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失ってから気づくこと(テーマ 楽園)


 その日、職場で残業をしながら、私は後輩の谷にぼやいた。

「学生の頃はさ。」

「?」

 谷は、『いきなりなにをいいだすのこのひと』と言いたげな目をした。あるいは、『さっさと手を動かせよ』とでも言いたげな目だ。

「試験とか、体育祭とか、嫌なこともあったわけで。」

 せめて手を動かしながら続ける。

「体育祭とか、嫌だった系の人っすか。」

「意外か?」

「いや、全然。イメージ通り過ぎてつまらないくらいっす。」

「・・・。まあ、あれだ。嫌なことはたくさんあったけど、今こうして毎日残業して働いているのと比べると、楽園だったなって話。」

「そりゃ、そうっすよ。学生の時は、金を払う側、お客さんっすから。今は金をもらう側。仕事する側なんで、比べられないっすよ。」

 このくらいの話は脳細胞も使わないのか、谷は手を止めずに話に付き合ってくれる。


「だが、楽園だとは思っていなかった。むしろ、成績が低くて留年しそうでどうしよう、と思っていたくらいだ。」

 谷の手が止まった。

「体育祭嫌な系なのに、成績も留年を心配するくらいひどかったんすか?」

「意外か?」

「意外っす。先輩、成績はいいガリ勉タイプだと思ってたっす。・・・灰色の学生生活?」

「そこまでではなかったぞ。部活動を四つくらい掛け持ちしてな。放課後は楽しかった。・・・まあ、つまりだ。あの頃はそう思っていなかったが、今からすると楽園だ、と言うことは、だ。」

「ということは?」

「残業している今も、高齢者になったら楽園だったとか、思い出すのではないか、という話。」

 谷は手を動かしつつも、なんとなく上の方を見る。

 何やら考えているようだ。

「・・・。私は、今も、別に嫌で嫌でしょうがないってワケじゃないっすよ?残業は多いっすけど、それなりに満足してます。」

 私は谷を穴が開くほど見つめてしまった。

「マジ?」

「そりゃ、もっと早く帰れりゃいいな、くらいは思いますけど。文句ももちろんあります。ただ、こう言うのも含めて、悪くない日常っていえるのではないかな、とも思ってるってだけっす。」

(おこがましかった。)

 谷の姿が何やら高貴に見えた。

「案外、楽園に楽しんで住めるのは、谷みたいな感性を持つ人じゃないとだめなのかもな。どこに住んでもグチグチ文句しか言わないなら、楽園なんてどこにも存在しなくなるだろうし。」

「あれっすよ。足るを知る。」

「そうかもな。」

 私は無駄口を叩いたことを反省し、後輩の人生観に感化されて、黙って手を動かすことにした。

5/1/2024, 10:06:12 AM