、彼女の親族とは話したことも、関わったこともなかったから。親族は彼女のスマホを開くことができず、連絡もできなかった。結果的に、親族のみで葬儀は済ませたとのことだった。
私は、線香だけでもあげさせてもらった。仏壇に置いてある友人の写真は、私の見たことのない写真であった。彼女の母から話を聞いたが、どうやら遺影は二十代のものを使いたかったそうで、既に準備を済ませていたそうだ。そんなこと、私は知らなかった。少なくとも私の知る彼女は、一切死をにおわせるようなことは言ってこなかった。しんどいことがあっても、いつでも明るい未来を信じて進んでいたから。
……私は、彼女のことを、何も知らなかったのか。確かに私だって彼女に言っていなかったこともあったろうし、彼女もそうだったろう。それでも、彼女のことは最低限は知っているものと思っていた。
できる限り平常心を保つように心がけながら友人の母親にお礼を告げ帰ろうとすると、友人の母親は涙を浮かべながら一礼を返してくれた。
帰り道、スマホが鳴ったので開いてみると、何故か亡くなった友人からメールがきていた。普段SNSを使ってやり取りをしていた友人が、だ。おかしいと思ってすぐに開くと、どうやら予約メールをしていたようだった。私は近くの公園のベンチに座り、メールを読み始めた。
多分私はそろそろ死ぬので、早めに手紙を送っておくね!もしこのメールが届いた時点で私がまだ生きてたら、その時は笑いとばしてやってよ。
私は、そろそろ死ぬって知ってた。そんなわけないって思ってる?それが、本当に知っていたの。今まで、私はちょっと先の未来が予測できた。本当にちょっと先だけどね。どこかとある重要地点が訪れそうになると発生してた。だから、私はいつも大事なところでは失敗したことないでしょ?きっとあなたなら理解してくれるはず。
さて、もし本当に未来が見えていたとして、何故死を回避しないのかって疑問に思うよね。もしあなたからこんなメールが届いたら、私だって気になるもの。…確かに、私が事故にあわない未来を選択することもできた。でも、その未来を選択すると、別の人が死んでしまう。どちらかしか選択できないみたい。悩んだ。悩んで悩んで……私が死ぬことにした。実は、このメールを打っているのもその決意をしてすぐに書いてる。これを書かないと、勇気が出せないから。
ごめんね。あなたを私の決意のためのだしにして。怒ってくれて構わないよ。一方的に絶交してくれても構わない。それでも、そうしたくなるくらいあなたは私にとって大事な存在だった。
今までありがとう。これからはどうか、私のことは忘れて生きて。あなたはあなたが私に語ってくれた未来を信じて生きて。
メールはここで終わっていた。彼女らしい内容であった。彼女らしすぎて一周回って笑ってしまった。公園で遊んでいた子供たちがこちらを不思議そうに見ているが、知ったことではない。
彼女は、彼女らしく生きた。それが知ることができただけでも、私は満足であった。彼女は、自分のことは忘れてくれと言ってきたが、そんなことできるわけがない。私は、私だけは彼女の生き様を覚え続けていく必要があるのだ。
これからは彼女のいない未来を進んでいかなくてはならないが、彼女との日々は決して色あせない、変わらないものとなるだろう。
『お金より大事なもの』
「やってしまった……」
「いや、自業自得だろ」
間髪入れず隣の友人に呆れられた。正直なところ否定はできない。なんたって、競馬で今の有り金全てスッてしまったのだ。
「まさかこんなに競馬が楽しいとは……」
「お前、もうギャンブルに関わる場所には一切行くな。破産する未来が容易に見える」
「身に染みたよ……」
本当にこんなつもりではなかったのだ。今持っているお金には、日々の生活費だけでなく、今月の光熱費を払うための金も入っていた。別に銀行に蓄えがないわけではないからもう一度おろしてくればいい話ではあるのだが、その蓄えもたくさんあるわけではないからできればお金を次におろすのは来月にしておきたかった。こればかりは後悔しかない。
因みに友人は俺が無理矢理ここに連れてきたというのもあったので、友人の賭け分も俺が出していた。友人は折角だからと千円分賭け、僅かだが勝っていた。俺は見事に負けたのに。友人はちゃっかりその金を懐に入れていた。
「で、最初はそんなに賭けるつもりもなかったくせに、どうして競馬に来たいなんて言い始めたんだ」
渋々競馬場の出口に向かいながら、友人は俺に訊ねてきた。それは競馬場に行くぞと言われたときに気になるものではないのか?まあいいが。俺はつっこむことなく答えた。
「馬が駆ける様を直接見てみたかったんだ」
「確かにお前の動物好きは知ってるけどさぁ。別にそれならここじゃなくたってよかったろ」
「いや、ここがよかったんだ」
「だからなんでだよ」
「馬たちがいろいろな感情を持って走る様子を見たかったんだよ。日本じゃそもそも野生の馬なんて碌に見れやしないし、動物園だと本気で走っている様は滅多に見られない。手っ取り早く本気で、感情を持って馬たちが走る様子を見られるのが毛羽場だと思ったんだ」
「言いたいことはわからんでもないが、そんなに馬たちが感情を出してるか?皆必死に走ってたろ」
「いや、よく見ると馬はかなり個性的だ。例えば今日五着だった馬。最初はやる気がなかったが、途中でやる気を出したからそこまで這い上がれたんだ。まあ、最初からやる気があればもっといい順位を取れていたかもしれないが」
「そうだったのか?てっきり騎手にはやされて速度を上げたもんだと思っていた」
「いや、あれは確実にやる気の問題だった」
「へぇ、そういわれたら少し面白いな」
「だろ?馬たちは決して旗手たちの命令だけで走っているわけじゃないんだ。彼らの意思で走っているんだ」
「ふぅん。それなら、そんな彼らに敬意を示したという意味でもお金を払ったのはよかったんじゃないか?」
「⁉」
神からの啓示を受けた気分だった。確かにそうだ。世の中には推しには貢ぐ、という考え方もあるのだ。今回の場合は、俺が競馬の馬たちに敬意を示して、彼らに対して貢いだ、と考えれば、今日のスッた金も、必要なものに感じてきた。
「お前、めっちゃいいこと言うな」
「とはいえど、今後ギャンブル系の場所に行くのはよしたほうがいいのは確かだけども」
「もともと俺は馬たちの感情を持って走る様を見に来たんだ。彼らの感情の一端を見せてもらえていると考えれば、お金なんて比べ物にならないくらい大事なものだったな」
「聞いてないなコイツ」
なんとなく満足してしまった。もう今やスッてしまったお金など、頭の端にすら存在しなかった。
「……だから、この場合は節度を保つという意味でも金も大事だろ!!」
隣で友人が何か言っているようだが、有頂天だった俺は馬の耳に念仏であった。
『月夜』
なんともまあ明るい夜だ。街灯がそこかしこで点灯し、黒いアスファルトを白く彩っている。こんな夜をこの田舎で見られるとは、私が子どもの頃は露にも思わなかった。それもこれも、とある会社のとある事業が成功し、この土地に移り住む人が増えてきたからだ。今まで碌に整備されていなかったインフラが整備されはじめ、この周辺でそれなりに大きめの市街地へも行きやすくなった。この街灯たちは、その経過の一つに過ぎない。
私は嬉しかった。親の事業を継ぐことを決意しこの土地で一生を過ごすと決めてから、この土地に対して物足りなさを感じていたから。勿論親の事業を継いだことに後悔はない。この土地に対してもそれなりの不便はあれど、不満はそこまでなかった。ただ、去っていく若者を見て、もの悲しさを感じてしまうのは仕方のない事であった。今やそれが若者がこちらから来てくれるようになったのだ。私の事業が成功したわけではないが、この繫栄をもたらした会社には足を向けて寝られないくらいには感謝していた。
ある日の事。今日の仕事を切り上げた後、なんとなく散歩をしたいと思い、海辺へと足を運んだ。この海辺は漁港の近くにあり海水浴目的で訪れる人はほぼいない為、年中静寂を保っている海辺だった。私は子どもの頃からこの海辺が好きで、暇さえあればここに来ていた。今は色々理由をつけて来れていなかったが、久々に来ても変わらない風景に安堵した。
大方散策を終えて帰ろうとしたときだった。何やら大きな荷物を抱えた青年がやってきた。青年はこちらを一瞥もせず、そのまま砂浜で荷物をほどき始めた。最初はここにキャンプでもしに来たのかと思った。この土地が栄え始めた頃、ここでキャンプをしようとして怒られていた人を何人か見たからだ。最近はめっきり減っていたようだが、もしかしたら彼もその一人なのかもしれない。もし本当にキャンプをしようとしているのなら注意しようと思い、青年に近づいた。
「ここでのキャンプは禁止されているよ」
「知ってます」
「では、ここで何をしようとしているんだ」
「天体観測です。一応役所からの許可も得ています」
確かに、青年が広げているのは大きな望遠鏡であった。一般的な望遠鏡とは違う、所謂本格的なものであろうことは想像に難くなかった。
「なるほど、それなら問題ないな。でも、ここで天体観測とは珍しい。普通天体観測は山でするものではないのかい」
私は純粋な疑問を青年に投げかけた。青年はこちらを見ることはなかったが、無視する気もないようで、私に答えてくれた。
「確かに山の方が星を確実に見ることができますが、今回の目的は別にあるので」
「その目的はなんなんだ?」
「写真撮影ですよ。この辺で海と月が一緒に撮れる場所はここくらいですから」
「そうなのか?ここには昔から住んでいるが、そんなの気にした事なかった」
「気にすることではないですからね。今まではこの周辺の海岸沿いなら大体綺麗に見れたんです。だから、気にしなくてもいつでも見られた」
「今はそうではないのかい?」
「はい。土地の発展によって他の海岸は街灯が近くに設置され、海辺ですら空を満足に見にくくなってしまった。残っているのはここくらいなんです」
言われて周りを見渡すと、確かにこの周辺は街灯がない。そのおかげか、水面に鏡のように月が浮かんでいるのが見えた。
「それでは、君はこの景色を撮りに来たのかい」
「ええ。…ここもいずれは、見られなくなってしまうかもしれないので」
そういう青年の顔は、少し寂しそうであった。ここを長く知っているのは私のはずなのに、まるでそれよりも長い年月見てきたかのような顔でもあった。
「そうかい。いい写真が撮れるといいね」
それは、嫉妬でもなんでもなく、素直な願いであった。それを聞いた青年ははじめてこちらを見て、微笑を浮かべた。私は、そのまま青年のもとを去った。
新しいものを求めると古いものは淘汰される。皆それに気付かず通り過ぎてしまう。私はそれを分かっていたつもりで、実のところ何も分かってはいなかった。
私は、今日見た景色と青年の顔を心に刻みつけた。