『夢と現実』
胡蝶の夢。それは、夢か現かわからない状態のことをいう。今起きている私は、果たして現実にいるのか、それとも夢を見ているのか。それは自身ですらわからない。
さて、私は今、実際にそういう状態になっている。変わらない家、変わらない家族、変わらない日常。もしそこに非現実的、あるいは朧気な部分でもあれば夢と断定できるのだが、そんなところは一つとして存在しない。どうしたものか。
「もう、また残業?」
妻のその台詞も、耳にタコができるくらいには聞いている。
「仕方ないじゃん。お父さんは仕事一辺倒なんだから」
娘の台詞も、いつもの日常の一コマ。
「すまないな、明日はできるだけ早めに帰れるようにするよ」
私の謝罪の台詞ですら、いつものことであった。そう言いながら、近くの引き出しを開けてみる。昨日と同じまま。リモコンの位置はリビングの机の上。先日健康診断に行った際の書類は私と妻の部屋のデスクの上。全てがいつも通りであった。
「どうしたの、急に色々漁り始めて」
「あ、もしかしてへそくりでもあるんじゃない?ちょうだーい」
「あるわけないだろう。あったとしてもお前の前では探さないよ」
「ちぇー」
二人にも特別な違和感はない…と思う。何も変わらない。
それなら現実で問題ないではないか。そう言われたらそうなのだが、私は今を疑っている。
なんせ、私は先程眠りについた記憶があるから。
寝たと思ったらここにいた。だから今を疑っているのだ。
とりあえずもう一度寝よう。寝直したらこれは普通に夢で、ベッドの上で目が覚めるかもしれない。妻と娘には悪いが、少し体調が悪いからと言ってすぐ寝室に向かった。
目が覚めると、そこはベッドの上ではなかった。
『冬のはじまり』
暑い。何故にこんなに暑いのだ。
今は十一月も後半。世間はクリスマスだ何だと準備を始める時期だ。だというのに、コートも着れないこの暑さ。
私は、冬が好きだ。いろんな上着を着れる。コートでもいいし、ジャケットでもいい。ボア系の服とか最近流行ってるっぽいし、着る甲斐もあるというものだ。中の服も大事だが、冬は防寒具を一つ変えるだけで印象が百八十度変わってくる。上着だけでファッションをするのが好きだから冬が好きなのに。なのに。
「なんでこんなに暑いの?」
「私に聞くな」
現在の日中の最高気温は20℃。上着を着るには流石に暑い。たとえ着て出たとしても、結局脱がざるを得なくなる。そうしたら冬におけるファッションは防寒具と思っている私にとっては裸同然だ。絶対に嫌だ。
「寒くなれ寒くなれ寒くなれ」
「そんなこと思ってるのあんただけよ」
隣で友人が呆れた声を出す。友人は私とは真逆の人間で、夏の薄着こそ至高と思っている。どうしてそんな水と油のような私たちが友人をやれているのかというと、それはわからない。多分相手だってわかってない。
「そんなに寒いのが好きなら、東北に住めばいいじゃない」
「ここから引っ越すとか絶対やだ」
「我儘ねぇ…」
「ねえお願い、逆さてるてるぼうず作って!雨降るやつじゃなく、気温が下がるやつ!」
「別にてるてるぼうず作ったところで雨なんて降りゃしないし気温も下がらない。諦めな」
「えぇ…」
わかってはいたが現実を突きつけられ、泣く泣く机につっぷした。それでも諦めきれない私がうじうじ言っていると、友人がため息をつきながら話し出した。
「あんた、明日休みだったっけ?」
「そうだけど…」
「遊びに行くぞ。あんたの言う着たい上着着て」
「え、でも明日も結構暑いんじゃ…」
「着てこい。んで明日行く場所は私が決める」
彼女が命令口調になると、まず拒否はできない。ハイオアイエス。選択肢はそれだけだ。
「わかったよ…着てくるよ…」
明日は暑いから仕方ないけどちょっと薄めの上着にしよう。そう計画をたてながら、私は頷いた。
そして、次の日。私は膝上くらいまで隠れるロングパーカーを着て友人の家の前にいた。何故かというと集合場所がそこだったから。因みに、時間はまだ昼前だったので、そこまで暑さはなかった。
友人に、家の前に着いた旨を報告すると、エントランスのロックを開けてやるから入って来いと言われた。まだ準備が終わっていないのだろうか。仕方がないなと思いながら、言われる通りマンションに入って行った。
部屋の前まで着いたので、改めてインターホンを押して開けてもらう。友人は、真冬かと言わんばかりのダッフルコートを着ていた。
「あれ、そんな寒い?今日」
「別に。入って」
言われるがまま入り、リビングに来ると、
「さっっっっっっっっっっむ!」
氷点下かというくらい寒かった。え、今一月です?
「なんでこんなに寒いの?」
「あんたそれ昨日真逆のこと言ってたわよ」
「そうだけどそうじゃなくて!なんでこんなに寒いの」
「エアコン馬鹿みたいにつけてる」
「なんで?」
「なんでって、あんたが上着着たいって言ったんじゃない」
いや言ったけども。
「自然現象を操るなんて無理だけどね。室内なら冬を再現できるじゃない」
いやそうだけども。どうしても気になってしまう。
「これ…電気代バカにならない?」
「まあなるでしょうね」
「なんで?いいの?」
「…あんた、忘れたの?」
「何がさ」
「昔、あんたが逆のことをやってくれたんじゃない」
「えーあー」
そういえばあった。薄着したいという彼女のために、私の家の暖房ガンガンにかけて、薄着会したことあった。
「そのお返しをしたまでよ」
友人は少しそっぽを向いて答えた。私は無償に嬉しくなり、思いっきり友人に抱きついてしまった。
「もう!言ってくれればもっと上着持ってきたのに!」
「言ったらサプライズにならないじゃない」
「今から持ってくるから!待ってて!」
「えぇ…まあいいわよ」
急いで玄関に走り、靴を履くのもままならないままマンションを出た。
これから、私たちだけの冬のはじまりだ。
『愛情』
学校に行く。バイトに行く。帰る。これが私のルーティン。部活はしていない。そんな暇はない。なんせ、天涯孤独の身だから。
今の身の上になったのは、本当に突然の事だった。私が高校に入ってすぐ、両親が交通事故にあって亡くなった。よくある話だ。ただ、両親ともに一人っ子であり、両親ともの祖父母は既に他界していた。それだけの事。恐らく調べれば遠縁等はいるのかもしれないが、会ったこともない子どもが突然親戚ですなんて言ってきても困るだけだろうから、調べるのをやめた。とはいっても未成年である為、事実上の後見人はたてられた。その人は、母親の友人なのだという。弁護士をしており、いろいろな手続きも代わりにやってくれた。しかも、何故か無償で。申し訳ない、両親が貯蓄してくれていたお金はあるわけだしちゃんと払いますと言ったが、気にしないでの一言で終わってしまった。その時は仕方なく引いたが、いずれちゃんと返そうと心に決めている。
その人は、私が今まで通り暮らせるようにしてくれる代わりに、いくつか条件を出した。一つ、学校は高校、行きたければ大学まで行くこと。一つ、基本的には両親が残したお金で支払いをするが、もしその他の必要経費で足りないものがあれば費用はこちらで負担するから言うこと。一つ、定期的に状況報告の連絡を入れること。一つ、定期連絡とは別に、月に一度は顔を合わせること。
あまりにもメリットしかない条件だった。まるであしながおじさんだなと思ったことは、内緒にしている。いや、相手は女性なので、あしながお姉さんか。何故そこまでしてくれるのか勿論気になったが、昔あなたの母親に助けられたから、としか言ってこなかった。私としては、母親にそんな友人がいたとは思いもしていなかったのだが。結果として一人暮らしという一定の自由は得られた。
その人は忙しいだろうに、私が定期連絡を入れたらちゃんと返信してくれるし、月に一度の顔合わせもちゃんとしてくれる。お金の工面の為に私がバイトをしたいと言った時も、安全なバイト先を調べて、候補を作ってくれた。その時にバイトは大学になってからでいいのにと言われたが、できるだけ金銭面で援助は避けたかったので、そこは折れなかった。結果的に、それなりに時給も良いバイトをすることができた。
そのまま二年が過ぎ、高校卒業目前となった。
今日は卒業前最後の顔合わせ。無事大学を合格したことは定期連絡で伝えてはいたが、実際に会っては言っていなかったため、今日言おうと思っていた。そして、今日こそ今まで親切にしてくれた理由を教えてもらう。そう決めていた。
「久しぶりね」
「お久しぶりです」
月に一度なのでいつもの事なのだが、これが最初の挨拶となっていた。それが二人の暗黙のルールでもあった。
「おかげで大学も合格して、高校も無事卒業できそうです」
「合格したのは私の力じゃないわよ。あなたが頑張った結果じゃない」
「でも、いろいろお世話になっていないと高校の卒業すら危うかったかもしれません。とても感謝しています」
「それなら、素直に受け取っておくわね」
「大学についてなんですが、連絡でも言ったんですが遠方になるので、ここから離れることになりそうです」
「そうね、少し寂しくなるわ」
「なので、多分顔合わせが難しくなると思うんですけど……」
「気にしなくていいわよ。今までは近かったから問題なかったけど、遠くから来いなんて言えないし、私もそちらまで行くのは流石に厳しいからね。長期休暇でこちらに帰ってきたときにでも会ってくれればそれでいいよ」
「ありがとうございます…。あの……」
「どうしたの?」
「そろそろ聞きたいんです。どうしてそこまで優しくしてくれたのか」
「言ったじゃない。昔あなたのお母さんに助けられたって」
「そうは言いますけど、うちの母は今までそこまで交友関係を私に話してこなかったから分からないんです。母親に友人がいるという感覚が」
「…まあそういうものよね。あなたのお母さんはあまり自分の事は話さないタイプだったし、人の事も話さないタイプだった」
「それってどういう…」
「口が固いってこと」
いまいちよく意味が分からない。仕方がないので無言で続きを促した。
「昔ね、あなたのお母さんに告白したことがあるの」
「告白?」
「あ、告白って好きとかそういうのじゃないよ。まあ似たようなものではあったけど。…私ね、女性が好きなの」
今日一番の衝撃だった。今まで全くそのような気配を見せなかった。私が鈍いだけだったのかもしれないが。
私が目を見開いたのを見ていたようで、少しため息のような笑顔を見せ、話を続けた。
「あなたのお母さんになら話してもいい。あわよくばって気持ちはあった。…あの人は、私を肯定してくれたうえで、断った」
昔を思い出しながら話をしてくれているのだろう。目の前の人は、こちらを見ているようで、その向こうを見ていた。
「その後は、今まで通り友人として接してくれた。私がそう望んだから。そうしてほしいとは言わなかったけど。それに、私の事を周りに一切言わなかった。それも、私がお願いしたわけじゃない。はじめての告白ってわかってたんでしょうね。彼女らしいと思ったわ」
ここまで話して、言い切ったのか少し伸びをしていた。これ以上を話す気は、今はないらしい。
「このことを話したら、もう会わないと決めていたの。邪な目で見ていないとはいえ、相手がどう思うかはまた別の話だから」
だから、後見人でなくなる成人を超えるまでは言うつもりはなかった、と話した。
「でも、あなたを見ていると、それって誠実じゃないんじゃないかって思えてきた。だから、次聞かれたら話そうと思っていたの」
「だから今日話してくれたんですね」
「ええ、この後あなたがどうするかは好きにしていいわ。後見人である以上勤めは果たさせてもらうけど、それ以上の関わりを持ちたくないのならそれでもいい。あなたには選ぶ権利がある」
母の友人と名乗るその人は、こちらを真っ直ぐに見据えて言った。そこにはただ、愛情があった。
「…とりあえず、引っ越しの手続きを手伝っていただいてもいいですか?」
「え?」
「ほら、物は少ないとはいえ、一人じゃ大変じゃないですか。手伝ってくれると助かるんですけど…」
「…いいの?」
お前の母親に劣情を抱いていた人間だぞ。言外にそう言っているのが分かった。でも、気にしない。この人は、決してそれだけを理由に私に良くしてくれていたわけではないと分かっているから。
「是非。今度は母の話ももっとしてください」
私は、目の前の人に向けて手を出した。その人は、一瞬躊躇したが、次の瞬間には笑顔でその手を取ってくれた。
『微熱』
雪が降っている。今はまだ十一月というのに、珍しい事だ。これも地球温暖化の影響なのだろうか。寒いのも冷たいのも苦手なので、できれば雪は降ってほしくないのだが。僕は気象に文句を言いながら、高校までの道をゆっくり歩いた。
天気予報で雪が降るとでも言っていたのだろうか。普段なら人通りも少なく閑散としているのに、今はそこかしこに人が行き交っている。一瞬家を出る時間を間違えたのかと思ったほどだった。腕時計の時間を見て、いつも通りの時間だと安心する。そのままいつも通り学校へ向かえばいい。周りは気にすることでもないだろう。そう思っていた時だった。
「すみません、少しいいですか」
後ろから声をかけられ、振り返るとそこにはスーツ姿の女性がいた。所謂リクルートスーツというやつだろうか。この時期まで就活をしているとは大変だなと思いつつ、「何ですか」とぶっきらぼうに返した。
「道が分からなくて……」
「どこに行きたいんですか」
「〇〇というビルです。スマホのナビで確認しながら来たんですが、何故か思ったとおりにたどり着かなくて…八時には着きたいんですけど、間に合いますか…?」
言われて女性のスマホを確認すると、位置情報がうまく取得できていないようで頓珍漢な場所を示していた。なるほどこれはいつになっても辿り着かない。果たしてこの人はその事実に気づいているのかいないのか。きっと後者だろうなと思いながら時間を再確認する。七時三十分。まだまだ時間は大丈夫だ。どうせ学校も早めに来た人たちで賑わっているんだろうし、逆にギリギリに着いたほうがいいかもしれないと思いなおし、目の前に立つ女性に提案をした。
「ここならそこまで遠くないですし、案内しますよ」
「え、でも学校は…」
「始業までまだ時間あるんで。送ってから向かっても十分間に合います」
「じゃあ、お願いします」
少し迷ったようだが、素直に道案内を受け入れ、僕の少し後ろを着いてくる。そのまま、沈黙が続いた。
沈黙を破ったのは、女性の方だった。
「このあたりは普段からこんなに人が多いんですか?」
「…いえ、そういうわけではないですけど。多分雪が降っているので、早めに動いているんじゃないですかね」
「あなたもそうなんですか?」
「いえ、僕は元々この時間に学校に行くので、いつも通りですね」
「…本当に学校は間に合うんです?」
どうやら学校に間に合わないんじゃないかとまだ心配しているらしい。顔を見ると、びっくりするくらい眉が八の字になっている。このままではこの女性の顔が八の字になってしまうんじゃないかとこちらが心配するくらいだった。逆に心配になってしまった僕は、正直に答えることにした。
「誰もいない静かな教室が好きで、早めに行ってゆっくりしてるんですけど、今日は多分早めに来た人で賑わっていそうだから寧ろギリギリに着いたほうが助かるんです」
「そう、だったんですか。良かった……」
女性の顔が八の字でなくなっていた。こちらも少し安心した。ふと、この女性と話している間は周りの喧騒がかき消えているように感じた。せっかくだしこのまま話をするかと、今度はこちらから話を振ることにした。
「今日は、就活とかですか?」
「ええまあ、そんな感じです」
「こんな時期まで就活なんて、大変ですね」
「はは…ですよね…」
「僕も数年後には経験しないといけないのか…」
「でも、あなたなら大丈夫じゃないですか」
「どうしてそう言い切れるんです?」
何故かハッキリとしたその物言いに、少し驚きながら尋ねた。
「だって、初対面の私に親切だし、こうやって話しかけてくれる。時間配分も考えてる」
「時間配分…?」
「しょっちゅう腕時計見てるから」
「そう、ですか?」
結構見られてたんだなと的外れなことを思いつつ、適当な返答しかできなかった。確かに時間を定期的に見る癖はあるが、それが良く見られたことなど一度もなかったのだ。
「自分でやっておいて言うのもなんですが、目の前で時計をしょっちゅう見られるの嫌じゃないですか?この時間が早く終わってくれって思われてるみたいで」
「人によってはそうかもしれないけど、私はそうは思わなかったですよ。それに、時計を見た後、歩行速度がちょっと速くなっていたので、多分良いタイミングの時間に着くように動いてくれてるんだろうなと思って、嬉しかったです」
意外と観察力あるな、この人。そんな人がどうして今もまだ就活しているのか気になったが、実際時間が少しおしているのも確かなので、小さく「ありがとうございます」と言うに留めた。
「着きましたよ」
「ありがとうございます!良かった間に合った……」
スーツの女性は、深々とお辞儀をした。
「就活、頑張ってくださいね」
「本当にありがとうございます…!あなたも学校、楽しんでくださいね」
「…そうします」
そのまま女性は、笑顔でビルの中に入っていった。きっと彼女は内定をもらえるだろう。何故だかわからないが、そんな予感がした。
時間は七時五十分。今からゆっくり歩けば、ちょうどいい時間に学校に着く。そのまま僕は、踵を返した。
なんだろう、雪も降って寒いはずなのに、なぜだか今は少しあつい。
『赤いセーター』
目が覚めると、外はまだ暗いようでカーテンの隙間から光は入り込んでいなかった。私は、眠い目を擦りながら布団から這い出て、顔を洗いに行く。カレンダーを見ると、今日は木曜日。燃えるゴミを捨てる日だ。普段なら前日に準備して寝るのだが、完全に忘れて寝てしまっていた。急いで各部屋に散らばっているゴミをかき集める。最後の部屋である寝室のゴミも粗方集めきったところで椅子にかかっているモノに目が留まった。赤いセーター。滅多に着ない色をしたその服は、そこが自分の特等席であると言わんばかりに鎮座している。
昨日着ていたセーター。きっと気にいるだろうと思って買ってみたモノだった。この服を着ている間は、私が私でなくなるような気がして、特別な気持ちになった。周りからも普段とは違う視線を向けられ、口角が上がってしまうのを我慢するのが大変だった。
私は、そのセーターを、ゴミ袋に突っ込んだ。