針間碧

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『月夜』

 なんともまあ明るい夜だ。街灯がそこかしこで点灯し、黒いアスファルトを白く彩っている。こんな夜をこの田舎で見られるとは、私が子どもの頃は露にも思わなかった。それもこれも、とある会社のとある事業が成功し、この土地に移り住む人が増えてきたからだ。今まで碌に整備されていなかったインフラが整備されはじめ、この周辺でそれなりに大きめの市街地へも行きやすくなった。この街灯たちは、その経過の一つに過ぎない。
 私は嬉しかった。親の事業を継ぐことを決意しこの土地で一生を過ごすと決めてから、この土地に対して物足りなさを感じていたから。勿論親の事業を継いだことに後悔はない。この土地に対してもそれなりの不便はあれど、不満はそこまでなかった。ただ、去っていく若者を見て、もの悲しさを感じてしまうのは仕方のない事であった。今やそれが若者がこちらから来てくれるようになったのだ。私の事業が成功したわけではないが、この繫栄をもたらした会社には足を向けて寝られないくらいには感謝していた。
 ある日の事。今日の仕事を切り上げた後、なんとなく散歩をしたいと思い、海辺へと足を運んだ。この海辺は漁港の近くにあり海水浴目的で訪れる人はほぼいない為、年中静寂を保っている海辺だった。私は子どもの頃からこの海辺が好きで、暇さえあればここに来ていた。今は色々理由をつけて来れていなかったが、久々に来ても変わらない風景に安堵した。
 大方散策を終えて帰ろうとしたときだった。何やら大きな荷物を抱えた青年がやってきた。青年はこちらを一瞥もせず、そのまま砂浜で荷物をほどき始めた。最初はここにキャンプでもしに来たのかと思った。この土地が栄え始めた頃、ここでキャンプをしようとして怒られていた人を何人か見たからだ。最近はめっきり減っていたようだが、もしかしたら彼もその一人なのかもしれない。もし本当にキャンプをしようとしているのなら注意しようと思い、青年に近づいた。
「ここでのキャンプは禁止されているよ」
「知ってます」
「では、ここで何をしようとしているんだ」
「天体観測です。一応役所からの許可も得ています」
 確かに、青年が広げているのは大きな望遠鏡であった。一般的な望遠鏡とは違う、所謂本格的なものであろうことは想像に難くなかった。
「なるほど、それなら問題ないな。でも、ここで天体観測とは珍しい。普通天体観測は山でするものではないのかい」
 私は純粋な疑問を青年に投げかけた。青年はこちらを見ることはなかったが、無視する気もないようで、私に答えてくれた。
「確かに山の方が星を確実に見ることができますが、今回の目的は別にあるので」
「その目的はなんなんだ?」
「写真撮影ですよ。この辺で海と月が一緒に撮れる場所はここくらいですから」
「そうなのか?ここには昔から住んでいるが、そんなの気にした事なかった」
「気にすることではないですからね。今まではこの周辺の海岸沿いなら大体綺麗に見れたんです。だから、気にしなくてもいつでも見られた」
「今はそうではないのかい?」
「はい。土地の発展によって他の海岸は街灯が近くに設置され、海辺ですら空を満足に見にくくなってしまった。残っているのはここくらいなんです」
 言われて周りを見渡すと、確かにこの周辺は街灯がない。そのおかげか、水面に鏡のように月が浮かんでいるのが見えた。
「それでは、君はこの景色を撮りに来たのかい」
「ええ。…ここもいずれは、見られなくなってしまうかもしれないので」
 そういう青年の顔は、少し寂しそうであった。ここを長く知っているのは私のはずなのに、まるでそれよりも長い年月見てきたかのような顔でもあった。
「そうかい。いい写真が撮れるといいね」
 それは、嫉妬でもなんでもなく、素直な願いであった。それを聞いた青年ははじめてこちらを見て、微笑を浮かべた。私は、そのまま青年のもとを去った。
 新しいものを求めると古いものは淘汰される。皆それに気付かず通り過ぎてしまう。私はそれを分かっていたつもりで、実のところ何も分かってはいなかった。
 私は、今日見た景色と青年の顔を心に刻みつけた。

3/8/2024, 9:07:47 AM