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5/1/2024, 10:06:12 AM

失ってから気づくこと(テーマ 楽園)


 その日、職場で残業をしながら、私は後輩の谷にぼやいた。

「学生の頃はさ。」

「?」

 谷は、『いきなりなにをいいだすのこのひと』と言いたげな目をした。あるいは、『さっさと手を動かせよ』とでも言いたげな目だ。

「試験とか、体育祭とか、嫌なこともあったわけで。」

 せめて手を動かしながら続ける。

「体育祭とか、嫌だった系の人っすか。」

「意外か?」

「いや、全然。イメージ通り過ぎてつまらないくらいっす。」

「・・・。まあ、あれだ。嫌なことはたくさんあったけど、今こうして毎日残業して働いているのと比べると、楽園だったなって話。」

「そりゃ、そうっすよ。学生の時は、金を払う側、お客さんっすから。今は金をもらう側。仕事する側なんで、比べられないっすよ。」

 このくらいの話は脳細胞も使わないのか、谷は手を止めずに話に付き合ってくれる。


「だが、楽園だとは思っていなかった。むしろ、成績が低くて留年しそうでどうしよう、と思っていたくらいだ。」

 谷の手が止まった。

「体育祭嫌な系なのに、成績も留年を心配するくらいひどかったんすか?」

「意外か?」

「意外っす。先輩、成績はいいガリ勉タイプだと思ってたっす。・・・灰色の学生生活?」

「そこまでではなかったぞ。部活動を四つくらい掛け持ちしてな。放課後は楽しかった。・・・まあ、つまりだ。あの頃はそう思っていなかったが、今からすると楽園だ、と言うことは、だ。」

「ということは?」

「残業している今も、高齢者になったら楽園だったとか、思い出すのではないか、という話。」

 谷は手を動かしつつも、なんとなく上の方を見る。

 何やら考えているようだ。

「・・・。私は、今も、別に嫌で嫌でしょうがないってワケじゃないっすよ?残業は多いっすけど、それなりに満足してます。」

 私は谷を穴が開くほど見つめてしまった。

「マジ?」

「そりゃ、もっと早く帰れりゃいいな、くらいは思いますけど。文句ももちろんあります。ただ、こう言うのも含めて、悪くない日常っていえるのではないかな、とも思ってるってだけっす。」

(おこがましかった。)

 谷の姿が何やら高貴に見えた。

「案外、楽園に楽しんで住めるのは、谷みたいな感性を持つ人じゃないとだめなのかもな。どこに住んでもグチグチ文句しか言わないなら、楽園なんてどこにも存在しなくなるだろうし。」

「あれっすよ。足るを知る。」

「そうかもな。」

 私は無駄口を叩いたことを反省し、後輩の人生観に感化されて、黙って手を動かすことにした。

4/12/2024, 11:50:26 PM

ここではないどこかへ(テーマ 遠くの空へ)


見知らぬ土地へ行こう。

仕事時間と睡眠時間、後は親の介護。

これらだけで構成される人生から解き放たれて。


飛空艇に乗って。
飛行船でもいい。

空を飛び、あての無い旅へ。


雲を乗り越え、国を下に見下ろして。

冷たく強い空気と、空を飛ぶ鳥だけを友として。


飛び続ける手段を得られるなら、そういう人生もいいだろう。


若い頃は、自分の夢とプライドが、あるいは『いつかは結婚して子どもを産むだろう』という根拠の無い期待や、世間体。

そんなものが『失敗するかもしれない無謀』を許さなかった。

しかし、もう歳は40を越え、未だ独身だ。

夢もプライドも期待も世間体らしきものも、日々の長時間労働で粉々になって、ほとんど残っていない。


無くすものが無い。

若い頃持っていた様々なものを歳とともに失い、代わりに得たものは無い。

気がつけば、守るべきものもほんのわずかになっていた。


だったら、好きに生きていい。


どうせ失うものなどほとんど無い。

これから得られる目処もない。


遠くの空へ、漕ぎ出そう。


我慢は40年もすれば十分だろう。


4/11/2024, 10:04:49 PM

言葉とリアルの違い(テーマ 言葉にできない)


今ここにある何か。

自分という肉体が鼓動する音。
目に入る光。

苦しい心。

足りない睡眠時間。
つらく長い仕事時間。


これらから何を思うだろうか。

現代のブラック企業?古代の奴隷?


その後、『パソコンに向かって』と続けば『現代かな』と読者は思い、『皆でオールを漕ぐ』とか『鞭が跳ぶ』とかが続けば『現代ではないな』と読者は思う。


また、時代が分かっても、情景がありありと浮かぶまで文字を紡ぐと、長大な文章になる。
そして、それだけやっても、おそらく読者それぞれの心の中の情景は異なる。


言葉が紡げることと、紡げないこと。

心の現れを、その機微を、言葉で正確に表すことはできない。

アナログ音をデジタルデータに変換するように、言葉にすることで、実際の現実から『言葉で表現できる範囲』に切り取ることになる。

そして、その(仮)デジタル化した文字情報が、読者の頭の中でアナログに変換される。

そのとき、読者の頭の中に浮かぶ光景は、(仮)デジタル化された文字から、読者の知識と経験によってデコードされたものだ。


人物Aが恋をした。

と書いても、読者が恋を知らなければ、情景は浮かばない。

パソコンに向かって

と書いても、パソコンを知らなければ、意味が通らない。


言葉とは、本質的に孤独で、互いに理解し得ない我々に渡された『か細い糸』なのだ。

言葉にできない範囲は広く昏い。


4/9/2024, 9:18:27 PM

月は見ている(テーマ 誰よりも、ずっと)


 夜の空に浮かぶ月は、世界中でたくさんの人が見ている。
 つらい人も、泣きそうな人も、孤独な人も。
 楽しい人も、幸せな人も、恋人たちも。

 人だけでなく、動物も。

 月から見ると、数えきれないほど多くの人、動物が、自分を見つめてきた。
 昔から、ずっと。

 誰よりも多くの生き物が、億年というスパンで、月を見続けてきた。

 これからも、月が地球から離れていく遠い未来のその日まで、多くの生き物が月を見ていくだろう。

 あくせく働き、過労死したりメンタルをやられたりする私たちも、勉強が嫌で仕方がない子どもも、一定以上の視力を持つ生き物たちも。

 願いを掛けた者もたくさんいた。

 恨み、にらみつけた人もいた。

 単に眺めた人ももちろんたくさんいた。

 誰よりも多くの生き物から、月は見られ続けている。

 月にもし意思があったなら、『すぐに寿命が来る割に、よくこちらを見上げてくる人間という生き物は、なんでこっちを見ているのか』と疑問に思うかもしれない。

 忙しい私たちや、生存競争でしのぎを削る生き物たちとは大きく離れた別世界で、月はただ、たたずんでいる。

4/8/2024, 4:32:51 AM

残り時間(テーマ 沈む夕日)

 朝起きて、仕事のことを考えて胃が痛くなる。

 片付かない仕事。

 もう若くなく、体も、段々と無理がきかなくなっている。

 毎年求められるものは増え、体はボロボロになっていく。

 得られたものは何だろう。

 と最近考える。

 結婚もせず、子もいない。

 両親は老い、自分も老い。

 白髪は、数えるのが無意味なくらいにはある。


 万能感と、有り余る時間と、世の中の不条理への不満に満ちていた学生時代。 

 『あの時ああしていれば、全く違う人生があった』

 それは単なる空想だが、確度の高い予想で。

 あそこで仲違いしなければ、あそこでキチンと勉強していれば、あそこで我慢せず、自分の思うがままに生きていれば・・・。

 思ったところで、時間に戻らない。

 沈む夕日を扇で戻す、などという芸当はできないのだ。

 できることは、ただ残りの時間を大切に過ごすことだけだ。


 そのまま沈むか、沈む際にひときわ明るく輝くか、は選ぶことができる。

 まだ沈んでいないから、まだ選べる。

 沈みきったら、『日が出ているうちにやっておけばよかった』と後悔することすらできないから。

 ほら。

 もう、恥ずかしがって何もできないほど幼くもないでしょう?

 手に入らなくなったものをうらやましがるより、まだ手には入るかもしれないものに尽力する方が、人生はきっと楽しいから。

 沈む夕日は、まだ沈んでいない。


 

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