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2/25/2024, 2:45:59 PM

止まない雨はないと言うけれど(テーマ 物憂げな空)


 人生がうまく行かない。

「 いつか、いいことあるよ。」

 そう言っていた人は、とっとと会社を辞めていった。

( いつかって、いつさ。)

 曇り空は、いつまでも晴れない。



 我慢を、続けてきた。

 遊びたいのを我慢して勉強。

 友達と旅行に行くのをキャンセルして、幼い弟の面倒を見た。

 社会人になってからは、思い切り休みたいのを我慢して、休日出勤。



 30になる頃から、両親から結婚について催促され始める。

( いや、結婚なんてしたら、それこそ死ぬまで我慢しないといけないじゃないか。)

 特に好きでもない人と家庭を築き、その家庭を守るためにまた身を粉にして働く。

 我慢我慢我慢。

 人生は我慢でできている。


 一方で、人に我慢させて自分が好きなようにする人もいる。

 一度しかない人生だから、と、彼らは言う。

( 我慢させられている我々も、一度しかない人生なんだけど。)

 彼らに、逆にこちらに付き合って我慢するように言うと、ひどく驚いた、鳩が豆鉄砲食らったような、あるいは実に嫌な顔をする。

 彼らは、自分が我慢することは、許容出来ないのだ。



 ただ、そんな私達が、子どもや後輩や部下を持ったとして、我慢以外を教えられる気がしない。

 我慢の再生産だ。

 我慢して苦しみながら、この物憂げな空を見上げる人種を増やしてしまうのである。

(結婚せず、子どももいないことの、唯一の救いがこれだ。我慢の再生産を止められる。)


 いつか、晴れた空を見ることがあれば、結婚しなかったことを後悔するだろうか。

(余裕がない今は、空の色すらまともに見れていない。)


2/24/2024, 11:08:21 AM

Iをください(テーマ Love you)

1

(俺って何。)

 三連休二日目。
 休日出勤も二日目で、20時も過ぎた会社で疑問に思う。

 明日は会社には行かない。
 両親が外出するため、その間、90過ぎの祖母の面倒を見なくてはならないからだ。

 三連休だが、どこにも行けない。
 職場は人が足らず、あちこちから人が抜かれて崩壊しつつある。

 名刺には3部署分の名前が書いてある。
 兼職させられて、3部署から仕事が来る。

 これが日常だなんて笑ってしまう。

 休みの直前には横の職員が異動になった。
(また人数が減るのか。)

2

 随分前から、頭の中に変なやつがいる。

 こんなところ辞めてしまえと囁いたり、あるいは体を気遣ったり。
 自分自身の声なんだろう。
 イマジナリーフレンドと俺は勝手に呼んでいた。

 元々見た目などない疑似人格だ。
 最近は人格が変わったのか、増えたのか、未来の娘を名乗るようになった。
( お父さんが結婚してくれないと、私が生まれないじゃない。)
 と、のたまう。

( 諦めてくれ。)
 もう40過ぎなんだ。
 この年で、ブラック企業勤めで働き詰め。たまの休みは介護だ。
 両親の休みはその時だけ。
 それ以外の日はずっと祖母の面倒を見ているのだから、文句も言えない。

 付き合っている人はいない。
 今から付き合う人を探すなら、もうそれは祖母、両親と続く介護要員を探すようなものだ。

 どう見ても詰んでいた。

( Love me)

 いいとも。
 そのままの君を心の中で愛するだけなら、愛しましょう。

 誰かと結婚して君を生むのは、無理目だろうけどさ。

3

(Love you)

 ん?
 どういうこと?

(お父さん、誰にも愛されていないみたいだから。せめて私くらいは、とか。)

 とは言え、君は私自身のイマジナリー人格だしなぁ。

 いや、自身を愛せない人間はだめだ、とも言う。

 そういう意味ではありなのか。

(しかし、I love youじゃないのか。 )

( Iがないから。今のお父さん。)


 ひどいダジャレだ。

 自分を愛し、自分を持つ。

 まあ、大事なことだ。

 子どもがいたら、きっとそういうことも伝えただろう。

 結婚しないまま、年を取ってしまったけれど。


 日々の仕事でいつの間にか、自分自身すら見失って。
(Iがないのか。)

 そんな状態で誰かを愛するなんて。

( Love youは、無謀だ。)

 残業は、終わるまでもう少しかかりそうだった。

2/23/2024, 9:55:25 AM


ある文官の処刑(テーマ 太陽のような)



 ある中世ヨーロッパ「風」の世界の話。
 一つの王国があった。
 王は国を運営するため、貴族を使う。
 貴族も身分の高低から影響力の有無まで様々であったが、それぞれの立場から貴族たちは王と一緒になって国を運営していた。

 民主主義ではない国だ。
 貴族は権益を守るために民に税を課し、平民は当然のように搾取された。
 そういう国の話だ。

 国の組織の上層部にかろうじて足を引っ掛けたくらいの職に、一人の貴族の青年がいた。
 彼は王の意志に従って国の決まりを作ったり、決まりに従って貴族を動かしたりする、今の日本で言う官僚のような仕事をしていた。

 彼は、それまでは主に上司の指示に従って地方の小貴族や平民の商家などに通知を出したり税の取り締まりや争いの執り成しなどをするための仕事をしていた。

 彼は、自分のその仕事を『言われたことをやるだけの小間使い』だと思っていた。
 そのため、昇進し、彼自身が裁量権を持って自由に仕組みや決まりを作る立場になった時、彼は喜んだ。
 もちろん、彼は王様ではないため、できる範囲に限りはある。

 しかし、彼は『小間使い』をしている間にしてみたいことが溜まっており、また、『自分だったらこうするのに』と思っていることもたくさんあり、その中には、いくつかの仕組みを変更することで多くの人が利益を得て、また、国の収益も増すという理想的な案もあった。



 彼は早速、貴族たちへの根回しを始めた。
 平民の商家は金を持っている。貴族たちは権力や影響力を持っている。
 彼は平民の商家に『いい話』として、仕組みの変更にって得られる商家の利益を説いた。

 商家の利益自体は大きくなかったが、案はうまくいくように思ったこと、何より、貴族が商家の利益のことも考えて動いてくれたことに心を動かされた商家は、ある程度の『協力金』を彼に払った。

 彼は、その協力金を元に影響力のある貴族に会いに行き、付け届けを行い、仕組みの変更によって得られる貴族の利益を説いた。
 貴族は、付け届けと、うまく行った場合の利益についてきちんと考えていること、そして何より提案の順序を間違えず、礼を失していないことに満足し、彼がその案を上司に出した時に賛成することを案に仄めかした。

 彼はそれを繰り返し、渋る貴族がいたら商家に付け届けを増やしたり、その貴族の上の人間を説得したり、また、仕組みが回り出したときの利益供与の輪に組み込んで『自分ごと』にしたりと、労を惜しまず立ち回り、最終的に案を通すときには、反対するものが誰もいない状態まで持っていった。

 そして、彼の新しい仕組みはめでたく通り、王国は複数の立場の人間にとって利益があり、損をする人間は特にいないという、改善が行われた。

 そのそつない動きは周囲の貴族にも、そして、国の責任者である王の目にも留まった。

 彼は、王から呼ばれ、これからもその活動に期待すると、直々にお褒めの言葉を賜る栄誉を得たのだ。



 彼は王から認められたことを非常に喜んだ。
 今代の王は、多くの場合公正で、多くの貴族の支持も得ており、名君であると評価を得ていたし、彼自身も王を尊敬していたからだ。

 それは、彼の動きや思想まで認められたものだと、彼は思った。

 彼は次の動きを始めた。
 しかし、『小間使い』を脱した彼が次に目指すのは、王に褒められた『誰もが特をする状態に持っていく』ことを繰り返すのではなく、彼自身が、付け届けをした高位の影響力のある貴族の立場になることだった。

 彼は、施策を進めるために影響力をつけていたのに、段々と影響力を増すための施策や利益供与のための事業を行うようになった。

 それは、彼にとっては言い分のあることだった。利益を配分された貴族たちも、最初はありがたがっていた利益供与に慣れていき「協力するためには何かを差し出すのが「当たり前」と思うようになり、次は「より多くの利益を渡さないと協力しない」と脅してきた。
 自分の影響力を増さないと、大きな事はできないのだ。

 彼は、腹案をいくつか同じように根回したが、『誰もが特をする理想的な案』というのは早々あるものではない。

 彼は付け届けのための資金を得るために商家に主に利益を供与し、あまり味方のいない貴族や、一部の平民に損をさせる仕組みを作り始めた。
 損をする側の人間はもちろん反対するが、影響力がある貴族たちには利益を供与する形にしたため、反対意見は押しつぶされた。

 彼の部下で、彼の言う『小間使い』をしている年若い貴族の少年は、彼に言った。
「この案では、声の小さい者たちが損をするだけではなく、その者たちが協力しなくなった時、長期的には王国に不利益が出ませんか?」

 彼は、部下に言った。
「大きなことをやるためには、大きな影響力が必要だ。大きな影響力を得るためにはとにかく実績を積むことで、実績とはつまり、どれだけ多くの貴族や商家に利益を回したかということだ。ある程度はこういうことも仕方がない。」

「しかし、今回損をする者たちは、黙るだけで終わるとは限りません。国を見限って別の国に行ってしまうなどのおそれもあります。」
 部下は、損をする者たちの中に平民の職員が含まれていることを気にしているようであった。

「そこまで気にしていては何もできない。今は私が私の責任で物事を動かしている。君は黙って言われたことをしてくれたまえ。できないなら別の者にやらせるまでだ。」

 部下は引き下がった。
 しかし、その部下は個人的に国の上層部の上澄みとつながっていた。



 引き下がると同時にこの国の宰相の元へ走り、彼が暴走を始めているのではないかと懸念を話した。

 宰相は少し考えると、答えた。
「お前の血筋と才は両方とも常人離れしたものがあると、私は思っている。だから、こうして立場を超えて直言を許すようにしている。しかし、今回のことは経験不足が出たかな。まだこの段階では何とも言えないのだ。」
 部下は食い下がる。
「職人が逃げてしまうと、今はささやかですが、国の特産が減ることになります。」
「そうなった場合、国全体としては損失なのは確かだ。しかし、その損失の量に比べて、王の覚えがめでたい彼の実績と手腕は多い。その天秤が逆転しない限り、彼が罰せられることはないだろうよ。」
「実績よりも損失が逆転するほどのものであれば、逆転した時には、あの人は不興を買うだけでは済まないのではないですか。」
 宰相は部下から目線を外し、窓の外を見た。
「そうだろうな。彼の進み方によっては、王に『国に益より害あり』と判断される頃には、取り返しが付かない状態になっている可能性もある。」
「・・・止めないのですか?」
「今は彼は王の覚えがめでたい。彼に下手に反対すると、彼が根回しした貴族たちのみならず、王の不興を買う可能性がある。太陽に近づきすぎるとこちらが焼かれる。立場とタイミングは考えなければね。」
「なんだか、あまり危機感を感じられていないように思われます。」
 宰相はこちらを向いた。
「わかるかね。そのとおりだ。私は王をよく知っている。彼は太陽のような王だ。明るく、公明正大で、皆を照らす。しかし、太陽は太陽の理屈で動いている。彼は国を適正に運営するためにその神経を使っている。その判断において、たかが文官一人の暴走を処断するタイミングを間違うとは、私は思わない。」



 文官の彼に話を戻す。

 彼は商家から集めた金を溜め、『自分が巨大な利益を得るための仕組み』を通すための付け届けをし始めた。

 貴族たちにももちろん金を渡すが、仕組み自体は『平民から利益を吸い上げ、最も利益を得られるのは彼自身』というものであった。平民といっても、商家は彼の金蔓であるため枠から外し、地道に畑を耕している多くの国民が搾取の対象であった。国民に少しの負担を強いて、別の少しの利益を与える。その仕組の間に彼自身が入り、負担と利益の間の僅かな、ほんの僅かな額のお金と、負担を吸い上げる仕事と、利益を与える仕事を割り降る大きな権益を手に入れる。
 僅かなお金といってもそれは平民一人あたりの話で、国民全体で見ると大きな額であった。

 そして、彼が莫大な付け届けでその案を上奏したとき、彼は逮捕された。



 繰り返すが、ここは中世ヨーロッパ「風」の国だ。
 この国では、明文化された法は現代日本と比べ物にならないほど少ない。
 こういう国では、権力者の権力は強く、法などの『決まり事』の力は相対的に弱かった。

 彼の逮捕には明確な理由はない。
 『王の不興を買った』という事実の前に、そんなものは不要であった。

 また、彼が付け届けをした多くの貴族たちは、今回の彼の『仕組み』には大きく組み込まれておらず、単に賄賂をもらっただけであったため、彼を弁護しようとまえはしなかった。

 彼は逮捕からの拷問であっさりと仕組みの全体像を吐き、しかし『それのどこが悪いのだ』と叫んだという。

 彼の疑問に答える必要はなかったが、拷問官は親切にも答えた。
「王様は、自分の国にこれ以上寄生虫を作りたくないんだろうよ。」

 彼は無実と釈放を訴えたが、結局彼は処刑された。



 彼の処刑は、国民の前で行われた。

 処刑場は、国民を苦しめる仕組みを作ろうとした悪い代官の処刑、として、多くの国民が集まって大盛況であった。

 その処刑場を遠目に見る宰相と彼の部下。

 宰相は部下に諭すように言った。

「太陽は明るく、暖かく、我々がものを見るための光をくれる。ありがたい存在だ。
 だが、同時に太陽の光は強すぎると雨を遠ざけ、作物を枯らせ、暑さで生き物を殺す。
 そして、陽の光は影も生む。すべてを照らす光など、ないのだ。
 我々は、太陽をありがたく思い、太陽のもとで我々がいかに強く幸福に生きられるかを模索しなくてはいけない。
 それが、王に対する臣下の在り方というものだ。
 しかし、太陽の方を自分の都合よく動かせると錯覚してはダメだ。
 彼は、自分の心の中で太陽が自分の都合よく動いてくれると、勘違いしてしまったのだ。」


 要するに、畏れが足りなかったのだ。

 部下の少年の視線の先で、かの臣の首が落とされた。

 初めて間近で見る処刑に、少年に宰相の言葉がどれほど響いたのかはわからない。

 少年にとって、その王はそれまでもそれからも変わらず「太陽のような存在」であったから。

 しかし、少年にとっての「太陽」の定義は、「暖かく正しく明るいだけのもの」から「 暖かく正しく明るいが、熱く冷酷で影も生む存在」に変わった。

 少年が『小間使い』から卒業するまでは、まだしばらくの時間が必要そうであったが、少年は彼のようにならないためには、それでよいと思った。

2/21/2024, 9:46:05 PM


人が死んで残すもの(テーマ 0から)

※ 人の死による体の腐敗など、不快になる表現が含まれています。



 築30年を超えた木造の安アパートの2階に、一人の男が住んでいた。
 男は職場を定年退職後、しばらく特にやることもなく年金と貯金の切り崩しで暮らしていたが、貯金が底をつく前に病を得て、病院に通いつつ、日々、小説などを読みながら生活していた。

 しかし、長年の暴飲暴食、不規則な睡眠時間など、生活習慣の乱れが彼の体を少しずつ傷つけており、それが表面化してからはすぐに病が重くなった。
 特に腎臓・肝臓が悪くなっており、吐き気、食欲不振、頭痛、むくみなどの自覚症状が出ていたが、男は年齢のせいだろうとあまり深刻に捉えておらず、病院からもらった精密検査の紹介状も、部屋に置きっぱなしにしてしまっていた。

 男は気にしていなかったが、気にしていなくても病気は進行する。

 複数の病状が進行していた男は、しかしそれが明確にされる前に、ある日誤嚥による窒息で突然死してしまった。

 男は、自分の死は、平均寿命などからまだ10年以上先だと思っていたため、意識が亡くなる直前まで、自分が今死の淵にあることを気が付かなかった。

 『生存性バイアス』と呼ばれる感覚で、平たく言うと『自分は今まで死んだことがない。だから大丈夫だ』といった、非論理的な考えであった。

 男は特に救急車などを呼ぶことなく酸欠から意識を失い、そのまま死んだ。



 男は死んだ。意識はすでにない。
 
 人間の身体は、血液と筋肉と骨などによって構成され、体の各部に栄養・酸素などが供給されることで維持される『仕組み』だ。
 心臓が止まり、死亡した体は、自然法則に従って変化していく。
 
 血液が重力に従って体の下側に降りていき、逆側は血の気が引いた状態になり、体温が室温まで低下した。
 死後硬直を経て、目や皮膚など表面が乾燥したが、死後2日も経つと内蔵から腐敗していき、腐敗臭が漂うようになった。
 しかし、アパートの隣室は空室で、まだ男の死は気づかれない。

 死後3日で腐敗ガスによって体が膨張し、本人かどうか判断が難しくなった。

 死後10日が経過し、腐敗ガスや体液が体外に噴出したことで臭いは強烈になり、ようやく同じアパートの住人が管理人を呼び、管理人は警察に連絡し、男の死体は発見された。



 男には定期的に連絡を取り合う人間がいなかった。
 両親はすでに世になく、兄弟は県外で働いていたため、年に1回連絡する程度の縁になっていた。

 アパートの管理人は保証人になっていた兄弟に連絡するとともに特殊清掃業者にも連絡して、腐敗した死体と部屋の清掃の対応を依頼した。
 死体は腐敗して長く、床に体液が広がり、ハエやウジが発生していたため、管理人は素人の手に負えないと判断した。

 兄弟が県外から駆けつけ、清掃業者が部屋を片付ける。

 男の存在は、兄弟が葬儀を行い、役場で手続きをして、電気ガス携帯電話の解約を行い、火葬されて墓地に埋葬されることで、急速に消えていった。

 葬儀は家族葬であったため身内のほかは参列者もおらず、年賀状発送のリストを見つけた兄弟が死亡について一報を出し、そのうち何人かが男の墓参りに来た。

 最後に、10年後には兄弟も亡くなり、彼をはっきり覚えている人が居なくなることで、彼の人生は完全に終わった。

 男の生きた形跡は、最も長く残ったのは墓石に刻まれた名前と墓の中の遺骨であった。



 男は死に、体は火葬されて灰と骨になり、水分は蒸発し、同じ意識を構成することは二度とない。

 しかし、人間の体の構成元素は、酸素65%、炭素18%、水素10%といった具合であり、その他は数%以下だ。

 原子のレベルまで考えると万物は流転しており、彼の人間としての人生は終わったが、彼を構成していた物質は、別のものを構成する一部として、それこそ死の直後から、0から再スタートしている。

 骨だけは骨壺に入っているため墓で長く残ることになるが、微生物や水分や炭素は、バラバラになって別の生き物の一部になったり、空気中を漂っていたり、その辺の道の土に含まれていたりするだろう。

 そもそも、構成元素というなら、生きているうちから、新陳代謝や便によって体外に出ているし、食べ物として口から入っている。

 すべてのものは、0からスタートしているとも言えるし、引き続いているとも言える。

 ただ、こうして我々が考えることができる「意識」は0になってしまうのだろう。

 だから人は死を恐れるが、世に永遠に生きる人間はいない。
 皆、等しくいつか0を迎えるときが来るのである。

2/21/2024, 3:53:59 AM


持たざる者たちのシンパシー(テーマ 同情)



 中世ヨーロッパ「風」のどこかの世界。
 私達が名も知らない王国の首都に、大きな貧民街があった。

 貴族や市民階級が近寄らない、明日のことを考えられない貧民の街。
 自警団はここには近寄らず、衛兵など輪をかけて近寄らない。

 平穏や秩序を守るための手は届かないのか、そもそもないのか。
 盗みや殺しがあっても放置される。そんな場所だ。

 その貧民街に、一人の少年が生きている。
 この街の多くの者が、気力もなく道端に座り込んだり、ボロボロな家に住んでいたりしたが、少年は街の端の場所に、一見簡素だが雨漏りをしない家に住んでいた。

 少年は一人だ。親も兄弟もいない。
 幼い頃、ここに少年を連れてきて、しばらく一緒に暮らしていた親代わりの男も、何年か前に殺されてしまった。
 家はその男が建てたものだった。

 男は頭が良かったのか、単に馴れ合いが嫌いだったのか。水場から遠く、街の端で森に近い場所に家を建てた。不便な場所に建てることでトラブルに遭いにくく、外見を良くしないことで家を奪われるリスクを減らした。
 しかし、それは『実際に不便』ということで、少年は毎日遠くの水場から水を汲んでくることに時間を費やしており、少年は貧民街の中でも特に食べ物に困る人間のうち一人であった。
 少年は日々、食べられるかわからないものを食べて、その日を生き延びていた。



 貧民街の人間は、通常の街や街道に出ると、襤褸をまとっているため、すぐにそれとわかる。
 旅人や街の庶民、めったに見ないが貴族などは、貧民を見ると視線だけ同情したり、あるいは忌避したりした。

 その少年は、同情されるのが嫌いだった。
(奴らは悲しいふりをしているだけだ。実際に何をどうしようとも思っていない。できれば目に入らないでほしいとすら思っている。)

 少年は気がつくと常に無表情で、自分にも他人にも無頓着になっていた。しかし、無頓着な一方で、奇妙な自尊心のようなものは持っていたため、同情というものを嫌悪していた。

 それが、他の貧民と少年を分ける僅かな違いだったかもしれない。多くの貧民は同情の視線に慣れている一方で、『同情』というものを『する側』の気持ちはほとんど知らなかったから、嫌悪もしなかった。

 同情されるのを嫌うのは、元々いた地位から転落してきた者だ。『自分はこんな目で見られる人間ではない』と思うから、同情されるのを嫌うのだ。


 少年は、たとえその日、食べることができるかどうかわからなくても、着替える服がなくても、寝る場所が無くても、『どうせ一人で生きて、一人で死ぬのだ』と思っていた。



 少年はある日、道端で倒れている少女を見つけた。
 少女は貧民としてもかなり年季の入った襤褸、肌も汚く、髪もボサボサであった。

 少年はどうか。
 少年も襤褸を着ており、一見して貧民とわかる。しかし、水場から水を毎日瓶に長い時間を使って汲んできたり、体が痒くなると川まで行って水浴びをすることも多く、多少は見た目がマシであった。

 少女は道端に倒れたまま、咳を繰り返している。病のようであった。

 貧民街の道は狭い。横を通り過ぎようとしたが、少女に足を掴まれた。
「離せ。」

 少年は、日課の水汲みの最中だった。遠い水場から水を桶に入れ、家まで持っていく。何度も繰り返さないと瓶には貯まらない。長い朝の労働だ。
 蹴飛ばそうと思ったが、水の入った桶を抱えているのでやりにくい。
(こんなのがあるから、いい道は通りたくないんだ。次から遠回りするか。いや、これ以上水汲みに時間をかけたくない。)

「ゴホ、ゴホ。お願いです。み、水をください。」
 少女は少年の足を両手で抱え込むようにつかんでいる。意外に力が強い。

「この水は俺が水場まで行って汲んできたものだ。俺がお前に水をやって、代わりにお前は俺に何をするんだ。」
 言いながら、少年の心の何処かでチクリと刺すものがあった。

 この少女は寝転んでいる。つまり立ち上がることも難しいのだ。
 この少女だって、自分で水場に行けるなら行くだろう。
 それができないから、こうして道端に倒れ、たまたま通った少年に懇願している。

(それでも、この調子で道行く奴らに欲しがるだけ水をやっていたら、俺は自分の水を永遠に家に持ち帰ることができない。)

「な、なんでも。ゴホ。このままでは、死ぬだけ、なので。」

 咳をしながら少女はこちらを見た。
 顔は体と同じく垢だらけで臭いもひどかったが、瞳は青く大きかった。
(意外に目が綺麗だ。)

 いくつかやり取りをして、結局少年は少女に水をやり、空になった桶と少女を背負って家に帰った。 
 特に利益を見い出せたわけではない。

 やり取りが面倒になったのと、自分が幼い頃、同じように助けてもらったことを思い出してしまったからだ。



 少年の家で少女が暮らすようになった。

(といっても、主に寝ているだけだ。こいつ、水汲みとかしないし。)
 少女はそもそも家から出て街の方へ行きたがらなかった。

 しかし、毎日瓶の水を飲み、まずいながらも食べ物を食べ、体を拭くようにしたからか、しばらく経つと、体調は大分マシになり、立ち上がれるようになった。

 少女は街には行きたがらなかったが、森には行っていたようで、よくわからない草などを持ってきて、少年の持ってきたこれまたよくわからない生き物や実を使って料理をした。

 最初はまともな味がしないものや、二人とも食あたりを起こしたりもしたが、繰り返すうちに食べられるものと美味しいものがわかるようになったのか、『食べられるもの』になった。

(ゴミのようなものと雑草くらいしかないはずの貧民街で、まともな料理が食べられる。それだけでも拾ってよかった。)

 一般的な料理と比べてどうかなど、少年にはわからなかったが、少女の料理は美味しいと思っていた。


 少年と少女は、助け合うことができるようになり、二人とも、一人でいるときよりも生活が楽になった。




 それからしばらく暮らしていたが、そのうち、少女の咳が止まらなくなった。

 少年は気遣いを見せるが、少女から「自分が気遣われたときは同情で、自分が気遣った時は優しさ、なんて言わないわよね。」と言われた。
( つれない。)

 少女はそもそも、料理を作るようになってから自分の意志というものをよく見せるようになっていた。

(そうだ。そもそも俺は同情が嫌いだった。)
 少年は、少女からそう言われることで、かつての自分を思い出した。



 そして、少女の症状が軽くなった頃、今度は少年が咳をするようになった。
 少女から病が感染したのか、それとも、良くないものばかり口にして、身体がおかしくなったのかはわからない。

 少年は咳をし始めてから、しばらく寝込み、逆に少女の看病を受けた。

 嫌がっていた水汲みも、その日は少女がやった。

「ゴホ。俺は同情が嫌いだ。面倒なら放っておいてもいい。」

 少女はボロ布を水につけて少年の額に乗せた。

「私はあなたに共感し、情をかける。あなたも私に共感し、情をかける。こうしていれば、私達は一人で生きるより強く生きていける。」

「単に、それだけのことよ。他人の同情を嫌い続けても、良いことなんてない。」

 少年は、寝床でしばらく考えていた。

7

 やがて、少年も少女も体調が回復した。

 少年は、少女と助け合うことで、人の厚意を跳ね除けることはしなくなった。
(断っても損するだけだ。黙って受け取れる間は有り難く受け取る。それで恩着せがましく何か言ってくるなら、受け取らないまで。)

 少年は少し、大人になった。

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