【手を繋いで】
小さな頃、入るなと常々聞かされてきた森に好奇心で入ったことがあった。
自分の背丈より何倍も大きい木々。恐ろしいほどに何も聞こえない森の中。
虫や小鳥が鳴く音はまだしも、木が擦れる音さえも聞こえなくて、小さいながらも底知れない恐怖を感じたのを覚えている。
お母さんとお父さんの居る家に戻ろうと思い後ろに振り返ったが、いつの間にか森の深いところまで来ていたようで、どこをどう行けば良いのか分からない。
早く帰りたいのに、歩いても歩いても森から出ることが出来ない。
怖くなって、泣きそうになっていた時だった。
こっちよ、こっち。
きゃははっ、そんな笑い声と共に、同じ位の歳の女の子の声が聞こえた。
ぐるりと周りを見渡すが、誰も居ない。
おーいで、おいで、声の聞こえる方に。
んふふふ、また笑い声と共に声が聞こえた。
誰でもいいから人に会いたいと望んでいた体は、ふらふらと声の聞こえる方に向かって行っていた。
歩いている間にも、止めどなく声が聞こえてくる。
声が聞こえる度に笑い声も聞こえてきて、なんて明るい子なんだろうと頭の片隅が考えていた。
どれくらい歩いただろうか、いつの間にか目の前に大きな大きな鳥居が立っていた。
見慣れている赤色の鳥居ではなくて、白色に金色の模様が入ったやつ。
信じれないほどに綺麗で、暫く見惚れた気がする。
おいで、階段の上よ。
あはは、また笑い声と一緒に声が聞こえた。
白の鳥居をくぐって、階段をどんどんと登っていく。
階段の周りは霧が立ち込めていて、上に伸びている階段以外のものは全く見えなかった。
段数を重ねる毎にどんどんと辺りが暗くなってきて空を見上げると、早送りをしたみたいに空の時間が過ぎていた。
不思議に思いながらも階段を登っていくと、足を踏み出した瞬間に後ろから手を掴まれて体がつんのめる。
ばっと後ろを振り返ると、10歳位の男の子が自分の腕を掴んでいた。
顔の上半分を黒色に金色で装飾した狐面で隠している。
『…だめだ、帰れなくなるぞ』
ハウリングしたような声が脳みそに直接響いてきて驚く。
何が起きているのか分からずに目を白黒させていると、男の子は説明もせず自分の手を引いて階段を降り始めた。
「なんでかえれないの?」
『…ここのやつが悪いやつだからだ』
ふーん、とあまり分からないまま返事を返す。
自分から話題を広げる気は無いのか、静かに階段を降りていく狐面の男の子。
「きつねのおめんかっこいいね」
『…そうか』
あ、ちょっと照れてる。
照れさせたことに気分が良くなって、上がった気持ちで階段を降りていく。
手元を見ると、優しく、でも決して離さないように手を繋がれていて、なんだか嬉しくなった。
『…手は離すなよ』
「はなさないよ」
ぎゅっと手を握って、離さないことをアピールする。
それで少し満足したのか、男の子は少し止めていた足を再び動かした。
手は、しっかりと握ったまま。
これは、手を繋いで森から出してくれた、あの男の子の記憶。
本当にあったことなのか、自分でも分からない記憶。
でも、あの時の手の暖かさは今でも思い出せる、不思議な記憶。
【部屋の片隅で】
そこはいつでも僕の定位置で、逃げ場で、遊び場だった。
周りはゴミで埋め尽くされていたけど、それは俺の体をすっぽりと隠してくれた。
小さく体を縮こませて座って、顔を膝に埋める。
頭の中でいくらでも遊べたし、美味しいご飯も腹がはち切れそうな位食べられたんだ。
「お前の顔なんか見たくない!!」
母さんの望みの通り顔は見えないし、
「あんたなんか産まなきゃ良かった」
苦しそうな母さんの感情は出てこない。
だから、僕はいつも部屋の片隅で静かにしていたし、ずっとそこに居た。
ここにいれば誰も傷つかないから。
僕のことを見ずに済むから。
少しだけでも幸せな夢が見れるから。
だから今日も、膝を抱えて部屋の隅に縮こまる。
「〜〜〜、〜?」
いつものように部屋の隅に座っていた時だった。
誰かが喋る声が聞こえる。
知らない男の人の声。また母さんが誰かを招き入れたのだろうか。
「〜〜はどこ〜、〜に〜る〜〜な?」
少しずつ声が近づいてくる。
母さんが招き入れた人がこんなに近くに来るのは初めてだ。
見つかったらどうしよう。せっかくここで静かにしてたのに。
「まさ君?まさ君はいるかな?」
どきっと胸が音を立てた。僕の名前だ。
…なんで僕を探してるんだろう。
床中に広がったゴミを踏む音がどんどん近付いてくる。
やめて、こないで。お願い。
「まさ君?」
僕の周りに高く積み上がったゴミを掻き分けて、声をかけられた。
答えちゃだめだ。
母さんが呼んだ人なら僕のことを知らないはずだ。母さんは俺のことを居ないものとして考えるから。
そこから導き出される答えは、この男の人は勝手に入ってきた人。
固く目を瞑って、体をさらに縮こませる。
「なんて酷い…まさ君、急に来てごめんね。君を迎えに来たよ」
君のお母さんも了承してくれたんだよ、と優しい声で言われる。
母さんが了承した…?気になる言葉が耳に入ってきて、思わず顔を上げる。
男の人は手をこちらに差し出して、僕が掴むのを待っている様子だった。
「僕、ここから動いていいの…?」
「ああ、勿論だよ。君には立派な足が付いているんだから」
この男に人が言うには母さんも了承してるみたいだし、と久しぶりに体を持ち上げる。
しばらく立ってすらいなかった体はふらついて、豆腐の上に立ってる気分になった。
「さあ、寒かっただろう、暖かいところに行こう」
もう一度目の前には差し出された手に、僕はそっと手を重ねた。
その日は、僕がちっぽけな部屋の片隅から救い出された日。
【逆さま】
もし重力が逆さまになってしまったとしたら、どうなるんだろう。
人間とか、車とか、水さえも空の方に吸い込まれていくのだろうか。
息が出来なくなって、苦しい苦しいと思いながら死ぬんだろうか。
あ、でも空を飛べるのはいいな。
だって飛んだ記憶が人生最後の記憶なんて、粋だと思わない?
ーーー
「考え直すんだ!こっちに戻ってこい!」
必死な表情をして、担任の先生が私に叫ぶ。
屋上の柵の外側にある自分の体がかつて無いほどに軽く感じられて、今すぐにでもふわりと羽のように飛んでいけそうだった。
きっと、どこまでも飛んでいける。
ふわふわと飛んで行っていた思考が、うるさい担任の声で引き戻される。
ちら、と後ろにいる担任を柵越しに見ると、絶望のような、焦りのような、悲しみのような、とにかくごちゃ混ぜな感情が読み取れた。
それが、どうにも腹立たしい。
生まれてからずっと苦しんできた人間じゃないのに、恵まれた人間なのに、一丁前に自分が1番苦しんでいますみたいな顔をする。
「お願いだ、一生のお願いだから戻ってきてくれ…」
涙を流しながら訴えかけてくる担任に感じたのは、単純に嫌悪。
今更何を言ってるんだこいつは、という思いが溢れ出てくる。
「あのさ、ちょっと黙っててよ。せっかく一人で空を飛ぼうと思ってたのに勝手に邪魔してこないでよ」
溜まったイライラをぶつけると、直ぐに静かになった。
口を開いて何かを言いたそうにしているが、肝心の言葉が出ていない。
もうこいつに構うのも時間の無駄だし、と柵に添えていた手を離す。
風を全身で受けるように手を広げると、少し冷えた風が体を撫でてくる。
制服のスカートがひらめいて、悪くなっていた気分が随分と良くなった。
前に一歩、踏み出した。
宙に放たれた体は、重力に従って下に落ちていく。
前に踏み出す瞬間にあいつが何かを叫んだ気がしたが、もうどうでも良かった。
なんて気分が良いんだろう。
まだ体は重くて下に落ちていくけど、落ちきったら羽のような軽さになれる。
どんな景色が私の目に広がっているのだろう、と無意識の内に閉じてしまっていた目を開けると、逆さまになった地球が目に飛び込んできた。
空が地面で、地面が空。
ああ綺麗だな。
そう思った瞬間に、視界は真っ黒の幕が引かれて見えなくなってしまった。
私は無事、羽になれたのだ。
【眠れないほど】
少し丈の長い草を踏みしめる音が控えめに響く。
もう辺りはすっかり真っ暗で、目が闇に慣れてもぼんやりと夢の中に居るような感覚が消えない。
冷えて熱を求める手を無視して、どんどんと歩を進めていく。
自分の呼吸の音、風の音、微かに虫の声、静かな音達が膨大な空間を満たしている。
ぼんやりと働かない頭は、どこに行くのかも決めずに本能のまま足を進めて、それすらも疑問にすら思わない。
ちゃぷん、
水の音がした。
どこかに出かけていた脳みそが一気に帰って来る感覚がした。
(こんなとこに水場ってあったっけ…)
目的地点を決めていなかった体は、水の音がした方へと向きを変えた。
思考が戻ってくると一気に寒くなったように感じて、両手を袖に突っ込む。
冬の夜に上着1枚で外に出るのは、少し舐めていたかもしれない。
水の方へ向かったって暖かい訳でもないし、なんなら家からも離れるだろう。
だが、今の気分がそういう気分なのだ。全ての行動に理由を持たなくたっていい。
どれくらい草を踏みしめただろうか。
時間が分かるものは何一つ持っていないので分からない。
ちゃぷん、ちゃぷん、
微かにしか聞こえなかった水音が、確実に近くなる。
音が大分近くなってきたな、と辺りをぐるりと見回すと、今まで気付かなかったのがおかしい位の大きな塊があって驚く。
近付いてみると、大きな大きな岩であった。
岩に手を添えると、自分の冷たくなった手よりも遥かに冷たい感覚が掌を濡らす。
(…水?)
暗さで詳しいところまで認識ができない目を凝らして岩肌を見ると、てらてらと少ない月明かりに反射している箇所があるのが分かった。
反射している箇所に接している地面を見ると、水が溜まっている。
どれくらいの深さなんだろう、と近くにしゃがんで指を浸けてみた。
――りん
急な鈴の音に、へ?と思う間も無く、明らかに不自然に足元のバランスが崩れた。
(濡れる!!)
眼前に迫った水に体を強張らせる。
だが、私が濡れることは無かった。
とぷん、と自身が水の中に入っていく感覚がして、水深が深いことに絶望を感じたが、いくら待てども息苦しくならないし、寒くもない。
むしろ先程よりも暖かいくらいだ。
ぎゅっと固く閉じていた目を恐る恐る開けると、入り込んできた光景に脳がフリーズするのが分かった。
「っえ??」
目の前には、地面が見えるほど透き通った湖。
よく見える水底にはキラキラと光る何かがある。
湖の周りにはポヤポヤと周期的に光る何かが漂っていて、夜中とは思えないほど辺りは明るかった。
――りんりん
先程よりもはっきりと聞こえてくる鈴の音。
目の前に広がる光景と謎の音に一周回って冷静になっていると、しゃん、と先程とは種類の違う鈴が聞こえた。
ポヤポヤと光っていた何かが湖の上に集結して、人型を形作る。
ポヤポヤが全部集結しきったかと思うと、ぴかっと強い光が放たれた。
「やっと逢えたぞえ、妾の愛し子よ!」
心底嬉しそうに言う声が聞こえて、反射で閉じていた目を開く。
目の前には、淡い光を放つ少女がいた。
淡い光を放っている時点で普通の少女じゃないことは確かだが、頭の上に大きめの狐のような耳があるのを見て、人間じゃないんだなと再確認をする。
というかそれ以前に真っ白い。
髪も、肌も、耳も、着ている巫女さんみたいな服も、着けている装飾も、今まで見たことが無いくらいに純白だ。
その中でも、ひとつ。瞳だけが金色に染められていて、純粋に綺麗だと思った。
「綺麗…」
「お、そうか?そなたに言われると照れるの」
嬉しそうにぴょこぴょこと耳を動かす目の前の少女の笑顔は艶やかで、見てはいけないものを見ている気分になってしまう。
…というか私、なんでここに居るんだ?
眠れなくてちょっと散歩してただけなのに、いつの間にか超常現象に巻き込まれている。
「?どうかしたか、愛し子よ」
こてん、と首を傾げて少女は私に尋ねた。正直言ってめちゃくちゃ可愛い。
(夢よりも夢らしい現実に遭遇するなんて、思いもしなかった…)
眠れないほど、私は夢の中に迷い込んでしまうらしい。
【夢と現実】
ばん、という音と共に弾ける火の花を目に焼き付ける。
パラパラと光の残滓が下に放物線を描いて、地面に届く前に消えた。
――すごいね、母さん!
収まらない興奮をそのままに母に話しかける。
花火の後に目に写った母は、子供でも見惚れるような優しさに溢れた表情をしていた。
――そうね、また来年も見に来ましょう。ね、あなた?
――ああ、そうだな。来年も来よう。
私を挟んで微笑み合う両親は、まだ幼かった私には嫉妬心を沸かせるものだった。
ぷく、と頬を膨らませて、精一杯の不機嫌アピールをする。
母さんは父さんが大好き。父さんは母さんが大好き。
だから、そのふたりの娘の私は大大大好きでしょ?
そんな事を言って、私は2人の手を片方ずつ握った。
2人も笑いながら肯定してくれて、心がぽかぽかと暖かくなる。
ああ、ずっとこの時間が続いたらいいのに。
ずっと、ずーっと。
…分かってるんだ。これは、夢でしかないこと。
まだ私が明るく輝く星で在れた頃の、しあわせな夢。
沢山の、数え切れない星達に混ざれていた頃。
……出来ることなら、暖かい星のまま居たかった。
・
・
・
ぱちりと目が冷めて、無機質な白の天井にしばらく目を向けていた。
まだ暗い。また、2時間ほどしか眠れなかったらしい。
腕に繋がっている管が抜けないように注意しながら、のそりと鈍い体を横の真っ白い壁にある窓に向ける。
温度の差で若干結露しているガラスの向こうには、数え切れないほどの星が輝いていた。
「なんで…星になれなかったんだろうなぁ」
ふたつの意味を込めて、そう呟く。
いつの間にか、目元から生暖かい水が零れ落ちていた。
…その目元に光る雫が、星に負けないほど輝いていること。
それが、本人が1番気付くことのできない事実というのは、
少し、皮肉が効きすぎている。