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人が死んで残すもの(テーマ 0から)

※ 人の死による体の腐敗など、不快になる表現が含まれています。



 築30年を超えた木造の安アパートの2階に、一人の男が住んでいた。
 男は職場を定年退職後、しばらく特にやることもなく年金と貯金の切り崩しで暮らしていたが、貯金が底をつく前に病を得て、病院に通いつつ、日々、小説などを読みながら生活していた。

 しかし、長年の暴飲暴食、不規則な睡眠時間など、生活習慣の乱れが彼の体を少しずつ傷つけており、それが表面化してからはすぐに病が重くなった。
 特に腎臓・肝臓が悪くなっており、吐き気、食欲不振、頭痛、むくみなどの自覚症状が出ていたが、男は年齢のせいだろうとあまり深刻に捉えておらず、病院からもらった精密検査の紹介状も、部屋に置きっぱなしにしてしまっていた。

 男は気にしていなかったが、気にしていなくても病気は進行する。

 複数の病状が進行していた男は、しかしそれが明確にされる前に、ある日誤嚥による窒息で突然死してしまった。

 男は、自分の死は、平均寿命などからまだ10年以上先だと思っていたため、意識が亡くなる直前まで、自分が今死の淵にあることを気が付かなかった。

 『生存性バイアス』と呼ばれる感覚で、平たく言うと『自分は今まで死んだことがない。だから大丈夫だ』といった、非論理的な考えであった。

 男は特に救急車などを呼ぶことなく酸欠から意識を失い、そのまま死んだ。



 男は死んだ。意識はすでにない。
 
 人間の身体は、血液と筋肉と骨などによって構成され、体の各部に栄養・酸素などが供給されることで維持される『仕組み』だ。
 心臓が止まり、死亡した体は、自然法則に従って変化していく。
 
 血液が重力に従って体の下側に降りていき、逆側は血の気が引いた状態になり、体温が室温まで低下した。
 死後硬直を経て、目や皮膚など表面が乾燥したが、死後2日も経つと内蔵から腐敗していき、腐敗臭が漂うようになった。
 しかし、アパートの隣室は空室で、まだ男の死は気づかれない。

 死後3日で腐敗ガスによって体が膨張し、本人かどうか判断が難しくなった。

 死後10日が経過し、腐敗ガスや体液が体外に噴出したことで臭いは強烈になり、ようやく同じアパートの住人が管理人を呼び、管理人は警察に連絡し、男の死体は発見された。



 男には定期的に連絡を取り合う人間がいなかった。
 両親はすでに世になく、兄弟は県外で働いていたため、年に1回連絡する程度の縁になっていた。

 アパートの管理人は保証人になっていた兄弟に連絡するとともに特殊清掃業者にも連絡して、腐敗した死体と部屋の清掃の対応を依頼した。
 死体は腐敗して長く、床に体液が広がり、ハエやウジが発生していたため、管理人は素人の手に負えないと判断した。

 兄弟が県外から駆けつけ、清掃業者が部屋を片付ける。

 男の存在は、兄弟が葬儀を行い、役場で手続きをして、電気ガス携帯電話の解約を行い、火葬されて墓地に埋葬されることで、急速に消えていった。

 葬儀は家族葬であったため身内のほかは参列者もおらず、年賀状発送のリストを見つけた兄弟が死亡について一報を出し、そのうち何人かが男の墓参りに来た。

 最後に、10年後には兄弟も亡くなり、彼をはっきり覚えている人が居なくなることで、彼の人生は完全に終わった。

 男の生きた形跡は、最も長く残ったのは墓石に刻まれた名前と墓の中の遺骨であった。



 男は死に、体は火葬されて灰と骨になり、水分は蒸発し、同じ意識を構成することは二度とない。

 しかし、人間の体の構成元素は、酸素65%、炭素18%、水素10%といった具合であり、その他は数%以下だ。

 原子のレベルまで考えると万物は流転しており、彼の人間としての人生は終わったが、彼を構成していた物質は、別のものを構成する一部として、それこそ死の直後から、0から再スタートしている。

 骨だけは骨壺に入っているため墓で長く残ることになるが、微生物や水分や炭素は、バラバラになって別の生き物の一部になったり、空気中を漂っていたり、その辺の道の土に含まれていたりするだろう。

 そもそも、構成元素というなら、生きているうちから、新陳代謝や便によって体外に出ているし、食べ物として口から入っている。

 すべてのものは、0からスタートしているとも言えるし、引き続いているとも言える。

 ただ、こうして我々が考えることができる「意識」は0になってしまうのだろう。

 だから人は死を恐れるが、世に永遠に生きる人間はいない。
 皆、等しくいつか0を迎えるときが来るのである。

2/21/2024, 9:46:05 PM