【大空】
プロペラが大きく空を切る音が耳を支配する。
そろっと窓から外を覗くと、遥か遠くにある蟻みたいな住宅街。
落ちるはずなんか無いのに、なんだか怖くなって寄せていた体を元に戻した。
もうそろそろ日の出ですよ!!と恐らく大声でヘリを運転していた彼が言ってくれたが、私の耳に届いたのは塵みたいな声。
所々消えた言葉の切れ端から何とか意味を理解して、返事をする。
普段それほど使っていない私の喉では、多分声は届かなかっただろう。
「じゃあよく見えるようにドア開けますから、気を付けてくださいね!!!」
耳が大きなプロペラの音に慣れてきたのか、私が運転手の彼の声に慣れてきたのか、今度は何を言っているのかよく聞こえた。
私も今度は声が届くように、さっきの倍の声量で「はい!!」と返事をする。
運転手さんが小さく頷いた気がしたので、多分届いたのだろう。
どうやってドアが開くのだろうと思っていると、ひとりでにドアはスライドし始めた。自動なんだろうか。
びゅおっと冷たい風がいっぱいに入り込んできて、思わず腕で顔を覆った。
大きなプロペラの音に、叫ぶような風切音が混ざる。
普段なら耳を塞いでしまうような爆音も、ずっと聞いていたプロペラの音のせいで耳が麻痺しまっていたのか、今はそれほど大きくは感じなかった。
しきりに吹き込む風が少し弱まった時、私は顔を隠していた腕を取ってみた。
「うわぁ…」
自由になった視界に、赤のゆらゆらとした丸が周りを染めて上に登ってきていたのが見える。
夜が朝に変わる瞬間。
幾度となく繰り返してきたその瞬間をこの目でまじまじと見るのは初めてで、じんとした感動が胸に広がる。
そうしている間にもどんどんと太陽は昇ってきて、夜であった空はあっという間に朝に変わってしまった。
これから、今私の下にある街は動き始めるのだろう。
遥かなる大空から見たこの景色は、一生の思い出となるんだろうなと、殆ど停止した思考で私はぼんやりと思った。
ぼんやりと思った割には的確なことだったと後から考えるのは、また違うお話。
【ベルの音】
ただ、ぼーっとしていた。
なんとなく外に出たくなって街が一望出来る丘に来たけれど、容赦なんかない冷たい風は頬を撫でてくる。
体の震えが止まらなくてもう戻ろうかななんて思ったりもしたけど、消えない光を纏った街があまりにも綺麗で、それは少し勿体なかった。
羽織ってきた冬の夜には心許ないコートを手繰り寄せて、体全体をなるべく覆えるようにする。
手を脇に挟んで頑張って温めながら、きらきらとした夜景に浸る。
昔あっただろう森は開発されてしまって、この人工の美しさが出されているのだろうが、それが良い事なのかは私には判断できなかった。
街が明るすぎて星が見えないし、自然の凛とした美しさも消えてしまっている。
でも、私は人工的なビビットの美が好きだった。
…それも、地球からしたらはた迷惑な話かも知れないが。
自分の居るところが遠いせいでぼんやりと滲む光の輪を見て、頭に焼き付ける。
「さて…帰るかぁ」
この丘に一基だけ置かれているベンチから立ち上がって、寒さのせいで縮まった体をぐーっと伸ばす。
そのせいでコートが開いて冷気が隙間から入ってきたが、あまり気にならなかった。
車じゃなくて歩きで来てしまったので、家まではかなり遠い。
さあ歩こう、と一歩踏み出した時だった。
ゴ―――ン
そんなはず無いのに、耳の近くで鐘の音が聞こえた。
かなり大きな鐘なのか、耳がガンガンとして暫く何も聞こえなくなる。
莫大な音圧に酷い頭痛が誘発されて、耳を抑えてしゃがんだ。
ゴ――ン ゴ――ン ゴ――ン……
何回も耳元で鐘の音が鳴る。
何回も何回も、何が起こっているか分からないまま音が脳に直接響く。
「ぅう…、」
頭痛がどんどん酷くなって、意識が朦朧としてきた時だった。
ぴたり、と音が止んだ。
頭痛に耐えようと閉じていた目を開けると、目の前に見慣れたアスファルトは無く、代わりに大理石らしき白の床が見えた。
混乱しながらも、取り敢えず頭痛が収まるのを待ってから周りを見渡すと、木でできた横長の椅子がズラッと並べられている。
もっと周りを見ると、色とりどりの光が差し込むステンドガラスと、大きな大きな鐘があった。
「おや、お祈りをしに来られた方ですか?」
後ろから声を掛けられて振り返ると、神父の服を着た男がいた。
ゴ―――ン
今度は頭痛なんか起きないような、優しい音が聞こえた。
でも、なんだか胸騒ぎがする音だった。
【寂しさ】
「それでさ、彼氏が酷くって!」
適当に相槌をうって聞き流していると、「本当に聞いてる⁉」とキンキンうるさい声で言われた。
面倒になってきたので聞いていないと言ってしまいたいが、ここでそう言ってしまうと悪役の天秤が私の方に傾いてしまう。
「聞いてるよ、それで続きは?」
へらっと作った笑いを見せると、ちゃんと聞いててよね!と一言言ってから彼氏がなんやらかんやらの話に戻った。
…無駄に長々と喋らないで欲しい。正直何を話したいのかが全く分からない。
今度はちゃんと聞いてるよう見えるように気を付けて聞き流していると、言いたいことを取り敢えず言い終えたらしい彼女は「ふぅ」と一息付いた。
時計をちらっと確認すると、30分も経っているようだった。
「それでさ、あなたはどう思う?」
「うーん、そうだな…」
ただ聞いてほしいだけかと思っていたので、急に意見を聞かれて少し焦る。
取り敢えず当たり障りのない彼女を庇うように何かを言えば良いだろうと考えて、そこに私の本当の考えなんかないことを口から出す。
「あなたは悪くないよ、もしまた何かあったら気軽に言ってね。相談乗るよ」
重みなんか無い私の言葉に、彼女はぐすっと鼻を鳴らして頷いた。
こんな嘘にも気付けないなんて、詐欺に引っかからないか心配になるな、と少し思いながら私はその場を去った。
うだうだそこに居続けて、一緒に帰ろうなんて言われたら最悪なので。
「…寂しい、か」
聞き流していた話の中で、いちばん沢山出ていた単語。
彼氏が居るのだから、ただ嬉しいだとか愛しいだとか、それだけを感じていれば良いものを。
…寂しいなんて、満たされたことのある人間しか感じない。
寂しい、さみしい、一緒に居て。
それで側に居てくれた奴がいた人間は、更に温かさを求め始める。
哀れだな、と少し思って、そんなことを考えた自分に笑った。
「…哀れはどっちだか」
【冬は一緒に】
少し太り過ぎな猫が、でろーんとこたつの上で寛いでいる。
野良でたくましく生活をしていた面影は消え失せて、お腹をちょんちょんとつついても面倒な目でこちらを見るだけだ。
そんな目もとても可愛く感じられるものだから、猫という生物のフォルムはよほど人間にフィットするのだろう。
「…あんまやっとたら噛まれんで」
猫と同じくこたつで寛いでいた姉が、私に緩く忠告をした。
こたつの上に置いていたみかんを剥きながら言うものだから、私も少し言い返す。
「猫は柑橘系だめやで、姉ちゃん」
「分かっとるわ、だからわざわざこんなに離れてんねん」
どうやら姉も姉なりに配慮していたらしい。
確かにいつもはこたつの上でみかんを剥くのに、今はゴミ箱の近くで皮を剥いている。ゴミ箱の近くなのは、効率を考えてなんだろう。
猫を触りながら、やっと皮を剥き終えた姉を眺める。
「いて、」
手にちょっとだけ何かが食い込む感覚がしたと思ったら、猫だった。
怪我は絶対しないような甘噛みをされていて、優しさを感じる。
はよやめんかい、とでも言いたげな猫の顔に「ごめんごめん」と言いながら手を退けた。
猫はぴすっと鼻を鳴らして寝る体制に入ったかと思えば、直ぐにすーすーと寝息が聞こえてきた。
あんまり気持ちよさそうな寝姿に、こっちも眠くなってきてしまう。
そういえば最近よく眠れていなかった。
そのことを思い出すと、今まで意識していなかった分の眠気がぶり返すように私を襲う。
「…うちも寝よ」
「あんた体バキバキなるで」
「…それもまた一興やろ」
もうすでに微睡み始めた意識は、続いた姉の言葉を認識せずに暗闇に落ちていった。
ーー
「あ、もう寝た? はっや、寝不足やったんか」
どうしようもない妹の姿に苦笑いしつつ、私は寒くないように肩に毛布を掛けてやった。
絶対に体はバキバキになるだろうが、それもまた一興とか妹がほざいていたのでそこはまあ良いか、と考える。
気持ち良さそうに寝ている一匹と一人を目の端に止めながら、私は食べかけだったみかんを口に入れた。
【とりとめもない話】
店のカウンターに体重をかけて、煙管を吸う男がいた。
その男の店は全体的に暗い色で締められており、時折目に入るビビットの有彩色が目に焼き付いて離れない。
部屋の色とは反対の真っ白な服を着た男の手元から、煙管の薄暗いグレーが漂う。
「…あ、いらっしゃい」
にっこりと笑って、男が来店の歓迎の言葉を述べた。
男の顔面は、いわゆる甘いフェイスというやつ。
そのカオからどんな甘さを持った声が飛び出てくるのかと思えば、女の声が手を振ってやってきた。
目が見え、加えて耳が聞こえるものは、予想とはかけ離れたその男…若しくは女のその在り方に、暫くは脳をこちょこちょと弄られるような感覚がするだろう。
男なのか女なのか。分からなくなってしまったので、ここからは店員とでも言うとするか。
そいつを店員と呼ぶには、少し貫禄がありすぎる気もするけれど。
「こちらへどうぞ」
そう言うと、店員は店の真ん中にポツンと置いてあるガラスの大きなテーブルに案内をした。
2脚ある内の片方の椅子を引いて、来た客を座らせる。
客が座ったのを確認して、店員も対面に置いてある椅子に腰を掛けた。
「さあ、"お話"を致しましょう」
それから、店員は色々なことを話し始めた。
話はぴょんぴょんと変わり続けて、頭を混乱させる。
もしくは停止、かな。考えるのを辞めるってやつ。
客に相槌をさせる暇すら作らず、にこにこと笑顔を保ったまま、話し続けた。
「夜が来るのは、朝が来るから。逆も同じと言えよう」「雑草という草はないんだよ、ひとつひとつ名前がある」「人工知能は怖いか怖くないのか、人間が恐ろしいだけなのか」「人間は素晴らしくて愚かだ」「虫が生きるのに必要なエネルギーは」「不思議だと思わないかい。硝子はなぜ全てを透かすのか」「水はこの世でいちばん信用が効くイキモノだ」
…、
、……
…、……
「―――、――。」
話の奔流に飲まれておろおろとしていた瞳が、ある話題できらっと輝いた。
それを見た店員は、もはや一人語りになっていた話を止めると、客に立つように求める。
貴方は早い方でしたね、なんて、客からしたらよく分からない事を言いながら。
「無欲な貴方が奥底で求めているのは、この本の中にありますよ」
店員が店の奥に消えたかと思えば、いかにも古めかしい本を手に持って現れた。
鞣した皮のカバーには年季が入っていて、本の背は何語かよく分からない文字が書かれている。
だけど、読めるのだ。全く知らない文字、なのに頭に意味が入ってくる。
「よ、読んでも?」
「勿論です。この本は現在から貴方のモノですよ」
本に囚われてしまった脳ミソは、店員の言葉を絶妙に聞き流して本を開く。
そこには、――のことについて詳しく書かれているようだった。
今まで感じたことのない謎の高揚感に、胸が正常とは言えない動きをし始める。
「さあ、お帰りください。そこからは貴方が紡ぐものです」
流されるように、店の外に出された。
外は真っ暗なのに、月と星が主張をしすぎたせいで明るくもあった。
その空間が、客のこの後の人生というモノをそのまんま表しているようで。
「ご来店、誠に有難うございました。」
仰々しく紳士の礼をした店員は、明るすぎる夜の中で人工的に笑った。