嶺木

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【スリル】


「うそだろ、10円足りねえ」
財布の中を何度か確かめて、ようやく事態を飲み込んでから、ウツツは声に出した。
親に無理やり入れられた学習塾。そこに備え付けられた自販機の前の出来事だった。今時電子マネーが使えない自販機なんて、と思わずにはいられない。
余談にはなるけれど、この数日後にはしれっと電子マネー対応のものになっていたので、本当にタイミングが悪いとしか言いようがない。
「ほら、使って」
横からやけに白い手が伸びてきて、硬貨が自販機に飲み込まれる音がした。途端に自販機のボタンが光る。当たり前だがゲンキンなヤツだ。
「え、でも」
「いいよ、それより早くしないと休み時間終わっちゃうよ」
私も飲み物買いたいし、と急かされて、ウツツは自販機のボタンを押す。がごんとやけに大きな音とともにペットボトルが吐き出された。
「悪ィ、助かった。後で返すから……」
改めて向き直った先には、見慣れない女子の姿があった。彼女はさっさと自分の分の飲み物を購入する。長めの髪がさらりと揺れて、正体のわからない甘い匂いがウツツの鼻腔をくすぐった。シャンプーなのか、柔軟剤なのか、なんなのか。問題はそこではなかったのだけれど。一瞬思考が止まってしまった。
「……返すから、名前とクラス教えて」
「えー、どうしようかな」
「どういう意味だよ?」
なんだか可笑しそうにする彼女の意図がわからなくて、ウツツは少しムッとする。
「ここで教えなかったら、塾に来るたびに『こんな顔のヤツ』をなんとなく探しちゃうじゃん。それってめっちゃおもしろくない?」
自分の顔を指さして、ニヤニヤと笑っている。見た目は割と美人だし、大人しそうなのに。言動は真逆なものだから、ウツツはそのギャップに良い意味で興味を持ってしまった。
「ちょっと塾来るの楽しくならん?私も『今日こそ見つかっちゃうかも』てドキドキするし」
「お前の暇つぶしじゃん!」
「別に返さなくても全然いいから、ノッてくれない?」
「いいぜ、ぜってー見つけてやる。覚悟しとけ」
そうこうしている間に予鈴が鳴ってしまう。彼女はヒラヒラと手を振って、その場から離れていった。ウツツも自分の教室に急いで戻る。

その日以来、ウツツは律儀に10円を余分に持ち歩いている。ようやく彼女を見つけたのは2週間後で、「うーん、思ってたより早かったな。上手く隠れてたつもりなんだけど」なんて言われてしまった。
「隠れるなよ、素直に受け取れよ!」
「や、なんかいつもキョロキョロしてるのおもしろくて」
「性格悪ッ」
「ごめんて、お詫びとお祝いを兼ねて飲み物買ってあげるよ」
「……?、それってあんま意味なくね??」
「さあ、どうだろうね」
迷いのない手つきで彼女はこの前ウツツが買っていたものと同じものを購入して、手渡してくる。渡される時に少しだけ指先同士が触れ合ってしまって、胸の辺りがそわりとする。
「てか、いい加減名前教えろよ、ここまで付き合わせといて」
「トワだよ、お兄さんは?」
「俺はウツツ。2年生」
「あっマジか、私3年」
「マジか……」
運動部のウツツとしては、つい年上には身構えてしまう。けれどそんなウツツの心境を見透かしたように、トワはニヤリと笑った。
「違う学校だし気にすんな。何か悩み事とかあったら遠慮なく『お姉さん』に相談していいよ?」
じゃあまたね、そういってトワは小走りで行ってしまった。またねとは言うけれど、次に会うことなんてあるのだろうか。
「……」
手に持った炭酸ジュースをぼやりと見つめる。周りの音がどこか遠くなっていた。
なんとなく、10円を返したことを後悔していた。その理由までは、今のウツツにはわからない。


※※※


登場人物
ウツツ:「もう来年3年生でしょ」と母親に言われ塾に入れられた。成績は下の上くらい。好きな科目は体育。
トワ:高校受験のために塾に入る。成績は中の上。調子がいいと上の下くらいまでいける。好きな科目は音楽。



11/13/2024, 12:22:26 AM