何も掴まなかったからこそ(テーマ 胸が高鳴る)
1
2020年の日本の男性の生涯未婚率(50歳時点未婚割合)は28.25%。遠からず3割に達しそうだ。
その一端というわけではないが、私も40代で未婚男性である。
言い訳をするなら、仕事。一言で仕事だ。
世の中は、人手不足といいつつも、一方で人員カットを行っている企業で溢れている。
非正規雇用もまた多い。
一方で人を切り、非正規雇用に変える。彼らの多くは定時に帰る。
一方で『働き方改革』を唱え、育児休業や短時間勤務によって子育て中の社員は定時か、それより早く帰る。
他方、仕事を増やし、残った正社員は増えた仕事と減った人員分の仕事を背負うという、地獄のブラック勤務を行うのだ。
夜中残業、通常営業。
休日出勤、いつものこと。
そして、私はその地獄のブラック勤務を15年以上行った結果、20代後半から40代前半人生を、仕事以外何もせずに浪費してしまった。
タイムマシンに乗ったのかというくらい時間が飛んだ。
2
ハッと気がついたのは自分の身体の衰えと、両親の老いだ。
体に無理が効かなくなる。
目の疲れが酷く、パソコンの画面を見ていられない。
実家の父が難しい話をしなくなった。
母はよく怒るようになった。
もう、予想される未来は、両親の介護をするようになって地獄の労働に耐えきれなくなり、介護離職する自分の姿。
「人生の行き詰まり」というやつだ。
何の仕事をしながら両親の介護ができるのか。
かといって、仕事をしなければ食っていけない。
親の期待に答えるためにいい大学に行き、親の勧める会社に入り、馬車馬のように働き、身体の衰えと親の介護のためにその会社を辞める。
子どもがいない。
結婚もしていない。
老いた両親は、息子である私がいつまでも結婚せず、孫がいないことを悲しむ毎日。
毎日暮らしていくので精一杯。
『自分』という生き物はどこにいるのか。
そういえば、自分は何が好きだったのかも。忘れていた。
3
学生の頃、私は文芸部にいた。
熱心な部員というほどではなかったが、季節に一回発行する文芸誌のために原稿をせっせと書いた。
そういえば、文字を書かなくなって20年近くになる。
・・・文字を書くだけなら、介護しながらでもできなくはない。
では、その仕事の合間に、または、仕事をしながら夢へ挑戦するのかどうか。
そうして、私は「書く習慣」というアプリをインストールしたのだ。
完成度など知ったことか。
内容など輪をかけて知ったことか。
とにかく毎日書いておけば、一年後には300以上の何かが残る。
明るく楽しく毎日を過ごす?諦めた。
かわいい奥さんと子どもの待つ家に帰る?諦めた。
毎日ワークライフバランスのとれた職場でほどほどの給料とほどほどの労働で勤務?無理だ。
周囲に、会社に期待はしない。
ただ手を動かすだけだ。
それなら、できる。
『その日は○○だから、参加できないんだ。また誘ってくれ。』と諦める必要がないこと。
スマートフォンで書くこともできる。
信号待ち、電車通勤、実家の介護での空き時間。
有効活用もできる。
4
そして、私はこの文章を書いている。
特に何か目標を持っているわけではない。
単に、働いて家族の面倒を見るだけの、自分を見失った生活の中に、書く習慣をつけるために。
久しく感じていなかった胸の高鳴りを感じる。
自分の道を歩き始めるワクワク感。
そう。ただがむしゃらに歩いてみる。
歩かないと、たどり着かないから。
たとえたどり着かないとしても、歩いてだめだったのと、歩かず嘆くだけでは、つらさが違う。
そう。
言われるがまま生きても、きっと、私を含めて誰一人、満足などしないから。
(アプリ宣伝の文章ではないですよ。一応)
筋道と諦め(テーマ 不条理)
シンプルな結論が先にあり、言い訳は後で創作される。
*
新人の時つらいと言った。異動を求めた
「今の仕事ができるようにならなければ、よそでもできないよ」
そうか、と思い歯を食いしばった
*
土日出勤と時間外で仕事ができるようになり、何年も同じ仕事しかできないことをつらいと言った。
「君にしかできない仕事なんだから、申し訳ないがしばらく頑張ってくれ」
職場が大変なことはわかっていたので、我慢した。
しかし、自分よりも大変な人は管理職ばかりなので、定時に帰って遊びに行く同期を見ると、嫌な気分になった。
*
年齢が上がり、無理がきかなくなってきた。
同期は結婚して子育てしている。
体力的に持たないので異動させてくれと言った。
「そんなことを言って、できてるじゃないか。職場の状態的に今そんなことはできない」
職場の状態はもうずっと変わっていない。
*
このペースの仕事はできないので、降格願いを出す。
上司が預かってそれっきりだった。
*
もう同じことをして15年になる。
他の部署の仕事はよくわからないまま、歳だけ取った。
人事に言っても取り合ってもらえない。
「あなたは他の経験がない。その年齢で他部署に行ってもできることはない。」
*
人事では、陰口が叩かれる。
「あの人は同じ部署しかやっていないから、今更他の部署は受け入れたくないってさ。残業や休日出勤も多いし、扱いに困る人だよね。」
「15年も同じ部署だから、もう神様だよ。誰も反論できないの。空気も悪いし、辞めてもらえないかな。」
*
言葉が変わるばかりで、消耗品にされていただけだった。
言葉はコロコロ変わって筋道が立たず、不条理である。
言葉は信用できない。人は信用できない。
他人は利用し、うまく立ち回るべきだったのだ。
我慢して都合のいい人になるなど、食い物にされるだけだったのだ。
そう。
食い物。
別にこれで誰かが大金を得たわけではない。
周囲の人が引くはずの貧乏くじを引き続け、自分が人生を仕事に消費している間に、周囲の人はそれなりに苦労して、それなりに遊んで、結婚して、子育てしていた。
その間、こちらはずっと仕事をしていた。
周囲に少しずつ食い物にされる人生。
周囲の口から出る言葉は不条理でその場限りのものばかり。
しかし、行動を見れば明らかだった。
人事を固定し、同じことを、ただ会社として必要なことをやらせる。
人は増やさず、ただ搾取する。
そこには「何とかうまく会社を回そう」という会社の条理と、「私はやりたくない、絶対に嫌だ」という周囲の社員の条理があった。
言葉ではなく行動を見て、こちらもさっさと行動すべきだったのだろう。
*
仕事ができない?
そんなの知ったことか。
仕事なんて適当にするさ。
真面目にやってもバカを見る。
他の誰かがやるだろうさ。
私が15年もやったように。
誰かがやってくれることを期待して、私は程々にするさ。
問題が起こったら上がなんとかするだろう。
そのための上だ。
ほら、真面目そうな新人が来たぞ。
しっかり仕事を教えて、バリバリ働いてもらおうじゃないか。
墓地(テーマ 怖がり)
1
こどものころ、父は自宅は建て直した。新築になった家は広く、2階には窓の大きなこども部屋があった。
真新しい家は快適で住みやすかったが、こどもだった私には一つ気になることがあった。
こども部屋の大きな窓から一番良く見えるのは、家のリビングに面した墓地だったのだ。
こどもの私は、昼間は墓地や、その近くの山に遊びに行っていたくせに、夜になるとその墓地を怖がり、よく母の元へ行っては、窓から音がなる、天井がミシミシ言う、など言って母を困らせた。
夏は暑く、部屋にはエアコンもないため、窓を開ける。
山から入るひんやりとした冷たい空気がゆっくりと入り込んでくる。
暑い時はこの空気が快適だったが、一方で墓地の空気が入っているかと思うと怖がることも多かった。
私には今も昔も「霊感」というものはないが、怖がっていたからだろう、怖い夢はしょっちゅう見ていた。
母は私の怖がりを厄介に思っていたのだろうけれど、特に顔に出すことなく、昔話をしてくれた。
「私の父さん、あんたのおじいさんは、昔、ここに住んでたんだけど、昔釣り竿とランタンで火の玉を作った事があってね。帰ってきた私と妹の前に釣り竿で吊るしたランタンをおろして、脅かそうとしたことがあったよ。ひょうきんな人だから。」
墓場の目の前でそんなことをするなんて、祖父は冗談が過ぎる人ではないか。
こども心にそう思っていて、怖がるこどもの私にはあまり効果はなかった。
2
次第に成長し、小学校を卒業する頃には、私は目の前の墓地はすっかり平気になっていた。むしろ、たまに近くに住み着く野犬や、山から来る蜂、または家に出るゴキブリやムカデの方が実害が大きかったのだ。
夏の夜、のどが渇いて1階の台所へ降り、冷蔵庫の扉を開け、冷えた麦茶を飲む。コップを洗って乾燥機へ入れて2階へ戻る。
夏季限定だが、その間にゴキブリを見る可能性はだいたい30%くらいだった。実害のない墓地よりもゴキブリとの対面のほうがよほど恐怖であった。
なお、ゴキブリをいくら退治しても、山からいくらでも補給されるのできりがないのである。
後に大学に行って寮やアパートで暮らした際には、ゴキブリが出る確率の低さに驚いたものだった。
ゴキブリの話は置いておく。
墓地はすっかり平気になり、特に気にならなくなった。
高校生になってからは、もっぱらついていけない授業や、片付かない宿題や分からない試験の方がよっぽど恐怖であった。その分部活動にのめり込み、成績は特定の得意科目以外は低空飛行で、教師陣のお情けで卒業させてもらったと、今でも信じている。
3
大学で卒業が見えてきた年になると、就職活動をすることになる。
何社も受けて、何社も落ちた。
東京に出て、説明会や試験をハシゴして回ることが増えた。
説明会や試験を受けると、それまで学生ではいかない場所も沢山訪れることになる。
会場をハシゴするために、知らない道を通ることはしょっちゅうであった。
最寄りの地下鉄駅が遠かったため、地図を片手に進み、青山霊園に入った。
通り抜けるとショートカットできるのだ。
しかし、霊園に入った大学生の私は、むしろ心が落ち着いた。
そこは、東京の、見上げると首が痛くなるほど背が高いビル、酔うほどの車や人の多さ、音の洪水のようなうるささから開放された空間だった。
墓石と敷石の沈黙の世界。
不思議と落ち着いて、むしろ、暫く霊園でくつろいでいた。
後日、古い友人に話すと笑われた。
「そりゃあれだよ。きみんち、墓場の目の前だったじゃん。今さら墓場が怖いなんでないでしょ。」
「まあね。」
何がいいたいかと言うと、恐怖は慣れる、ということだ。
大人になってからの勉強は、仕事に必要な分だけやることにすれば割り切れたので、そこまで恐怖ではなくなった。
しかし、ゴキブリだけは、何故かまだ慣れない。
突然でてきて、私を恐怖に陥れるのだ。
星溢れ(テーマ 星が溢れる)
1
夜空の星は、固定ではない。
近くの星である月は毎日動くし、何なら夜を終わらせる太陽だって星だ。
それ以外の、たくさんの星たちも、飛行機のように動くことはないが、少しずつ動いている。
これは、その星の動きについて、科学というものを知らなかった子供だった僕が、ものの見事に大人に騙され、そして勘違いした話だ。
2
「星溢れって知ってるか?」
近所の少しワイルドな兄ちゃんが、ある時僕に教えてくれた。
当時の僕は小学3年生で、世の中のことなんて何も知らないと言ってもよかった。
おかげで授業は楽しかったが、今回のように騙されることもある。
「なにそれ?」
首を傾げた僕に、その兄ちゃんはそうだろうそうだろうと、満足げに頷く。
「教えてほしいか?」
「うん!」
はっきり頷いたものの、普段は悪い遊びばかりすると評判の兄ちゃんが、中々知的なことをいい始めた、と不思議にも思った。
「よし、教えてやろう。星っていうのはな、空に少ししかないだろ。」
「うん」
「でもな。オハジキみたいに星が動いて他の星にぶつかると、星が増える。それを繰り返すと、夜空が星でいっぱいになることもあるんだぜ。それが星溢れだ。」
すごい、と当時の僕は目をキラキラさせていたに違いない。何と夢のある話か。
「それ、いつあるの?」
「……。さあ。」
「どうやったらできるの?」
「……。」
その兄ちゃんは段々不機嫌になってきた。
あとから聞いた話だと、わりと流行った嘘話だったらしく、騙された兄ちゃんは、騙しやすそうな僕を騙してウサを晴らそうとしたらしい。
「あのな。星は空にあるんだぜ。俺達がおこそうったってできないんだ。太陽や月を止められないのと一緒だ。」
「え?できないの?止められないの?」
「そりゃ無理だ。」
その兄ちゃんはひとしきり笑ったあと、僕の予想以上の物の知らなさに満足したのか、そのまま去ってしまった。
そして、種明かしをされなかったことが、その後の僕の行動を呼んでしまった。
3
学生には夏休みというものがある。
1ヶ月半の休み。
遊び回ることが多かった僕だが、前年に宿題を溜めてしまった僕は、母から早期に宿題を片付けることをきつく言われていた。
そして、夏休みの宿題には、自由研究なるものがあった。
「星の研究をする。」
それだけ言った僕を、母は歓迎した。
母は高価な望遠鏡や観測機を誕生日プレゼントに買ってくれようとしたが、父は「本当にその道に進みたいなら買ってやらないこともないが、単に興味があるだけならそれは早い」と買ってくれなかった。
「記録を取るなら、そうだな。例えば、毎晩同じ場所に立って、どこにあるのかノートにメモしていけばいい。筒を作って、紐を通して錘を下げる。錘で紐は地面を指すから、筒がどのくらいの角度なのか、分度器で図れるんじゃないか?」
直感とアイデアの人だった父と僕は、二人で工作し、紙の筒と紐・錘に分度器をくっつけたお手製の角度チェッカーを作った。
僕は張り切って使って星の観察を始めた。
やり始めてすぐに「このチェッカーは高さの角度はわかるけど、方角は分からない」と気がついて、方位磁石とセットで記録をつけ始めた。
4
数日して、段々と星座の動きがノートに記録され始める。
しかし、なんだか日によって記録がバラバラだったりして、なんとも不安定だった。
後から思えば単純な話で、人から聞いた話や思いつきだけでやっているのだ。
確たるものなど何一つない。
しかし、当時は一端の科学者にでもなった気持ちだった。
そして、一週間もする頃、そもそもの始めの疑問に対して悟り始める。
「星を動かすことはできない!」
角度と時刻で星の動きを追っているだけだったが、流石にどうやっても手の届かないところの星を動かせないことはわかった。
と言うよりも、考えていなかった自分のバカさに気がついた。
(あの兄ちゃんも笑うはずだ。)
子ども心に、一つ大人の階段を登った気がした。
5
「星溢れ」なるものを実現することはどうやら無理そうだと悟ったものの、星の観察は続けていた。
知らないことを、自分で調べて、『こうではないか』『ああではないか』と考えるのは、意外に楽しかった。
僕が物を知らない子どもだったこともあったのかもしれない。
星座の本でも買えば一日でわかるため、他の子どもはこんなことをしようとは、そもそも思わないかもしれない。やったとしても、本の正しさを後追いするだけだから、面白味もないだろう。
毎晩同じ時間に同じ場所に来て、方角を測り、星を見て、角度を記録する。
自分が馬鹿だったことを知っても、この『科学的な』行動は、ごっこ遊びに似た楽しさがあったのかもしれない。
6
そして、夏休みのある日。
比較的大きな地震が僕のいた町で発生した。
大きな震度、テレビでも放送され、建物が崩れたり、地割れが確認されたりしたが、幸いにも死亡者は確認されなかった。
その晩、僕はいつものように同じ場所で同じように星を観察して、驚いた。
「位置が違う!」
方位磁石とチェッカーで位置を確認していた星の動きは、昨日までの動きと相当の大きさで異なっていた。
(もしかすると、地震で星の動きが変わった!?)
僕は大発見をしたとドキドキして、その晩は記録を3回も確認して記録した。
翌日測っても、やはり星の位置はずれたままだった。
(ずれたまま、軌道自体は前と同じように動いているように見える)
地震で星の動きが変わる。そうなれば、星を動かせないわけではないので、「星溢れ」なるものもやろうと思えばできるのではないか。
幼い僕の夢は広がった。
僕の夏休みの自由研究は「星の動きの観察と地震について」とタイトルが変わった。
大発見としたかもしれない、と急に自分がすごい人間になったような気がした。
(ニュートンはりんごが落ちて重力を発見した。僕は地震で星が動くことを発見した。)
僕は、他の夏休みの宿題にも急に手を付け始めた。
歴史的発見をした時、「他の宿題は全然していないだめな子だった」と言われたくない、と思ったのだ。
7
夏休みが終わり、先生に提出する時の僕は、それまでなかったくらい誇り高い気分と期待でいっぱいだった。
その有頂天な状態は、1週間後に先生から呼び出されるまで続いた。
僕を職員室に呼び出した先生は、自由研究について話をした。
「きみの研究は、毎日星を観察して、記録して、動きを考える。地道な作業を良く頑張ったね。」
後から思えば、先生はこのとき、子どもの頑張りを台無しにしないよう、かなり気を使って言葉を選んでいたと思う。
「ただ、地震で星は動かない。結論は間違っているんだよ。」
「でも、観察した星の位置はたしかに変わっています。」
「うん。そうだね。きみは研究のレポートに測定する道具まで書いてくれた。おかげで先生もすぐに気がついたんだが、この『お手製チェッカー』は正確な星の観察はできないんだ。」
先生は、白い紙に図を描いてくれた。地面にたつ人と、筒と、星の関係図だ。
「このチェッカーは、同じ位置から一切動かずにそこから見える物の角度を測るものだ。同じ位置に立っていたとしても、例えばきみと先生では身長が違うから数値は変わる。そして、地震であの場所の高さか角度が変ってしまったんだろう。星の位置記録は変わったが、ずれただけで動きは一緒だった。星が動いたんではなく、きみが動いたんだ。」
先生の話は、せっかく作った自由研究だから、と、結論とタイトルを変えて「星の観察」にしたらどうか、ということだった。
「星の観察自体はよくやったともう。ただ、星の観察は、地上の目印となる建物からの距離などを測ってやるべきで、星と自分だけの位置から測ると正確な観察はできないんだ。」
これで、僕の夏休みを通した大発見は終了した。
星が動いたのは単なる勘違い。星は溢れようがなかった。
しかし、この時の僕の経験は「科学」と「科学っぽいもの」を分けて考えるきっかけになったのは間違いない。
僕はこれ以後、年をとっても「夢のあるSF」と「科学」は分けて考える癖がついたのだ。
悪魔と魂について(テーマ ずっと隣で)
※まとまりが今ひとつの中途半端なファンタジー小説です。
1
僕が中学生の時に亡くなった祖父には、若くてきれいな介護士がついていた。
名を佐久間さんといい、長い黒髪、スラリとして背が高く、女性らしいメリハリのある体。顔は優しそうでお淑やかそうな風貌。
昔の僕が彼女に密かに憧れていたことも無理からぬことだと、今も思う。
しかし彼女は、風貌に反してキビキビ働いた。
黒髪は根本で縛り、地味なエプロン姿が多かった。
佐久間さんは、祖父につきっきりで食事の世話はもちろん、掃除も服の洗濯などもして、もうスーパー家政婦といった塩梅だった。
それは甲斐甲斐しく祖父の世話を焼いていた。
両親は「募集してみるものだ。いい人が来てくれた。」と喜んでいた。
佐久間さんが来るまで、うちはどうしたらいいか、難しい状態になりつつあったのだ。
両親は共働きで、祖母はすでに他界。
昼間の家は、認知の入った祖父しかいなかった。
祖父は杖をつけばかろうじて外を散歩することができるくらいの状態だったので、徘徊して行方不明になることもあり、その時は消防や警察が出て捜索された。
両親は家を施錠してから会社に行くようになった。
僕は鍵っ子で、家に帰ると鍵を開け、祖父にお昼は食べたか聞いたり、夕飯の用意をしたりしていた。
祖父は家に閉じ込められることで鬱々としていた時期もあった。
佐久間さんが来てからは、家の鍵は開いていたので、僕も鍵っ子から卒業した。
そして、僕が祖父の世話をする必要はなくなり、祖父の散歩も佐久間さんが付き添うようになった。
それどころか、僕ら家族全員の洗濯・食事の面倒まで見てくれた。
両親が二人とも帰ってきたら、佐久間さんは両親に今日の報告をして帰宅する。
そして、翌日、朝にまた来る。
決して出しゃばらず、気配りを欠かさず、掃除洗濯、料理もやってくれる。
土日は休みだが、両親がどうしても外せない仕事があるときなどは休み返上で来てくれたりもした。
一体彼女のプライベートはどうなっているのか。
あまりの仕事ぶり、熱心さに親父など『もしかして昔、親父の愛人とか、隠し子だったのでは』とか冗談半分に言い出す始末だった。
当時は『変なことを言い出す親だ』と思っていたこのセリフは、真実の一欠片を持っていたと、後で気がついた。
2
佐久間さんが来て半年ほど。
僕も家族もすっかり佐久間さんに馴染んでいたが、祖父の認知は徐々に進んでいた。
食事したことを忘れる。
ひどい時は両親の顔すら忘れる。
不思議なことに、僕の顔はだいたいいつも覚えていたが、佐久間さんにも「あんたは誰だ」と何度も言っていた。
そして、自分の思ったように話が進まないと怒鳴るようになった。
2日に1回は怒鳴り声が上がるようになり、僕は佐久間さんが嫌になって辞めてしまうと思っていたが、佐久間さんは辞めなかった。
怒鳴る祖父にも柔らかな態度を崩さず、愛想よく対応していた。
この頃の両親はひたすら佐久間さんには恐縮していた。
しかし、祖父が元気なのもこのあたりまでであった。
祖父は転倒して骨折し、寝たきりになってしまったのだ。佐久間さんが食事を準備するために離れていた時の出来事だった。
まともに歩けず、ベッドと車椅子の日々。
佐久間さんは文字通り、祖父の身の回りの世話をすべてするようになった。
今考えていたことを忘れたり、立ち上がることも相当難しくなっているのに、気に入らないとすぐ怒鳴る。そんな祖父にどう接していいかわからず、僕はこの頃から、祖父の部屋を避けるようになった。
しかし、今はもう少し祖父の話を聞けばよかったと後悔することも多い。
僕は、祖父のことをあまりにも知らなかった。
そして、避けることができたのも、佐久間さんが祖父の面倒を見てくれたからにほかならない。
3
ある時、佐久間さんが僕のところに来た。
「ハルさんが君を呼んでいる。悪いけど、ちょっと来てくれないか?」
ハルさんとは、祖父のことだ。祖父は貞治(サダハル)と言う名前で、佐久間さんはしばしばハルさんと呼んでいた。
そして、佐久間さんは両親に話す時は女性らしい大人の話し方をするのに、僕に対してはなんだか男の人のような話し方をする人だった。
ただ、僕はそういう佐久間さんの態度は嫌いではなかった。
久しぶりに祖父の部屋に入ると、寝たきりの人特有の、食事も排泄もこの部屋でしていることによる、色々と混在した匂いがした。
とはいえ、佐久間さんが空気の入れ替え等を適宜しているので、そこまで気になるほどでもない。
「護(まもる)か。」
祖父は、今日は調子が良さそうだった。
護とは僕のことだ。
「うん。じいちゃん。今日は元気そうだね。」
祖父はこちらを見た。目に力がある。
「まあ、な。いつもこうならいいんだが。」
「頭がはっきりしているうちにな、伝えておきたいことがあってな。色々言わなければならないことがあった気もするが、ほとんど忘れてしまった。」
途中で咳をしながら、祖父は続けた。あまり長く話をすることに体が、喉が慣れていないのだと思った。
「だから、浮かんできたことだけ話す。」
佐久間さんが黙ってお茶を入れた。
祖父はそれを飲みつつ続ける。
「あー、そうだ。……素直でいることだ。何かを偽ると一段落ちる。これは元々は婆さんから教えてもらった言葉だがな。誰にでも素直でいろとまではいわない。大事な人達と、自分自身には素直でいろ。ワシなりの解釈だが、偽ることも、見栄を張ることもエネルギーがいる。そして、それを読み取ることにもエネルギーがいる。回りの人間にも自分にもエネルギーの消費を強いることは、結果的に、できることを狭めてしまう。」
「・・・うん。」
祖父の言っていることは、僕にとってわかるような、わからないようなことだった。理解したような気になるが、誤解しているかもしれないとも思う。
ただ、これだけはわかった。いつもの認知が進んできた祖父とは全く違う。
「昔、調子がいい時は、こういうことばかり話していたんだがな。」
祖父はまたお茶に口をつける。喉を湿らせているのだろう。
「あとは、そうだな。護はワシの血を引いていて、頭が切れそうだ。しかし、まだ若い。納得できないと動きたくない、正しいことしかしたくない、ということもあるだろう。そういうときに、少しだけ我慢して体験してみることだ。体験は言葉では表現できない経験を得られる。相手のつたない言葉で納得できなくても、手を動かすことでわかるようになることも多い。若い時は特に経験を積むことを厭うな。・・・いかんな、これでは説教だ。」
祖父は窓の外を見た。
「親は大事にしろ。特に、お前の親はお前を愛してくれている。この世に二人しかいない親だ。」
最後にまた、僕の方を見た。
「そして、心の底からやりたいと思ったことは、やれ。心の底からやりたいことを我慢してやらなかったら、年を取ってからその「我慢」に逆襲される。なぜあのときやらなかったのか、とな。」
祖父は、その後はだんだん調子が悪くなってきたのか、とりとめもないことを話し始めた。
そして、癇癪を起こし始め、佐久間さんになだめられていた。
その日の話は終わりだった。
4
祖父との話は終わったが、その後、佐久間さんは、おかしな話をした。
祖父が眠った後、居間で佐久間さんが紅茶を入れてくれたのだ。
「なんだか、今日のじいちゃんは、様子が違う感じがしたんだけど。」
「ハルさんは昔、知恵者でね。今日の様子はその時期の感じだったね。」
佐久間さんはたまに、僕とは率直な話をしてくれるときがあった。
「知恵者?」
「まあ、頭のいい人。知識がたくさんあり、物事を解決する手段を示す人、とかかな?」
この際、聞きたかったことを聞いてみる。
「・・・。佐久間さんは、昔、じいちゃんと知り合いだったんですか。」
「昔ね。」
ポットを眺めながら佐久間さんが言った。
「昔って、こどもの頃とか?」
さらに突っ込んで聞こうとした僕だったが、佐久間さんの空気と声色が変った気がした。
紅茶を優雅に飲みながら、カップから一滴わざと紅茶をテーブルに溢し(その行為に意味はわからない)、こちらに流し目をした。
「私はね。実は人間じゃなくてね。悪魔なんだ。」
なんともいえない空気が流れた。
「そういう冗談はいいので。」
「まあ聞いてくれ。ハルさんはね。悪魔の私と知恵比べをしたのさ。昔話でよくあるだろ?妖怪や悪魔との取引・騙し合い。アレみたいなものだ。物語になっている分は、人間が書いた物語だ。当然人間が勝つが、実際は何百倍も悪魔が勝っている。希少な勝ちだから、物語になっているわけだ。」
話半分(いや、半分でも信じ過ぎだと思うが)で聞きながら、紅茶を飲む。
佐久間話しながらおかわりを注いでくれた。
水仕事もずさんはっとしているはずなのに、手もキレイだ。
「様々なやり取りをしたよ。ハルさんは賢く、私はほとんど勝てなかった。そこでね。知恵ではなく絆を試すことにした。トメさんが死ぬときにね、トメさんと賭けをしたんだ。あんたの夫の心を奪えるかどうか。奪えれば、魂をもらうと。」
トメさんとは、祖母の名だ。
祖母は僕が小学生低学年の時に亡くなった。
祖父が田舎から出てきて僕らと同居する前のことで、その頃は田舎に祖母と二人で住み、僕は両親に連れられて盆正月に田舎に行っていた時に会うだけだった。
死に目にも会っていない。
悪魔かどうかはさておき、その頃に、佐久間さんは祖父・祖母の両方と面識が会ったということだ。
「それで、ボケてきた今を狙って、ハルさんの心を私のものにしようとしているわけだ。いつも隣にいることでね。」
「いや、じいちゃん、ボケてますよ。それでいいんですか。」
「悪魔の価値観は、人間とは違う。悪魔にとって、人間は死んで終わりでもないしね。」
話は、それで終わりだった。
祖父の話は難しく、佐久間さんの話はトンデモで、からかわれたとしか思えなかった。
5
祖父は、それから半年ほどで亡くなった。
あれから祖父とまともに話をする機会はなく、そもそも祖父はまともに話をすることもできなくなった。
祖父は意思を示すことが稀になり、僕たちも祖父の意思を汲み取ることができなくなった。
佐久間さんだけが、ずっと隣で、相変わらず祖父の側で世話を続けていた。
しかし、それが祖父の容態を良くすることはなかった。
祖父はある朝、冷たくなっていた。
父も母も、通夜、葬式を通して、静かに祖父と別れをしていた。
佐久間さんも、両親からの願いもあり、家族として葬儀から火葬まで付き添った。
佐久間さんは、言葉少なく、悲しそうだった。
通夜・葬儀というのは中々の重労働だ。
特に参列者が多い葬儀の場合は香典や挨拶もある。
ただ悲しみに暮れるよりも、やることがある方がいいということなのだろう、とは、歳を取ってから思うようになったことだ。
そうして、火葬後、一週間ほど祖父の部屋の遺品整理などに一区切り着いた段階で、墓地に骨壺を納め、それで終わりだった。
佐久間さんも契約が終わり、何度もお礼を言う両親に対しても「お世話になりました」と頭を下げて去っていった。
(どう考えても、お世話になったのはこっち・・・。)
佐久間さんの悪魔がどうとかいう与太話は、すっかり頭から抜け落ちていた。
6
小さな子どもをからかっただけか、本当に悪魔だったのか、今となってはわからない。
あれから5年が経ち、僕は大学生になっていた。
学生生活は楽しい。レポートは多いし、我慢することも、不安も多いけど、何をしてもいい時間も多いからだ。
しかし、あの時祖父に言われた言葉は、僕の側にずっといた。
我慢した分だけ何かが溜まっていった気がした。
見えを張って偽った分だけ、上っ面の付き合いの知り合いは増えたが、僕という人間を理解してくれる深い友達は減った気がした。
判断をするとき、迷う時、祖父の言葉は一緒にいた。
そして、その言葉の意味も身にしみた。ただし、多くの場合は、やらかしたあとで、後悔とともに思い出した。
(まるで呪いだ。)
ある日、サークルの飲み会。二十歳になった僕は、飲み会に参加して、悪酔いした。
その飲み会の帰り道、酔っ払った僕は、佐久間さんに再開したのだ。
7
サークルの皆と別れ、ビルの間の道を千鳥足で歩いていると、懐かしい佐久間さんがいたのだ。
5年ぶりに見る彼女は、全く変わらないように見えた。
僕はあれから背が伸びたので、視点は逆転している。
「久しぶりだね。私のことを覚えている?」
その声を聞いて、それだけで酔いが覚めた気がした。
「佐久間さんだよね。お久しぶりです。」
「すっかり大人になったね。背が伸びた。」
いや、やはり酔いは回ったままだ。いつもより余計な口が回る。
「そりゃ、あれから5年も経ったので。佐久間さんは変わりないようで。さすがは悪魔、でしたっけ。」
「良く覚えているね。忘れているかと思った。」
「少し気になることもあったので。」
「気になること?」
「じいちゃんの魂は、結局佐久間さんが持ってっちゃったのか、どうか。」
佐久間さんは、少しふくれっ面をした。
「ハルさんは死ぬまでトメさん一筋で、トメさんもあいつをずっと思っていたよ。」
(そうか。じいちゃんは、魂を取られなかったか。)
満足そうな笑みを浮かべた僕を、佐久間さんは舌打ちした。
「まあいいよ。ハルさんと、もう一つ賭けをしていたのを思い出して、きみに会いに来たんだ。」
「?」
「孫の心を奪えるかどうか。」
「・・・?それは、どういうこと?」
「ハルさんは死ぬまで一途だったが、きみはどうかな?」
「・・・いやいや。前提が違いますよ。僕、彼女いないですし。」
僕は、自分で言うのも何だが、独り身だった。
(奪うって言っても、だれから?)
「賭けは成り立たないでしょ。僕と佐久間さんがくっついたら、誰が負けるんです?」
「いや、成り立つ。きみの心を奪えたら、きみが死んだ時、私はきみの魂をもらう。」
「なんだか分かるような、分からないような。そもそも、魂って、なんですか。」
「それをわかっていないから、賭けが成り立つところがある。その商品が100円か10000円か分かっていれば、1000円で買うかどうか、迷う人はいないでしょ。」
(そもそもなぜ、じいちゃんは僕を賭けの俎上に載せたのか。)
「まあ、まずは寂しそうなきみの身の回りの世話をするくらいだ。」
佐久間さんは、こうして僕の側にいることになった。
この展開が祖父の深慮遠謀によるものかどうかは、良くわからない。
なお、佐久間さんが部屋に入り浸るようになってから大学の寮からは早々に出ていくことになり、バイトしながらワンルームを借り、様々な騒動にも首をつっこむことになるが、それは別の話だ。