【秋風】
ずっとこんな気温だったらいいのに、へらへらと笑いながらトワが言った。去年も一昨年も同じことを言っていて、でも今年はキンモクセイの匂いに混じって違う匂いが鼻をついていた。
「何この匂い」
「シャンプー変えた、友達に教えてもらったんよ。めっちゃいい匂いよな」
「うへえ」
昨夜のやりとりを思い出す。割とずっと、家の中でも外でも、ふわふわと甘ったるい香りが漂っている。異物感がすごくて、何とか誤魔化そうと同じやつを使ったらトワに怒られた。自腹だったのに、と言うのでじゃあ同じの買う、と返したらそれはそれで違ったようだ。
トワと同じ匂いになって、でもどこか異物感はずっとあって。それがやっぱり気持ち悪くて、風呂上がりにリビングのソファでだらけてたトワを抱き寄せた。猫がするみたいに、匂いを混ぜたらマシになるのでは、という苦肉の策だ。
「なに、離して、さすがにキモいて」
「うーん」
「聞いてる?」
「うるせえな、今話しかけんな」
「意味わからん、はーなーせー!」
「うーん」
もがくトワを腕の中に閉じ込めつつ、シャンプーやらいろんな匂いを吸う。腕の中の熱のかたまりが心地よくて、だんだん匂いとかどうでもよくなってきた。思っていた結果とは違ったけれど、これはこれで正解に近い。
「トワちゃん、ちゅーさして」
「はあ!?ちょ、マジでやめろ、おい!ナガヒサ!!」
弟に甘いトワも、さすがに全力で抵抗してきた。爪も立てられて若干痛い。気にはならないけれど。両手でトワの小さい頭を掴んで、そのまま力任せに口を近づけた。どこに触れたか不確かだが、柔らかかったので良しとしよう。
すっかり胸がいっぱいになって満たされたので、パッと手を離す。床をのたうちまわりながらトワは距離を取る。テーブルに思いっきりぶつかって痛そうだ。
「おま、さいあく!!」
「減るもんでもないし、いいだろ別に」
「減るわ!!初ちゅーが弟とかもう、何なん!!」
「いや今の初チューじゃねえし」
「えっ……」
ポカンと目を見開いて、トワがこちらを見上げてくる。顔も耳も真っ赤で、正直かわいい。叶うならもう一回抱きしめたい。ただ、今動くと絶対に逃げられる。
「トワひでーな、全部忘れてんの?」
「は?え?……まじ?」
「まじ。まあ全体の9割はトワ寝てたから、わからんのはしゃーない」
「死ね!!!!」
立ち上がったトワに叩かれた。べちりという音と共に視界が揺れる。そのままドタドタと音を立てて2階に行ってしまった。この調子だとしばらく口をきいてくれないかもしれない。
「……風呂入って寝るか」
のそりと立ち上がって、浴室へ向かう。あちこちに漂っていた匂いはすっかり気にならなくなっていた。残ったのは、窓から吹き込んだキンモクセイの匂いだけだった。
※※※
登場人物
ナガヒサ:姉に触れてもゾワゾワしない体質。お姉ちゃんがいればなんでもいいし、それ以外はどうでもいい。
トワ:弟に触れられるとゾワゾワする体質。弟に甘いので翌日以降も口をきいてくれる。
【また会いましょう】
駅前のファストフード店で、トワはウツツと早めの夕食を摂っていた。なんだかんだと顔を合わせるようになって、流れで連絡先も交換して、時間が合えば塾が始まる前に待ち合わせて一緒に食事をする程度には打ち解けていた。
違う学校の、違う学年の、異性。それだけでつい口が軽くなってしまって、割と突っ込んだ話もお互いにするようになった。
「トワって安土中じゃん。この辺ほとんど小槌中のやつばっかなのに、なんでわざわざこっち来てんの?」
「弟と物理的に距離置きたくって」
「弟いんの」
「一個下。たぶん、すごいシスコン」
「すごいシスコン」
「だからとにかく距離を置きたくて……」
「そんななる?きょうだいで?」
「なる。あれは弟の距離感じゃない」
「怖」
「ウツツくんはきょうだいいるの?」
「ひとりっ子」
「あー、わかる」
「わかるってなんだよ!」
「そのまんまの意味だよ」
ウツツはあまり物事を深く考えない性質で、考えていることも全て表情と発言に出てしまう。良くも悪くも正直な彼の性格はなんだか気持ちが良くて、少し羨ましくて、憧れに似た感覚を抱いている。
明るくて元気で、運動神経も良い。背も高いし、清潔感もある。それなりにモテそうではあったが、不思議とそんなことはないらしい。やはり、やや自己中心的で共感性に欠ける部分が足を引っ張っているのだろうか。
そんなある日。向かいに座ったウツツは珍しく表情を曇らせていた。今までも試合に負けただとか記録が出なかっただとかそんなような話はあったものの、彼は前向きに次に向けての努力ができる人だ。こんな顔は見たことがなくて、トワも心配になる。
「どしたん」
「……いやさ、告白された」
「マジか。……で????」
トワが身を乗り出すと、ウツツに頭を掴まれた。そのまま席に押し戻される。
「考えたことなかったから、フツーにそのまま言った。……けど、なんか後味悪くて」
「ほーん。いいねいいね、これはお姉さんの出番じゃん」
「ヒトゴトだと思って……!」
「他人事やで」
「腹立つ」
「えっそれ同中の子?タメ?」
「クラスは違うけど、そう。一年の時からそこそこ仲良くて、まあ、友達だと思ってた」
「したら相手は違ったのかー、確かにウツツくんには難しいわ」
「どういう意味だよ!」
「そのまんまの意味だよ」
ぐぬぬ、なんて唸りながらウツツはバーガーにかぶりつく。そこまで心配はいらなさそうだと、トワは苦笑しながらストローを口に咥えた。……何やらさっきから視線を感じる。
「ねえ、ウツツくん。その子ってさ」
「あ?」
「メガネかけてる?」
「おう」
「ボブ?」
「ボブじゃねーよユメだよ」
「名前じゃなくて髪型。……肩までくらいの髪の長さってこと」
「おお、確かそんなだったわ。すげーな、エスパーかよ」
「まあそんなところかな」
いつもなら食事を終えたら塾の入っているビルまで一緒に移動するのだが、今日はシャー芯が切れたからと先に行ってもらった。
そうしてトワの前に立ち塞がる、やや小柄で細身の女の子。名前はボブではなくユメというらしい。ぱっと見は大人しそうな……どちらかといえばオタクっぽい雰囲気だ。ただ、メガネから覗く瞳はかなり強気な様子だ。
「単刀直入に訊きます。ウツツとはどんな関係で?」
「塾の友達……?」
「本当に?」
「まあ、ウツツくんがどう思ってるかはわからないけど……」
「それって、やっぱりアナタのこと好きなんじゃないですか!?」
詰め寄ってくるユメに壁際まで追い詰められてしまう。同世代の女子にこんなに真剣な壁ドンをされるなんて、人生は何が起こるかわからないものだ。
「だって、おかしいですもん!少し前からなんか、前の彼なら気にもしなかったことを気にしだすし!謎に受験に意欲的になるし!髪型気にするような感性なんて持ち合わせてなかったし!」
オタク気質というのはトワの見立てどおりだったようで、ユメはここ最近のウツツの様子について捲し立ててくる。半分くらい批判のようなものが混じっている気がするが、そこも含めてということだろう。
好きなもののことには饒舌になるよね、なんて心の中で相槌を打ちつつ、内心は少し焦ってきた。純粋に遅刻しそうだ。
「ユメちゃんごめんね、これ以上はやばい、遅れる」
「……ッ、す、すみません。私としたことが、つい熱くなって……」
諸々の所作を見る限り、育ちの良さを感じる。髪をかけた耳の先まで真っ赤だ。
「その、でも、諦めるわけでも、負ける気もありませんから。……お話はまたの機会に」
「う、うん?どうしてそうなる?」
「アイツに自覚はなくても、ずっと見てきた私にはわかります」
「……いいねえ、アオハルだねえ」
「茶化さないでくださいぶん殴りますよ」
「えっ思ってたより怖い子だ」
ユメは大きくため息を吐くと、ぺこりと頭を下げて駅へ走っていった。トワも慌てて反対方向へ走る。なんとかギリギリ間に合って、家への連絡は免れた。
トワは頬杖をつきながら、講師の板書を目で追う。正直あまり集中できなかった。別にウツツに告白された訳ではないけれど、友達だと思っている相手に別ベクトルの感情を向けられると確かに戸惑ってしまう。いや弟からの謎の執着も、ハルトの湿度高めの視線も似たようなものだけれど。
「まあ、なるようにしかならんか」
口の中で呟く。
ノートの端に花とハートを描いて、適当に塗りつぶした。
※※※
登場人物
トワ:受験生。弟から距離を置きたい。
ウツツ:健康優良児。トワと同じ高校に行けたら良いなと思い始めた。
ユメ:ウツツのオタク。最近ウツツの様子がおかしいので他人にとられる前に告白したが玉砕。
一個下の弟:名前はナガヒサ。トワと結婚したい。きょうだいは結婚できないことに憤慨してる。
ハルト:ナガヒサの友達。トワと結婚したい。きょうだいなんてそもそも結婚してるようなものなので羨ましく思っている。
【スリル】
「うそだろ、10円足りねえ」
財布の中を何度か確かめて、ようやく事態を飲み込んでから、ウツツは声に出した。
親に無理やり入れられた学習塾。そこに備え付けられた自販機の前の出来事だった。今時電子マネーが使えない自販機なんて、と思わずにはいられない。
余談にはなるけれど、この数日後にはしれっと電子マネー対応のものになっていたので、本当にタイミングが悪いとしか言いようがない。
「ほら、使って」
横からやけに白い手が伸びてきて、硬貨が自販機に飲み込まれる音がした。途端に自販機のボタンが光る。当たり前だがゲンキンなヤツだ。
「え、でも」
「いいよ、それより早くしないと休み時間終わっちゃうよ」
私も飲み物買いたいし、と急かされて、ウツツは自販機のボタンを押す。がごんとやけに大きな音とともにペットボトルが吐き出された。
「悪ィ、助かった。後で返すから……」
改めて向き直った先には、見慣れない女子の姿があった。彼女はさっさと自分の分の飲み物を購入する。長めの髪がさらりと揺れて、正体のわからない甘い匂いがウツツの鼻腔をくすぐった。シャンプーなのか、柔軟剤なのか、なんなのか。問題はそこではなかったのだけれど。一瞬思考が止まってしまった。
「……返すから、名前とクラス教えて」
「えー、どうしようかな」
「どういう意味だよ?」
なんだか可笑しそうにする彼女の意図がわからなくて、ウツツは少しムッとする。
「ここで教えなかったら、塾に来るたびに『こんな顔のヤツ』をなんとなく探しちゃうじゃん。それってめっちゃおもしろくない?」
自分の顔を指さして、ニヤニヤと笑っている。見た目は割と美人だし、大人しそうなのに。言動は真逆なものだから、ウツツはそのギャップに良い意味で興味を持ってしまった。
「ちょっと塾来るの楽しくならん?私も『今日こそ見つかっちゃうかも』てドキドキするし」
「お前の暇つぶしじゃん!」
「別に返さなくても全然いいから、ノッてくれない?」
「いいぜ、ぜってー見つけてやる。覚悟しとけ」
そうこうしている間に予鈴が鳴ってしまう。彼女はヒラヒラと手を振って、その場から離れていった。ウツツも自分の教室に急いで戻る。
その日以来、ウツツは律儀に10円を余分に持ち歩いている。ようやく彼女を見つけたのは2週間後で、「うーん、思ってたより早かったな。上手く隠れてたつもりなんだけど」なんて言われてしまった。
「隠れるなよ、素直に受け取れよ!」
「や、なんかいつもキョロキョロしてるのおもしろくて」
「性格悪ッ」
「ごめんて、お詫びとお祝いを兼ねて飲み物買ってあげるよ」
「……?、それってあんま意味なくね??」
「さあ、どうだろうね」
迷いのない手つきで彼女はこの前ウツツが買っていたものと同じものを購入して、手渡してくる。渡される時に少しだけ指先同士が触れ合ってしまって、胸の辺りがそわりとする。
「てか、いい加減名前教えろよ、ここまで付き合わせといて」
「トワだよ、お兄さんは?」
「俺はウツツ。2年生」
「あっマジか、私3年」
「マジか……」
運動部のウツツとしては、つい年上には身構えてしまう。けれどそんなウツツの心境を見透かしたように、トワはニヤリと笑った。
「違う学校だし気にすんな。何か悩み事とかあったら遠慮なく『お姉さん』に相談していいよ?」
じゃあまたね、そういってトワは小走りで行ってしまった。またねとは言うけれど、次に会うことなんてあるのだろうか。
「……」
手に持った炭酸ジュースをぼやりと見つめる。周りの音がどこか遠くなっていた。
なんとなく、10円を返したことを後悔していた。その理由までは、今のウツツにはわからない。
※※※
登場人物
ウツツ:「もう来年3年生でしょ」と母親に言われ塾に入れられた。成績は下の上くらい。好きな科目は体育。
トワ:高校受験のために塾に入る。成績は中の上。調子がいいと上の下くらいまでいける。好きな科目は音楽。
【飛べない翼】
小学校の中学年くらいから、ハルトは父親の仕事の関係で関西地方に引っ越すことになった。
当時、ハルトには好きな子がいて、彼女と離れ離れになるのが嫌で嫌で仕方なくて、それはもう連日ゴネにゴネた。普段あまり感情を表に出さない、ぼんやりとした性質だったため両親は非常に驚いていた。驚いただけで粛々と転勤の準備は進められていたけれど。ハルトの抵抗虚しく、関西人ひしめく小学校に転校させられしまった。
言葉遣いでいじられることはあったものの、ハルトはそこそこうまくやっていくことができた。ハルトは自覚したことがないけれど、どうやら綺麗な顔に産んでくれた親のおかげらしい。
(それが何を意味しているのか、今でもわかっていない)
それでも、話は別なのだ。ハルトにとって価値があるのは地元に置いてきてしまったあの子の存在だけだ。
義務教育とは、子供とは、なんと無力なのだろう。500km以上離れた場所へ戻るのは、当時のハルトには到底無理な話だった。
キッズケータイも手紙も、何も役に立たない。悔しくて悲しくて、連絡先を何一つ聞き出せなかったからだ。アホか。
せめて高校くらいは地元に戻ってやる。寮でも一人暮らしでもいいから、あっちの学校を受けよう。勝手にそう決めて、勉学にスポーツにと励みまくった。成績は割と良い方で、周囲の大人によく褒められた。友人たちとは割と疎遠になってしまったが、特に気にならなかった。
……ただ、中学の真ん中で、あっさりと地元に戻ってきてしまった。ハルトの努力とは。意気込みとは。大人は本当に勝手だと、もはや怒りすら湧かない。
「誰だっけ」
「……、さあ、誰やろな」
ありがたいことに、同じクラスにナガヒサがいた。ナガヒサはトワの弟で、当時よくわからないなりに一緒に遊んでいた相手だ。
数年ぶりに再会したナガヒサはこれでもかとデカくなっていて、同年代に比べてかなりの長身のハルトより目線が上だった。顔つきはトワによく似ているから、勝手な想像が膨らんでいく。きっときれいになっているはずだ。
空き地だった場所は住宅地になって、よく行っていたコンビニは歯医者になっていた。駅前はやけに賑やかになっていたし、街の様相はかなり変わったようだ。
そんな中、ハルトは黙ってナガヒサの後をついていく。
「さっきから何だよ、ついてくんなよ」
「ええやん、お前に用ないし。はよ姉ちゃんに会わせろや」
「は、ふざけんな。てかテメェ誰だよ」
「誰でもええやん。お前には関係ないわ」
今にも噛み付いてきそうなナガヒサに適当に相槌を打っているうちに、目的地に到着する。何度か訪れたことのある家は、ぼんやりと記憶に残っていた。庭に転がっている犬のおもちゃを見て、ああたまに3人で散歩に出かけたなとふと思い出した。
「うわ、今日帰ってくんの早くない?」
背後からかかった声に、真っ先に身体が反応する。ゾワッと鳥肌が立った。震える膝を悟られないように、くるりと向きを変える。
「うっせえバーカ!」
「はっ倒すぞバカ弟!」
ジャージに身を包んだトワがぎゃあぎゃあとナガヒサと言い合っている。
ショートカットだった髪は伸びていて、後ろでひとつ結びになっていた。身長はハルトの胸より少し下くらいだろうか?記憶の中のあどけない子供だった姿は鳴りを顰めて、随分と大人っぽくなっている。なにより、目を引いてしまったのが、ジャージの上からでもわかる胸の膨らみだ。
どうしよう、めっちゃきれいになっとる。
想像の5億倍、トワはかわいくてきれいになっていた。何度も何度も夢に見て、勝手に想像して、少しだけ慰めてもらったりとあったけれど、そんなものの比ではない。
「……本物のお姫さまやん」
「ああ!?んだテメェさっきから、帰れ!」
思わず口から溢れた言葉に、すかさずナガヒサが突っかかってくる。今も昔も血の気が多いやつだ。
「あれ、……あれでしょ、ほら、ハルトくん。久しぶり。めっちゃ大きくなってんね、全然わかんなかった」
「お、お姫さん、俺のことわかるん?」
「お母さんから帰ってきたって聞いたよ。てかおひーさんって何?」
白い頬を上気させて、トワはハルトに笑いかける。それだけでいろんなものが込み上げてきて、ハルトは息を詰まらせる。涙の膜のせいで視界がぼやけた。
思わず両手で彼女の肩を掴んでしまった。抱きしめたら折れてしまいそうな薄さに、ハルトはさらに感極まってしまう。
「ウッ……お姫さん、ずっと会いたかってんで……」
「離せや変態!」
ナガヒサに突き飛ばされる形でハルトはトワから離れてしまう。ただそんなことは微塵も気にならなかった。追い打ちをかけるように、ナガヒサにどつかれ続ける。けれどそんなことは全く気にならなかった。
だって目の前に、大好きなトワがいてくれるのだから。多少肩やら背中やらが痛くても、そんなのは蚊に刺されたようなものだ。
「なんかよくわからないけど、これからもバカ弟と仲良くしてね。こいつ性格悪すぎて友達いないし」
「は!?」
「……お姫さんが言うならしゃーないわ、仲良くしたる」
「ありがとー、また今度改めて遊びに行こうね」
「行く」
「おい、俺の話聞けよ、こいつ誰なんだよ!」
無事再会を果たし、ついでに連絡先の交換と遊ぶ約束も取り付けたハルトはほくほく顔で帰路についた。不思議と足取りも軽い。
もはやハルトの頭の中は「結婚」の二文字しかなかった。
※※※
登場人物
ハルト:美男子。中途半端な時期を関西圏で過ごしたため、中途半端な関西弁を話すようになった。万物に対しての興味関心が薄く、感情表現も乏しい。トワが大好き。
ナガヒサ:ハルトの同級生。どうしようもないレベルのシスコン。中学に上がり素行はマシになった。
トワ:ナガヒサのお姉ちゃん。日々弟に振り回されている。ハルトに対して淡い想いを抱いている……かもしれない。
【ススキ】
茶色い毛玉を見ながら、トワは砂利道をせっせと歩いていく。肩にかけた散歩用のポーチにはビニール袋と水の入ったペットボトルが入っていて、少し重たい。
「ついてくるなら荷物くらい持ってよ」
「やだよ、だりぃ」
何十回めになるのかわからないやりとりを、今日も繰り返す。
隣にはナガヒサが退屈そうに歩いていた。別についてこなくていいと毎回言っているのに、なんだかんだと悪態をつきながらついてくる。こちらとしてはひとりのほうが気楽なのに、相変わらず何を考えているのかわからない。
茶色い毛玉の名前はモモ。今年で3歳になるメスの犬だ。父が言うには雑種らしい。柴犬によく似ていた。焦げ茶色の短毛は触るとゴワゴワとしている。
家に来た時は家族それぞれが好き勝手(「パン」だとか「イヌ」だとか「ムサシ」だとか)呼んでいたが、最終的には母の呼ぶ「モモ」が定着した。世話をするのが主に母だったから当然の結果なのだが、子供心にネーミングライツをもらえなかったのは少し不服だった。
砂利道の両脇はススキが群生していて、鬱蒼としている。子供の目線ではススキはかなり大きく見えた。生い茂るススキの大群の中から、何かが飛び出してくるのではと期待半分、恐怖半分の散歩道だ。
前者はタヌキだとか猫だとか、ちょっとした動物との邂逅。後者はわかりやすく不審者だ。
たまに人とすれ違って、その度に少しだけドキリとする。けれど、不服ではあるものの、隣にナガヒサがいるおかげで平静を保つことができた。
それから数年経って、相変わらずトワはモモの背中を見下ろしながら砂利道を歩く。モモはシニアに片足を突っ込んでいたが、今のところは元気そうだ。首の後ろあたりの皮がたるんでいてかわいい。よく摘んでいる。
「歩きにくい、うざい、触るな」
「うるせえバーカ」
隣にはいつも通りナガヒサがいた。いつから始まったのかなんて覚えていないけれど、ナガヒサの左手はトワの右手を掴んでいて、それはずっと続いていて、正直落ち着かない。
──こういうのってだんだん適度な距離感に落ち着いてくるものじゃないの?
誰にも訊けそうにない疑問はずっと胸の辺りに居座って、トワをモヤモヤとさせてくる。
秋の夕方は暗くなるのが早くて、背が伸びた今でもススキの大群を不気味にさせてくる。今となっては期待よりも恐怖のほうが上回っていた。
だから、認めたくはないけれど、ナガヒサが隣にいて、右手を離してくれる気配がないことが、心強くもあった。
もうずっと、似たような自問自答を繰り返している。答えなんてきっと、嫌か嫌じゃないかの二択しかないのに。
チラリと盗み見たナガヒサはつまらなさそうに口を尖らせていた。
やっぱり、何を考えているのかわからない。
※※※
登場人物
モモ:雑種犬。女の子。焦げ茶色の短毛種。好きなおやつは蒸したさつまいも。
トワ:ナガヒサのお姉ちゃん。自分勝手で何を考えているのかわからない弟に振り回され続ける。好きなおやつはライスバーガー(焼肉)。
ナガヒサ:他の追随を許さないシスコン。トワのことが大好き。感情の出力が下手。好きなおやつはポップコーン(塩)。