残業後対話篇 今の私なら(テーマ 大好きな君に)
これは、西暦2020年を超えた日本の、ある会社での、一人の会社員の、残業が終わってから帰宅するまでの心の中の話。ひどく狭い範囲の話。
*
『もう君は恋とかしないのかな?』
私の頭の中の想像上の友人、イマジナリーフレンドは、たまに、私がとても言えない恥ずかしいことを言い出すことがある。
(私の想像上の存在なのに。)
「もう40過ぎだ。そんな歳じゃない。卒業だよ、卒業。」
『何だろーね。卒業って。君、恋愛履修してないじゃん。むしろ退学じゃない?』
( 反論はしない。)
『あの頃の君はすごかった。脳内麻薬がドバドバ出ていて、むちゃくちゃ気持ちよくなっていたと思うよ。』
そう。中学校で初恋なるものを体験したとき、私はあまりにも強い恋の痛みに、私の頭はどうかしてしまっていた。
まあ、現実的には「 ろくに話もできなかった」というだけだけど。
その頃、イマジナリーフレンドは私の頭には生まれておらず、影も形もいなかったはずだが、私の想像上の存在である以上、私の記憶には当然アクセスできる。
人に言えないような経験や思いも全てオープンというわけだ。
(脳内麻薬って……。すごい表現するね。あと、それだと、別に彼女自身は必要なくて、脳内麻薬が必要だったって言っているみたい。)
『そう言っている。だから、君がもし彼女と付き合えたとしても、脳内麻薬が出なくなったら、自然消滅していたのでは?』
今日のイマジナリーフレンドはひどい。
全然フレンドリーじゃない。
(……。付き合っているうちに、愛に変わるとか。)
『家族になるって奴だね。そうかもしれない。そうすると、恋心はそこに至るためのスタートダッシュってわけだ。』
そういう解釈も、まあ、あるかもしれない。
『そうすると、恋心は退学しても、何らかの心のエンジンがあれば、家族は作れる、ということかな。』
(たぶん。)
*
今日のイマジナリーフレンドは、何がいいたいのか。
『あれだよ。それが君に分かっていないということは、君自身にも私自身にもわかっていない。話題の方向性がないってことだ。』
( ……。じゃあ、この話題はこれでおしまい、ということで。)
『いや、ちょっと待ち給え。』
( 何か?)
『偶然の産物から何かが生まれることもある。もう少しだけ続けよう。』
今日のイマジナリーフレンドはしつこい。
『恋に代わるエンジンとは、即ち『利』があるのではないか。』
( 利?)
『恋心は退学ということだから、容姿以外で……例えば、料理がうまい。掃除が得意。両親の面倒を見てくれる。』
退学とか言わないでほしい。
イマジナリーフレンドの言う、それらは確かに利ではある。
(いや、こちらに利があっても、向こうがこちらと一緒になる理由がないじゃん。)
『それはほら、給料とか。』
(つまりATM)
『いや、キチンと対価を提供するならATMではないでしょ。利害の一致。それはそれでいいと思うけど。昔多かったお見合いなんて、大体そういうギブアンドテイクでしょ。』
話はそこで終わり。
そのはずであった。
*
翌日の昼休憩。
『あ、脳内麻薬。』
会社近くの道で、件の初恋の人と、バッタリと顔を合わせてしまった。
「やあ、久しぶり。」
(しかも覚えられてるし。)
ほとんど話したことがない私を、彼女はきっちり覚えていた。
さらに言うと、彼女の足元には小さな女の子がつかまっていた。
昔の彼女の面影がある。
「久しぶり。元気?」
何か、話してみる。
(若い頃の私では口に出せない、軽口。)
『いや、今のは挨拶だよ。軽口とかじゃないよ。硬すぎ。』
「ボチボチね。この辺に勤めてるの?」
「ああ。あのビルなんだ。」
世間話はほどほどに捗った。
*
『楽しかった?』
(正直に言って、すごい楽しかった。)
仕事に疲れていたはずなのに、いや、むしろ仕事に疲れていたからか、実に久しぶりに胸が暖かくなり、表現しがたい恥ずかしさともどかしさがある。
『君の恋心は退学じゃなくて休学だったね。』
表に出ないイマジナリーフレンドは気楽なものだ。
(いや、彼女の子ども見たろ。結婚してるのも知ってるし。)
『いいじゃん。家庭を作るわけじゃないけど、君の幸せについて、「利」以外の答えだ。』
(不倫が?)
『いや、不倫じゃないよ。単にたまにあって立ち話するだけさ。何の後ろめたいこともない。』
(それだけでいいわけ?)
『いいんじゃない?脳内麻薬は出てたし。』
(いやでも、彼女に迷惑が)
『向こうから話しかけてきたろ。退屈な日常の中で、たまに昔の知り合いと話をするのも、1つの楽しみなのでは?』
それでいいのだろうか。
*
人間関係は1か100かではない。
80でいい。それもだめなら70で、それも無理なら60でもいいのだ。
人と人との関係だ。
夫婦だって、親子だって、100点満点とはいかない。
それでも、100点が取れなくても生活は、人生は続く。
だから、どうせ一緒にいるなら好きな人といたい。
100点が取れないからという理由で好きな人を諦めたのに、好きでもない人と60点の家庭を築く?
実に馬鹿な話じゃないか。
たったそれだけのことを悟るのに、長い年月が必要だった。
成長して、挫折して、諦めて。
そして悟る。
相手と自分の気持ちの中間点を見つけて、そこに気持ちの仮設基地を置く。
慌ててはだめだ。
少しずつ気持ちを確認して、少しずつ相手にも気持ちを開示して。
相手が受け入れてくれるようなら、受け入れてくれるところまで、距離を近づけていく。
どこかで「これ以上は嫌」と言われるのであれば、そこで終わり。
それだけでも、話すことすら稀だった昔とは、大きく違うはずだから。
『まあ、この年になると、そういう着地点しかないよね。』
お父さんのひなまつり(テーマ ひなまつり)
1
「今日、3月3日なんだけど。」
久しぶりの休日で、昼間で寝るつもりだった俺は、妻のやけに冷たい声に起こされた。
(3月3日。・・・何の日だったか。そうだ、ひなまつりだ。)
雛祭りの人形などは用意していない。
そう言えば、少し前から妻がなにか相談しようとしてきたが、仕事が佳境でロクに睡眠時間も取れていなかった俺は、まともに聞くことができていなかった。
土曜日の昼で仕事が一段落し、帰ってから寝続け、居間に至る。
「真子は?」
「朝ご飯食べて、テレビ見てる。」
娘の真子はすでに起きているようだ。
(日曜日の朝のアニメは偉大だ。親に貴重な時間をくれる。)
「ひな祭り、なしでよくないか?夕飯やおやつで少しそれっぽいものを出すくらいで。」
適当に答えると、妻の気分が一段悪くなったのが目に見えた。
「仕事が忙しいのはわかるけど、親としてどうなの?それ。」
「・・・でも、当日に雛人形とか買えないだろ。」
「スルーはしない。真子に嫌な思い出を作っちゃだめ。こういうの、悪いことは一生覚えてるわよ。」
こうして、仕事で神経をすり減らす日々の間のたまの休日も、朝から難問に取り組むことになった。
2
俺の実家は男兄弟しかいないので、雛祭りの人形はない。
妻の実家にはあったようだが、立派すぎて家には飾れない。
「とは言え、買うのもなぁ。」
物が何もかも高くなっている昨今だ。1年に1回、飾るだけのものに高い金を払うのは痛い出費だ。
「こういうの、一生物だと思うんだけど。」
「でも、適当に安いのを買うのも中途半端だし、高いものを買うくらいなら、真子の進学のための費用に充てておいたほうがいいんじゃないか。」
金を貯めることも難しくなっているが、学費は意地でもためていかないと、真子が高校・大学に行くときに辛い選択をさせることになる。
それは避けたかった。
「友達に自慢できるとまではいかなくても、何もしなかったっていうのはないと思うわよ。」
しばらく悩んだ末に、覚悟を決める。
金の覚悟ではない。
「よし。作ろう。」
手探りで休日を潰す覚悟だ。
3
「おかあさん。次、どうするの?」
「ちょっとまってね。次はここを折る感じね。この画面よ。ねえ、ひな壇を作るにはどうしたらいいかな。本を重ねて、シーツかける?」
「それで作ったら本が読めなくなる。空の菓子箱がいくつかあっただろうから、切り貼りして作ってみよう」
全部手作りでやろう、ということになると、その後はおしゃべりしながら細々作業をした。
スマホで折り紙を調べて、雛人形を作ってみる。
妻の人形はできが良く、次に娘。最後に俺の出来損ない。
大人しく菓子箱の厚紙を切り刻み、ひな壇を作ることに専念した。
しばらく紙と格闘し、折り紙のひな壇が出来上がった。
「やった」
娘は、最初は立派な人形ではないことを気にしていたが、折り紙で一緒に作り始めたときから切り替えたのか楽しそうにし始め、出来上がったらスマホで撮影をはじめた。
俺のスマホで、雛祭りのBGMを流してみる。
少し、様になった気がした。
「ね。やってよかったでしょ?」
妻の声が気持ち、得意そうだ。
「まあ、真子が喜んだならよかった。」
「あなた、最近帰ってきて寝るだけだし。こういう時に一緒になにかしておかないと、そのうち、口を利いてもらえなくなるわよ。」
(なんて恐ろしいことを。)
次のイベントはホワイトデーか。
こちらは手作りは難しいかもしれない。
(大人しく何か買おう。)
4
そも、今の形のひな祭りは、江戸時代からあったらしい。
それ以前の原型となった行事を含めるなら更に遡る。
厄災避けの「守り雛」として、本人の代わりに厄を受けてもらったり、厄を払ってもらうための儀式
子どもの死亡率が今より遥かに高く、子どもが健やかに成長するために「祈る」ことしかできない時代。
人間の「科学知識」という力が今より遥かに少なく、その分「運命」やら「神」やらが幅を効かせていた時代の行事だ。
今は、それに頼らなくても日本では多くの子どもが健やかに成長できる環境がある。
だから、忙しいからやらなくても、多分問題ない。
(しかし)
行事がないと、日々の暮らしに精一杯の日々。
毎日、同じことを繰り返す日々だ。
忙しいからと言って、そのイベントたちを全部すっ飛ばしていくと、心を亡くして毎日毎日働くだけの日々が延々と続くだけになる。
そう。ボス戦なし、イベントなしのRPGのようなものなのだ。
人生には「ハレの日」というものが必要なのであろう。
昼間、菓子箱の厚紙と折り紙で作ったひな壇を見る。できの良いものも、悪いものもある。世界に一つだけの、不揃いのひな壇。
(娘と一緒に折り紙をする休日というのも、悪くなかった。)
そう考えると、今日の日は、良い思い出と言ってよかった。
(面倒だからと、辞めてしまっては自分の心までなくなる。忙しいからと、家庭まで効率化・省力化。・・・おかしくなっていたんだろう。)
明日の仕事がより億劫になったが、真子の寝顔を見て、気合を入れ直した。
そして、明日のために、さっさと寝た。
また長い仕事との格闘時間が始まるのだ。
希望は人の数だけある(テーマ たった一つの希望)
1
ある戦争に負けそうな王国が、適当な若者を選んで言った。
「君だけが希望だ。たった一つの希望だ。勇者として国のために敵国の王を倒してくれ。」
僅かな支度金とともに、敵国に送り出す。
若者は何人かの敵兵を殺したが、あっさり敵国に殺された。
2
王はしばらくして別の若者を選び、また言った。
「先日の勇者は死んでしまった。君だけが残された希望だ。」
また、僅かな支度金とともに、敵国に送り出す。
若者は何人かの敵兵を殺したが、やはり、あっさり敵国に殺された。
何人もの若者を選んで敵国に送ったが、そのうち若者は選んで国を出る前にいなくなるようになった。
どうも、勇者を送り込まれることを嫌った敵国がスパイを潜入させ、選ばれて王城から送り出された直後を狙って暗殺するようになったらしい。
3
国から無謀な命令を受けた若者たちのたった一つの希望。
それは、逃げること。
暗殺の機会に敵国に降伏し、そのまま亡命するようになった。
死にたくない若者たちは、国を捨てる以外にできることがなくなってしまったのだ。
やがて、捨て駒(勇者)にされるのが嫌なのか、王に呼び出された若者は病気になったり、行方をくらますことが多くなった。
4
王は宰相に言った。
「我が国は一体どうしたらいいのか。」
宰相は王に答えた。
「彼らは時間稼ぎです。彼らが稼いでくれた貴重な時間で、我が国は時間を稼ぐことができ、敵国は間諜を送り込んでまで『勇者』を警戒するようになりました。ダ大丈夫。計画通りです。」
王は安心した。
「さすがだ。お主がいてくれることだけが、ワシの唯一の希望だ。」
5
敵国の侵攻が迫ったある日、王は宰相に謀反を起こされ、捉えられてしまった。
「なぜだ。ワシはお前に全幅の信頼をおいて、地位も名誉も金も、可能な限りのものを与えたというのに。」
宰相は答えた。
「この国はもう終わりです。私にとって、王の首を手土産に降伏することが、たった一つの希望なのです。」
我慢(テーマ 欲望)
1
欲とはなにか。
生きていくためには必要なものなのか。それとも人を悪の道に誘う悪いものなのか。
中学生の頃、告白した相手の女子生徒の顔は、一生忘れないだろう。
信じたくない、認めたくない物を見る目。
当然のように断られる。
しかし、それだけでは済まず、ショックを受けた女子生徒は泣き出してしまった。
それは問題になってしまったらしく、女子生徒の家へ、両親は頭を下げに行ったらしい。
なお、本人には来てほしくなかったらしい。
「人が嫌がることはしてはいけない。」
戻ってきた両親から、私は滾々と諭された。
わかっていましたとも。
あの子の表情を見た時に、十分にわかりましたとも。
しかし、一方で思うところもあった。
人を好きになり、一緒になりたいと考えることは、欲なのか。
ならば両親はどうやって一緒になり、私を生んだのだ。
人を好きになることは自分で始めることではない。心が動いてしまうのだ。それは確かに欲と言えるかもしれない。
生き物を殺したくなくても、お腹はすくのだ。食欲は命を奪っている。
人と一緒になりたいという気持ちも、犠牲を生むということでは欲なのだろう。
しかも、人から嫌われることで、その欲は満たされることは無くなる。
2
高校の時、日曜日に遊びに行きたいと思ってしまう。
しかし、自分が遊びに行くと、家で年の離れた小さな弟が一人になってしまう。
我慢しなければ。
人の輪に入りたいと思ってしまう。
しかし、嫌われて、輪に入れない以上、その欲は叶わない。
一人で生きていけるように強い心を持たなければ。
他人に対して欲を持つことはよくないことだ。
自分が欲望を叶えると、それがそのまま相手の不幸になる。
相手を嫌な気分にさせてしまう。
なるべく自分の努力で手に入る欲だけを持つようにしよう。
他人の気分次第で叶えられないことに欲を持つと、辛い気分になるだけだ。
3
そして、そのまま年を取り、仕事はできるようになったけれど。
誰かと一緒になることはない。
だって、あんなに嫌な顔をされて、仲間の輪にも入れてもらえない私。
そんな私と一緒になるなんて、気の毒が過ぎる。
たまの休日は、部屋でゆっくりしていけば、誰にも迷惑をかけることもない。
気楽な過ごし方だ。
誰かに好かれ、誰かと一緒になれるなんて、とっくの昔に諦めている。
4
さらに年を取り、30代も半ばを過ぎると、『誰かと一緒にいたい』という欲も減ってくる。
ようやくこの「欲」から開放される。
実に清々しい気分で日々を過ごすようになった私を見て、なぜか年老いた父と母は悲しそうな顔をした。
なぜ、泣くのですか。
ああ、孫の顔を見たい、という、あなた方の欲が叶わないからですね。
申し訳ありません。
その欲を叶えようとすると、私の子を産むために一人の女性が犠牲になります。
そんな残酷なことは私にはできません。
叶わない欲は、持たないほうがよいですよ。
ええ。
結婚や子育ては、人から好かれる、一緒になって喜ばれる人だけが叶えられる欲望なのです。
嫌われる人には過ぎた欲望というものです。
ねえ、そうでしょう。
残り僅かなひととき(テーマ 遠くの街へ)
小さな部屋の中で、椅子に座ってタバコをふかす。
他に誰もいない部屋だ。
(どこか遠くへ行きたい。)
誰も私のことを知らない街へ。
大きな失敗をした私のことを、誰も知らず、誰も責めないだろうから。
そこで私は、公園のベンチに腰掛けて缶コーヒーを飲みながら、街行く人をのんびり眺めるのだ。
遠くの街では、私が知らないこと、知らない場所だらけだ。
私はゆったりと街並みを眺めながら歩き、珍しい店などあれば冷やかして歩くだろう。
小さくとも落ち着ける住居を手に入れ、気分によっては家から出なくてもいいし、出てもいい。
部屋に騒がしい音が近づいてくる。
「もう逃げられないぞ。」
そう言って突入してきた警官隊に取り押さえられ、私のささやかな想像は終わった。
これからの私は、留置所、裁判所、刑務所のフルコースだ。
のんびりはできないだろう。
街歩きもできないだろう。
そう。
どこか遠くの街、なんて言い出すのは、追い詰められた者ばかり。
遠く街になんて、行けない者ばかり。
しかし、一方で、これでいいと思いもするのだ。
ささやかな幸せについても、得るべき者と得るべきでない者がいる。
(これでもう逃げなくて済む。)
少しだけ安心し、大人しくパトカーに乗った。