……いっそ溺れてしまえばいいのに、とアタシは思うの。
いつでもアタシを一番に気にかけて、何でも率先してやってくれるアナタ。
だからアタシも精一杯、愛を注ぐの。
全身で、全力で。
アタシの愛で、アナタが溺れてしまうくらいに。
「ちょ——愛ちゃん! ステイ、ステーイ!
愛ちゃん重いからッ! パパ潰れちゃうから!!」
……レディに対して失礼ね。
仕方ないでしょ、アタシは由緒正しきセント・バーナード犬なんだから。
ムッとしつつも指示には従って、ちゃんとアナタから引き下がってお座りしてあげるの。
これも愛よ、わかっているのかしら。
「あああ、せっかくスタイも取り替えたのにビショビショじゃないか……」
ボヤきつつ。
アナタはビショビショになった洋服姿のまま、アタシの口周りを拭ってくれるの。
嬉しそうに。
だからアタシはまた愛を注ぐの。
……アナタが溺れるほどに。
大丈夫、もしもアナタが本当に溺れてしまっても。
アタシがきっちり助けてあげるから、何にも心配いらないわ。
だってアタシは由緒正しき、優秀な救助犬たるセント・バーナードですもの!
冷えた風が渡る、丘の上。
月のない夜空にちらほらと光る埃のような星々を、彼は飽きもせず見上げている。
「いつまで、そうしているの」
呆れたように、母親のように、彼女が口を開く。
立ち尽くして疲れたのか、全身を軽く揺らしながら。
そんな彼女に視線だけ向けて、彼は済まなそうに微笑んだ。
「流れ星を、探しているんだけどね」
「——流れ星……」
声の調子で、彼女の呆れの度合いが上がったのがわかる。
そんなの見つけてどうするの。
言わずとも、彼女の顔にはそう書かれていて、彼は苦笑する。
「流れ星に祈ると、願いが叶うんだって」
大昔の書物にそう記されていたと、彼は内緒話をするように声をひそめた。
彼女は溜息をつく。
「またそんなことを——もう真偽はどうでもいいけど。
で? そんな言い伝えにすがってまで叶えたい願いって、何よ」
「言ったら、叶わないんだけど……。
でも見つからないし、いっか」
軽く肩を竦め、彼はまっすぐ彼女に向き直った。
「君の心が欲しいって、お願いしたかったんだ。
君ともっと心を通わせたい。同じ気持ちでいられるように、って」
「——はぁ……?」
真摯な眼差しをもって伝えた彼の言葉は、彼女には響かなかったらしい。
彼女は大きく息を吐いてかぶりを振った。
「心って——所詮、記憶と事象に対する感情発露と、その蓄積じゃないの?
えーっとつまり、私のそれを同期すれば、君の望みは叶うのかしらね……?」
そんな機能あったかしら、そもそも私の記憶データベース深度はどの程度なのかしら、と彼女は頬に手を当てて思考を巡らせる。
「うーん、中枢システムにアクセスしないとわからないわね。
——とりあえず、帰りましょ」
うん、と彼は頷いて彼女に従う。
軽くスキップでもしそうな彼の足取りに、彼女は首を傾げる。
「何で、そんなに嬉しそうなの」
「……君の心に、もっと近付けそうだから?」
はぁ? と彼女は再び眉根を寄せて。
ほんっと、ヒューマノイドって意味わかんない、と——
それでも彼につられたように。
彼女も楽しそうに、口角を上げて呟いた。
傷つきたくないから、心を空にする。
そんな癖を、いつから身につけたのだっけ。
陰口も、上辺だけの賞賛も、どうでもいい。
聞こえないフリ、聞いていないフリ。
傷ついても——何でもないフリをしていたら。
いつしか、誰の言葉も心底に届かなくなってしまった。
でもいいの。
ひとりが気楽、ひとりが良いから。
「にゃー」
リビングの窓辺に座っていたら。
老猫が隣に、寄り添ってきた。
冷えた手に、やわらかな肉球の感触。
キラキラのおめめ。
優しい暖かさ。
……何でもないフリなんて、できないね。
大好きは、確かにここにあるんだ。
「俺たち、仲間だろ!」
顔をクシャクシャにして、叫んでいる。
こういうの、なんて言うんだっけ?
あぁ、血を吐くように叫ぶ、か。
まさしく、口の端から血が滲んでいるものな。
自慢の顔も痣だらけ。
明日にはひどく腫れそうだ。
……明日があれば、の話だが。
仲間、ね。
確かにそう思っていたよ。
脳天気にも、つい最近まで。
なあ、教えてほしい。
お前にとって、『仲間』とはどんな意味だったんだ?
その定義をもって、今のお前はその言葉を発しているのか?
……もちろん、違うよな。
だから笑って、背中で手を振った。
「仲間でいられたら、良かったのになあ?」
定義が異なるとしても、仲間ではいられたかもしれない未来を、少しだけ想像して。
二度と開くことはない、廃屋の扉を閉ざした。
むかーし、むかし。
年末だったから、何とはなしにお参りに行った。
祈った願いは多分、二人とも同じことだったんじゃないかな。
『いつまでも、ずっと一緒に』
帰り道、
通りの屋台でお団子を買って食べたね。
風が冷たくて、かじかんだ手を握ってくれたっけ。
大きな手は温かくて、心もほどけた。
少し先を歩く老夫婦も、支え合うように手を握っていて、それが何だか嬉しかった。
自分たちの未来だと、そう思ったの。
いつからだっけ。
震えていても、手を握ってくれなくなったのは。
手だけ暑くなってもね、とか
手汗が嫌だ、とか
そんなことを言ってしまったこともあったような気がする。
嫌だよ、恥ずかしい。
そう言われたのは、私の失言の後だったか先だったか。
もう、思い出せない。
思い返しても、何の感情も沸かないの。
でもね。
昔は、確かに望んでいたんだよ。
『いつまでも一緒に、手を繋いで』
あの老夫婦のおぼろげなお姿は、瞼の裏の幻影。
永遠に消えない、憧れの幻。