悪魔と魂について(テーマ ずっと隣で)
※まとまりが今ひとつの中途半端なファンタジー小説です。
1
僕が中学生の時に亡くなった祖父には、若くてきれいな介護士がついていた。
名を佐久間さんといい、長い黒髪、スラリとして背が高く、女性らしいメリハリのある体。顔は優しそうでお淑やかそうな風貌。
昔の僕が彼女に密かに憧れていたことも無理からぬことだと、今も思う。
しかし彼女は、風貌に反してキビキビ働いた。
黒髪は根本で縛り、地味なエプロン姿が多かった。
佐久間さんは、祖父につきっきりで食事の世話はもちろん、掃除も服の洗濯などもして、もうスーパー家政婦といった塩梅だった。
それは甲斐甲斐しく祖父の世話を焼いていた。
両親は「募集してみるものだ。いい人が来てくれた。」と喜んでいた。
佐久間さんが来るまで、うちはどうしたらいいか、難しい状態になりつつあったのだ。
両親は共働きで、祖母はすでに他界。
昼間の家は、認知の入った祖父しかいなかった。
祖父は杖をつけばかろうじて外を散歩することができるくらいの状態だったので、徘徊して行方不明になることもあり、その時は消防や警察が出て捜索された。
両親は家を施錠してから会社に行くようになった。
僕は鍵っ子で、家に帰ると鍵を開け、祖父にお昼は食べたか聞いたり、夕飯の用意をしたりしていた。
祖父は家に閉じ込められることで鬱々としていた時期もあった。
佐久間さんが来てからは、家の鍵は開いていたので、僕も鍵っ子から卒業した。
そして、僕が祖父の世話をする必要はなくなり、祖父の散歩も佐久間さんが付き添うようになった。
それどころか、僕ら家族全員の洗濯・食事の面倒まで見てくれた。
両親が二人とも帰ってきたら、佐久間さんは両親に今日の報告をして帰宅する。
そして、翌日、朝にまた来る。
決して出しゃばらず、気配りを欠かさず、掃除洗濯、料理もやってくれる。
土日は休みだが、両親がどうしても外せない仕事があるときなどは休み返上で来てくれたりもした。
一体彼女のプライベートはどうなっているのか。
あまりの仕事ぶり、熱心さに親父など『もしかして昔、親父の愛人とか、隠し子だったのでは』とか冗談半分に言い出す始末だった。
当時は『変なことを言い出す親だ』と思っていたこのセリフは、真実の一欠片を持っていたと、後で気がついた。
2
佐久間さんが来て半年ほど。
僕も家族もすっかり佐久間さんに馴染んでいたが、祖父の認知は徐々に進んでいた。
食事したことを忘れる。
ひどい時は両親の顔すら忘れる。
不思議なことに、僕の顔はだいたいいつも覚えていたが、佐久間さんにも「あんたは誰だ」と何度も言っていた。
そして、自分の思ったように話が進まないと怒鳴るようになった。
2日に1回は怒鳴り声が上がるようになり、僕は佐久間さんが嫌になって辞めてしまうと思っていたが、佐久間さんは辞めなかった。
怒鳴る祖父にも柔らかな態度を崩さず、愛想よく対応していた。
この頃の両親はひたすら佐久間さんには恐縮していた。
しかし、祖父が元気なのもこのあたりまでであった。
祖父は転倒して骨折し、寝たきりになってしまったのだ。佐久間さんが食事を準備するために離れていた時の出来事だった。
まともに歩けず、ベッドと車椅子の日々。
佐久間さんは文字通り、祖父の身の回りの世話をすべてするようになった。
今考えていたことを忘れたり、立ち上がることも相当難しくなっているのに、気に入らないとすぐ怒鳴る。そんな祖父にどう接していいかわからず、僕はこの頃から、祖父の部屋を避けるようになった。
しかし、今はもう少し祖父の話を聞けばよかったと後悔することも多い。
僕は、祖父のことをあまりにも知らなかった。
そして、避けることができたのも、佐久間さんが祖父の面倒を見てくれたからにほかならない。
3
ある時、佐久間さんが僕のところに来た。
「ハルさんが君を呼んでいる。悪いけど、ちょっと来てくれないか?」
ハルさんとは、祖父のことだ。祖父は貞治(サダハル)と言う名前で、佐久間さんはしばしばハルさんと呼んでいた。
そして、佐久間さんは両親に話す時は女性らしい大人の話し方をするのに、僕に対してはなんだか男の人のような話し方をする人だった。
ただ、僕はそういう佐久間さんの態度は嫌いではなかった。
久しぶりに祖父の部屋に入ると、寝たきりの人特有の、食事も排泄もこの部屋でしていることによる、色々と混在した匂いがした。
とはいえ、佐久間さんが空気の入れ替え等を適宜しているので、そこまで気になるほどでもない。
「護(まもる)か。」
祖父は、今日は調子が良さそうだった。
護とは僕のことだ。
「うん。じいちゃん。今日は元気そうだね。」
祖父はこちらを見た。目に力がある。
「まあ、な。いつもこうならいいんだが。」
「頭がはっきりしているうちにな、伝えておきたいことがあってな。色々言わなければならないことがあった気もするが、ほとんど忘れてしまった。」
途中で咳をしながら、祖父は続けた。あまり長く話をすることに体が、喉が慣れていないのだと思った。
「だから、浮かんできたことだけ話す。」
佐久間さんが黙ってお茶を入れた。
祖父はそれを飲みつつ続ける。
「あー、そうだ。……素直でいることだ。何かを偽ると一段落ちる。これは元々は婆さんから教えてもらった言葉だがな。誰にでも素直でいろとまではいわない。大事な人達と、自分自身には素直でいろ。ワシなりの解釈だが、偽ることも、見栄を張ることもエネルギーがいる。そして、それを読み取ることにもエネルギーがいる。回りの人間にも自分にもエネルギーの消費を強いることは、結果的に、できることを狭めてしまう。」
「・・・うん。」
祖父の言っていることは、僕にとってわかるような、わからないようなことだった。理解したような気になるが、誤解しているかもしれないとも思う。
ただ、これだけはわかった。いつもの認知が進んできた祖父とは全く違う。
「昔、調子がいい時は、こういうことばかり話していたんだがな。」
祖父はまたお茶に口をつける。喉を湿らせているのだろう。
「あとは、そうだな。護はワシの血を引いていて、頭が切れそうだ。しかし、まだ若い。納得できないと動きたくない、正しいことしかしたくない、ということもあるだろう。そういうときに、少しだけ我慢して体験してみることだ。体験は言葉では表現できない経験を得られる。相手のつたない言葉で納得できなくても、手を動かすことでわかるようになることも多い。若い時は特に経験を積むことを厭うな。・・・いかんな、これでは説教だ。」
祖父は窓の外を見た。
「親は大事にしろ。特に、お前の親はお前を愛してくれている。この世に二人しかいない親だ。」
最後にまた、僕の方を見た。
「そして、心の底からやりたいと思ったことは、やれ。心の底からやりたいことを我慢してやらなかったら、年を取ってからその「我慢」に逆襲される。なぜあのときやらなかったのか、とな。」
祖父は、その後はだんだん調子が悪くなってきたのか、とりとめもないことを話し始めた。
そして、癇癪を起こし始め、佐久間さんになだめられていた。
その日の話は終わりだった。
4
祖父との話は終わったが、その後、佐久間さんは、おかしな話をした。
祖父が眠った後、居間で佐久間さんが紅茶を入れてくれたのだ。
「なんだか、今日のじいちゃんは、様子が違う感じがしたんだけど。」
「ハルさんは昔、知恵者でね。今日の様子はその時期の感じだったね。」
佐久間さんはたまに、僕とは率直な話をしてくれるときがあった。
「知恵者?」
「まあ、頭のいい人。知識がたくさんあり、物事を解決する手段を示す人、とかかな?」
この際、聞きたかったことを聞いてみる。
「・・・。佐久間さんは、昔、じいちゃんと知り合いだったんですか。」
「昔ね。」
ポットを眺めながら佐久間さんが言った。
「昔って、こどもの頃とか?」
さらに突っ込んで聞こうとした僕だったが、佐久間さんの空気と声色が変った気がした。
紅茶を優雅に飲みながら、カップから一滴わざと紅茶をテーブルに溢し(その行為に意味はわからない)、こちらに流し目をした。
「私はね。実は人間じゃなくてね。悪魔なんだ。」
なんともいえない空気が流れた。
「そういう冗談はいいので。」
「まあ聞いてくれ。ハルさんはね。悪魔の私と知恵比べをしたのさ。昔話でよくあるだろ?妖怪や悪魔との取引・騙し合い。アレみたいなものだ。物語になっている分は、人間が書いた物語だ。当然人間が勝つが、実際は何百倍も悪魔が勝っている。希少な勝ちだから、物語になっているわけだ。」
話半分(いや、半分でも信じ過ぎだと思うが)で聞きながら、紅茶を飲む。
佐久間話しながらおかわりを注いでくれた。
水仕事もずさんはっとしているはずなのに、手もキレイだ。
「様々なやり取りをしたよ。ハルさんは賢く、私はほとんど勝てなかった。そこでね。知恵ではなく絆を試すことにした。トメさんが死ぬときにね、トメさんと賭けをしたんだ。あんたの夫の心を奪えるかどうか。奪えれば、魂をもらうと。」
トメさんとは、祖母の名だ。
祖母は僕が小学生低学年の時に亡くなった。
祖父が田舎から出てきて僕らと同居する前のことで、その頃は田舎に祖母と二人で住み、僕は両親に連れられて盆正月に田舎に行っていた時に会うだけだった。
死に目にも会っていない。
悪魔かどうかはさておき、その頃に、佐久間さんは祖父・祖母の両方と面識が会ったということだ。
「それで、ボケてきた今を狙って、ハルさんの心を私のものにしようとしているわけだ。いつも隣にいることでね。」
「いや、じいちゃん、ボケてますよ。それでいいんですか。」
「悪魔の価値観は、人間とは違う。悪魔にとって、人間は死んで終わりでもないしね。」
話は、それで終わりだった。
祖父の話は難しく、佐久間さんの話はトンデモで、からかわれたとしか思えなかった。
5
祖父は、それから半年ほどで亡くなった。
あれから祖父とまともに話をする機会はなく、そもそも祖父はまともに話をすることもできなくなった。
祖父は意思を示すことが稀になり、僕たちも祖父の意思を汲み取ることができなくなった。
佐久間さんだけが、ずっと隣で、相変わらず祖父の側で世話を続けていた。
しかし、それが祖父の容態を良くすることはなかった。
祖父はある朝、冷たくなっていた。
父も母も、通夜、葬式を通して、静かに祖父と別れをしていた。
佐久間さんも、両親からの願いもあり、家族として葬儀から火葬まで付き添った。
佐久間さんは、言葉少なく、悲しそうだった。
通夜・葬儀というのは中々の重労働だ。
特に参列者が多い葬儀の場合は香典や挨拶もある。
ただ悲しみに暮れるよりも、やることがある方がいいということなのだろう、とは、歳を取ってから思うようになったことだ。
そうして、火葬後、一週間ほど祖父の部屋の遺品整理などに一区切り着いた段階で、墓地に骨壺を納め、それで終わりだった。
佐久間さんも契約が終わり、何度もお礼を言う両親に対しても「お世話になりました」と頭を下げて去っていった。
(どう考えても、お世話になったのはこっち・・・。)
佐久間さんの悪魔がどうとかいう与太話は、すっかり頭から抜け落ちていた。
6
小さな子どもをからかっただけか、本当に悪魔だったのか、今となってはわからない。
あれから5年が経ち、僕は大学生になっていた。
学生生活は楽しい。レポートは多いし、我慢することも、不安も多いけど、何をしてもいい時間も多いからだ。
しかし、あの時祖父に言われた言葉は、僕の側にずっといた。
我慢した分だけ何かが溜まっていった気がした。
見えを張って偽った分だけ、上っ面の付き合いの知り合いは増えたが、僕という人間を理解してくれる深い友達は減った気がした。
判断をするとき、迷う時、祖父の言葉は一緒にいた。
そして、その言葉の意味も身にしみた。ただし、多くの場合は、やらかしたあとで、後悔とともに思い出した。
(まるで呪いだ。)
ある日、サークルの飲み会。二十歳になった僕は、飲み会に参加して、悪酔いした。
その飲み会の帰り道、酔っ払った僕は、佐久間さんに再開したのだ。
7
サークルの皆と別れ、ビルの間の道を千鳥足で歩いていると、懐かしい佐久間さんがいたのだ。
5年ぶりに見る彼女は、全く変わらないように見えた。
僕はあれから背が伸びたので、視点は逆転している。
「久しぶりだね。私のことを覚えている?」
その声を聞いて、それだけで酔いが覚めた気がした。
「佐久間さんだよね。お久しぶりです。」
「すっかり大人になったね。背が伸びた。」
いや、やはり酔いは回ったままだ。いつもより余計な口が回る。
「そりゃ、あれから5年も経ったので。佐久間さんは変わりないようで。さすがは悪魔、でしたっけ。」
「良く覚えているね。忘れているかと思った。」
「少し気になることもあったので。」
「気になること?」
「じいちゃんの魂は、結局佐久間さんが持ってっちゃったのか、どうか。」
佐久間さんは、少しふくれっ面をした。
「ハルさんは死ぬまでトメさん一筋で、トメさんもあいつをずっと思っていたよ。」
(そうか。じいちゃんは、魂を取られなかったか。)
満足そうな笑みを浮かべた僕を、佐久間さんは舌打ちした。
「まあいいよ。ハルさんと、もう一つ賭けをしていたのを思い出して、きみに会いに来たんだ。」
「?」
「孫の心を奪えるかどうか。」
「・・・?それは、どういうこと?」
「ハルさんは死ぬまで一途だったが、きみはどうかな?」
「・・・いやいや。前提が違いますよ。僕、彼女いないですし。」
僕は、自分で言うのも何だが、独り身だった。
(奪うって言っても、だれから?)
「賭けは成り立たないでしょ。僕と佐久間さんがくっついたら、誰が負けるんです?」
「いや、成り立つ。きみの心を奪えたら、きみが死んだ時、私はきみの魂をもらう。」
「なんだか分かるような、分からないような。そもそも、魂って、なんですか。」
「それをわかっていないから、賭けが成り立つところがある。その商品が100円か10000円か分かっていれば、1000円で買うかどうか、迷う人はいないでしょ。」
(そもそもなぜ、じいちゃんは僕を賭けの俎上に載せたのか。)
「まあ、まずは寂しそうなきみの身の回りの世話をするくらいだ。」
佐久間さんは、こうして僕の側にいることになった。
この展開が祖父の深慮遠謀によるものかどうかは、良くわからない。
なお、佐久間さんが部屋に入り浸るようになってから大学の寮からは早々に出ていくことになり、バイトしながらワンルームを借り、様々な騒動にも首をつっこむことになるが、それは別の話だ。
3/13/2024, 9:32:18 PM