「……もう、最悪……」
キッチンに入って、こぼれ落ちた呟きを。
「ん、どした?」
冷凍庫から棒アイスを取り出した夫がのんきな態度で拾う。
「最悪——『最も』とつくからには、過去最高に悪いことだよな。何があったー? 最悪過ぎて、乗り越えられないような感じなら相談に乗るぞー?」
言いながら、夫はポイッと棒アイスを覆っていた透明な袋をシンクの三角コーナーに放った。
「……相談するとか、そういうことじゃなくて」
こめかみに指を当てた私に、夫はふーん? と疑問の声をもらしながらアイスを齧る。
「もういいから、あっちに行って」
私の冷たい物言いに。
何だよ、八つ当たりすんなよと文句を言いながらリビングを抜けて書斎へ入っていく。
私は夫の書斎のドアを睨みつけ、盛大な溜息を投げる。
子供じゃあるまいし、食べながら移動するなって何度言ってもわからない人だ。
……というか。
三角コーナーのゴミ捨ては生ごみ、可燃ゴミを捨てる場所であって、ビニール袋を捨てる場所じゃないし。
それに加えて。
私が出掛ける前に綺麗にしたキッチンが汚れ放題、シンクに料理用具や使用済みのお皿で山盛りになっているのは、どういうことなのか。
今日は帰りが遅くなるし、明日は仕事早出だから、キッチン使うなら片付けておいてねって言ったよね?
アナタわかった、って答えたわよね!?
ああああ、苛々する!
……なぜ言わないって?
もはや一度や二度、三度、といったやり取りじゃないからよ。
数十回以上、コンコンと訴えて、約束もしてくれたのに、このざま。
今更言ってもどうにもならないのでしょうねぇ、の諦め心境。
……諦め、とは違うかもしれない。
最悪、と思うたびに私の中で何かが壊れていくのを感じる。
壊れきったら——
多分、終わり。
それはあなたにとって、『最悪』となりうるのか。
その答えを知る時も、そう遠くない気がした。
言葉にしない方が良いこともあるの
綺麗な宝箱にしまうもの
永久凍土の底の底に深く沈めてしまうもの
繰り返し業火にくべるもの
……または、
その時の自分の心も
いつか、うんと年をとって
ボケてしまっても
キラキラさらさらの
光や氷、砂塵の粒子になっているように
私だけの秘密事は、私の心の中だけに
自分のお部屋を貰ったのは、
小学校入学と同時だった。
机、ベッド、本棚。
新しいお家で
こっそり用意されていたそれらは、
家具屋さんで私がいいなぁと言っていた物。
だからとてもとても嬉しかった。
……しばらくは、一人で眠ることだけは
少し怖かったけれど、やがて慣れた。
でもそのお家に長く住むことはなかった。
転勤、転勤で
あちこち移動した。
私は一人っ子だったから
どこでも
四畳半〜六畳のお部屋を与えられていた。
恵まれていたのかもしれない。
親達は、会社や世の中、
そして家庭と日常にも疲弊して
どんどん見えない部分から荒れていった。
いちはやく危機感を持って動いたのは、父。
単身赴任で、自ら家庭から旅立っていった。
残された、母と私の二人暮らしは
もう思い出したくない。
最後の家の、六畳の私のお部屋には、
私の好きな物をたくさん詰め込んでいた。
捨てられてしまったものも
たくさんあったけれど
懲りずに、また集めた。
この部屋があれば、
この部屋で過ごせるなら耐えられると
そう思っていた。
だけど。
もう無理だ、
こうして耐え続けても何も残らないどころか
本当にダメになると気付いて。
すべてを置いて、
全部、捨てて
私は部屋を、家から出て行った。
今でも——
時々、あのお部屋を思い出す。
私のすべてだったお部屋。
私が唯一、私でいられた場所。
あのお部屋に残して
もう処分されてしまっただろう物たち。
連れて行けず、ごめんね。
支えてくれて、ありがとう。
これが最後の恋だと思ったのに、と泣きじゃくる彼女から電話があったのが午前二時。
こちらは連日残業で、終電帰りがかれこれ何日続いているかという状態で、疲労はとうに限界突破。
ベッドに転がり今すぐ寝入ってしまいたい。
その欲求に抗えず、初めて嗚咽混じりにつらつら語り出す彼女の声を遮ってしまった。
「あー、うんわかった。来週の休み、日曜の夜なら時間取れると思うからさ。
その時聞くから、ゴメン。今日は勘弁して——」
言いながら眠ってしまったらしく、彼女の返事があったかどうかも覚えていない。
翌朝、メッセージアプリに彼女から
『もういい』
との一言だけが残されていた。
『ゴメン。仕事がキツくて本当無理だった』
と送り返したが、既読になることはなかった。
「いやマジで何なの、つーさ」
日曜日。
連絡がつかない彼女の代わりに、共通の学生時代の友人と居酒屋で呑んでボヤくと。
「へー、そんな話初めて聞いたわ」
枝豆を齧りながら友人は目を丸くした。
「あの子、秘密主義だと思ってたけど。君とはそんなディープな話してたんだ」
「え、そうなのか?」
聞いてくれるなら誰でもいいとばかりに捕まえて話すタイプだと思い込んでいたから、こちらも目が丸くなる。
「昔から聞き役だったぞ、俺」
「そうなんか。それじゃまあ——今回は二重に失恋したってとこかね、彼女的には」
最後の受け皿もなくしちゃって、失意のどん底かねえ、慰めにいってやったらどうよ、などととビールを呷って無責任に笑う。
「いや……、いいよ」
顔を顰めてやはりビールを飲み下す。
——グズグズ泣きながら一方的に語る彼女の声は、不快ではなかった。
語られる内容は、同意も同情もしかねたけれど。
「聞いてくれて、ありがとう」
最後に、そう言って泣き顔のまま笑う顔は、多分——好きだった。
「だって切ってきたのは、向こうだし」
都合良い聞き役も卒業するわ、と言い切ってジョッキを一気に空にした。
いつもより苦さを感じたのは、おそらく感傷のせいだろう。
これも失恋の一種かと、初めて彼女と同じ線上に立てた気がした。
「私、嘘つく人って大嫌いで」
同僚の言葉にうんうん、と人気カフェの新作ドリンクを啜りながら頷く。
「清濁併せ呑む、なんて嘘つきの言い訳ですよ」
そうよね、確かにーと相槌を打つ。
同僚は先日、恋人と別れたばかり。
その恋人の浮気が原因で、早い話、同僚は恋人にたくさんの嘘をつかれていたわけで。
同僚は、それが我慢ならなくて別れに至ったようだ。
お怒りはごもっとも、ひどい恋人だとは思う。
……だけど、ねぇ。
同僚の言葉の合間あいまで適当な返事をしながら。
せっかくの新作ドリンクなのになあ、なんて思ってみる。
——『嘘が嫌い』ね。
その嘘つきは、今あなたの目の前にいるわよ、と心の中で言ってみる。
だって私は『嘘が嫌い』と平然と言える人間こそ嫌いなんだもの。
人間、生きていれば、少しは嘘をつくものじゃない。
人道的倫理的社会的……、アウトなラインに接触しない範囲なら、多少は、ね?
つまり私は、目の前のこの同僚が好きではない。
それでも、会社で年がら年中顔を合わせる間柄だもの。
わざわざ正直にそれを語って、仲違いしようとは思わない。
私の内面で滑り落ちる言葉を知ることもなく。
「——さんは、私と同じタイプだなって思えるから、信用できます」
とニッコリと微笑んでいた。
ウフフ、と笑い返して。
……勝手に信用しないで、と叫ぶ心を押し隠した。