小さな勇気、それが何となく湧いた
すると何となくそのまま脅威を溶かした
驚く程何気ない
それもきっと、
隣にあの子が居たから。
隣のあの子を信じたから。
冷たいシーツの温度は鮮明に覚えている
隣の家からはいつも和気藹々としたひだまりが聞こえてくる
静まり返った僕独りの家の中にそれがよく響く。
あの人がこの家で吐いた霜は消えることなく残り続けていて、ずっと侵食が止まない。
ずっと居れば、きっと僕ごと凍りついてしまうだろう。
たまらなくなって階段を駆け上がって、ベットへ飛び込む。
布団の上でシーツに包まる
天窓から差し込む朝の光はどうにも眩しくて
どうにも何処にも無いような気持ちが浮き彫りになる。
だけどそんなのもどうでも良い気がする
ただ無抵抗に、眩しさと温かさに当てられたい。
いつもの通学路。
丸まった背中と俯いた頭に脚が上がっていない歩き。
前に見つけた人物へと駆け寄る。
「涼くーん!おはよー」
「蛍ちゃん…おはよう…」
「今日寝坊しちゃったけど走ったら全然間に合った!」
「そうなんだ…良かったね…」
私は去年の小学5年生の時に涼くんの隣の家に越してきた。同級生の涼くんとはそのよしみで仲良くしている。
涼くんはいつも暗めでどこかビクビクしていて、弱々しくて小さい声で話す。
笑顔は苦手のようで、眉尻は下がり目元はふにゃふにゃして悲しそうで、頬は引き攣っていてどこか強張っているような笑顔をする。
「蛍ちゃん…僕のこと、好き?」
一日に一回は必ずされるいつもの質問。
俯いたまま呟くように私に問う涼くんの手は微かに震えていて、そっと私を見て返事を待つ。何故かとても恐そうで怯えた目をしているのに、ちゃんとこちらを向いて返事を待つ。
私はしっかりと涼くんの目を見て、いつもと同じ返事をする。
「大好きだよ」
涼くんは私の返事を聞いて、肩の力が抜けたように息を吐く。毎日見ていて思うが、あの質問をするとき涼くんは息が止まっている。
それほど緊迫した想いを抱えているのだろうか。私は踏み込めない。涼くんの繊細なところに、間違って土足で踏み入るなんてことがあれば私は立ち直れないから。涼くんが話してくれる日が来なくてもいい。ただ側にいて欲しい時に側にいれるように、もし話したくなった時はしっかり聞けるように、友達としてちゃんと力になりたい。
涼くんがふにゃっとぎごちなく私に笑いかけるので、私も満面の笑みを返す。
「うわっ、またその笑み! 気持ちワルっ!」
通りすがりの男子が涼くんを指さして小馬鹿にする。
「うっさい! どこが気持ち悪いんだよ!! お前の方が気持ち悪いから安心して黙れ!!」
「はぁ!? ふざけんなブス蛍!!!」
男子は吐き捨てるようにして走っていく。
「蛍ちゃん…ごめんね…」
「何で涼くんが謝るの!」
「蛍ちゃんに迷惑かけちゃって…」
「私、迷惑だなんて思ってないよ。勝手に言い返してるだけだしさ。涼くんは何も悪いことしてないでしょ、謝らないで。一人で抱え込まないでもっと頼ってくれていいんだよ」
「うん…ありがとう…」
俯いたまま返事をした涼くんは、殻に閉じこもって独りぼっちみたいだ。
「友達なんだからさ、どんなことでもいいから手助けさせて欲しいな。私は涼くんと友達だと思ってるんだけど、涼くんは違う?」
「蛍ちゃんは僕の大切な友達だよ…」
少し顔をあげて私を見て答えた涼くんは笑顔を作らなかったけど、どこか温かい目をしていて、微笑んでいる気がしたのはただの気のせいでしかないだろうか。
そんなことをふと思うと、すぐにまた俯いてしまい、涼くんの暗がった虚ろな横顔だけが見える。
それはどうにも私の心にささくれのようなものを作る。
「涼くん、気持ち悪くなんてないんだからね。あんなのを気に留めなくていいよ」
「蛍ちゃん…でも本当のことだよ…うまく笑えないし…ほんと、気持ち悪いよ…」
「涼くん…私は気持ち悪いなんて一ミリも思ってないんだからね!! だけど私がそう思ってたとしても、涼くんの笑顔がどうかなんて人が決める権利無いんだよ。涼くんのものは涼くんが決めるの。自分で気持ち悪いって思ったら気持ち悪いことになっちゃうんだよ。涼くん、自分で決めて」
「え、えぇ…自分で…? そう言われても…」
「さっき気持ち悪いって言ったアイツと気持ち悪く無いって言った私、どっちの言葉を信じたいの?」
「そんな……分からないよ」
「友達を信じてみてもいいんじゃない?」
「なら…——蛍ちゃんを…信じたい、かな…」
「じゃあ私を信じるって決めてね。涼くんの笑顔は、気持ち悪く無い」
「分かった…ごめんね」
「次からはごめんねじゃなくてありがとうが聞きたいかな」
「はっ、はっ…け、けいちゃ…蛍ちゃん待たせてごめん…!!」
「大丈夫? 水飲みな。焦ることないよ、そんなに待ってないしさ」
「……」
俯き込んでしまった涼くんの顔が全く見えない。
「涼くん? どうした?」
「僕のこと…嫌いになった…?」
「えっ、嫌いになんてならないよ」
「蛍ちゃんは他にたくさん友達いるのに…僕なんかと帰ってくれてるわけで…それなのに待たせるなんて…もう一緒に居たくないよね…嫌いになったよね…」
真っ黒で何も映ってない涼くんの眼は心の窓で、涼くんの心の中の禍々しい煮詰めたような闇が垣間見える。
涼くんはたまにたくさんの不安が溢れてしまう。
「涼くん、大丈夫だよ。大丈夫だから。私はこれからもこれまでもずっと涼くんが大好きだよ。不安になればいつでも聞けばいいし、何度でもいつでも私は涼くんが大好きなことちゃんと伝えるよ」
少しずつ涼くんの眼に私が映っていく。
「私は涼くんと一緒に帰りたいから帰ってるんだよ。私が涼くんを待たせちゃう時もあるしお互い様だよ」
「あ…蛍ちゃん…」
「うん。ここにいるよ。帰ろっか」
「じゃあ蛍ちゃん…ばいばい…」
「また明日ねー!」
《プルルルルル…プルルルルル…》
「…もしもし………え、」
「涼くーん! 私鍵を家の中に忘れたみたいでさー、誰もいなくて入れないからごめんけど涼くんの家お邪魔してもいい?」
「蛍ちゃん…僕今から行かないと…」
「あ、これから出掛ける?」
「総合病院…お母さんが交通事故で救急搬送されたって…」
「えぇ!?」
「さっきスマホに…病院から連絡あって…」
「早く行かないとじゃん! でも車は無いし…自転車か?」
「歩き…」
「へ!? 自転車ならまだしも徒歩だと結構距離あるよね」
「僕…自転車なくて」
「私の貸すよ!」
「僕…自転車乗れないんだ…」
「え!? えーと、えーと…あ、私のママチャリだから後ろ乗れるよ! 私が漕ぐから後ろ乗って!」
「蛍ちゃん、ごめんね…大丈夫?」
「だ、だいじょぶ…早く…院内入って…病室案内してもらいな…」
「…蛍ちゃんも一緒に来てくれない?」
「………え?」
病院への道のりは何故か坂道が多くて、涼くんは見かけによらず重かった。着いた時はもう脚がガクブルしてて息も上がって酸欠でクラクラしていた。
涼くんに頼まれて、肩を貸してもらいながら一緒に病室へ向かった。
病室前の椅子に座らせられるかと思いきや涼くんはそのまま私を連れて病室に入ろうとするので一応引き留める。
「涼くん、私はここで待機してた方がいいんじゃ…」
「……お母さんと二人きりなんていつぶりかな…蛍ちゃんも一緒に来てよ。友達だから手助けさせて欲しいって…私を信じるって決めてって…言ってたよね。嘘だったの?」
「ぐっ、涼くんかわいくない…」
「かわいくなくて結構だよ…」
確かにそうは言ったし全然良いのだけれど…何か、なんか…言い方よ…!!
涼くんと私は一緒に病室へ入りカーテンを開けると、ベットには涼くんのお母さんが横たわって眠っていた。頭に包帯を巻いて首と腕にギブスをし、顔にはガーゼが。酸素マスクが曇っていた。
「……」
一言も話さずただお母さんを見つめる涼くんからは、驚く程何の感情も見えなかった。
ここまで病院に来るまでも着いても病室までの道中も、涼くんはやけに冷静で、それもそれで大丈夫かと心配でたまらない。
確かに家が隣で涼くんの友達なのだけれど、涼くんのお母さんは家にいることが無く、お父さんはいないようなので涼くんの家族との面識は一切無い。やはり状況を整理してみると何だか私はこの病室の中で部外者感がある気がしてきたのでなるべく気配を消していたその時だった。
お母さんが目を覚ました。
「…お母さん、調子はどう?」
「………せっか、く…近頃顔を合わ、せず…忘れられてた、のに…でき、れば二度と…見たくなかっ、た…顔だわ…」
「……」
お母さんは出し辛そうな掠れた声で、酸素マスク越しに話した。だがしかしだ、まさかのドン引き発言に私は驚きつつも、何も言わずに立ち尽くす涼くんの感情はやはり見えない。強いて言うならば、どこか冷ややかなような…
そういえば薄々思ってたけど、なんだろう。どうしてか今の涼くんは背中がまっすぐで、いつものビクビクした様子がない。
「お母さん、僕のこと、好き?」
あれ、いつもの質問だ。
でもいつもと違うのは、俯くことも怯えることもない。ハキハキとまっすぐお母さんを見下ろして、問う。
「嫌い」
お母さんは先程のように掠れることなく、やけにハッキリと通った一言を放った。それは冷たく鋭く、狭い病室によく響き渡った。
パキッ、パキ…っと鼓膜に響く音。病室がじわじわと霜で覆われて、凍っていくようだ。
「はははっ」
その時、霜や凍りも涼くんの笑い声で全て消え去った。
全てを溶かすように。
私はこの時初めて涼くんの笑い声を聞いた。
溢れるように出た高めの笑い声が、静かな病室に響き渡った。
「知ってた。」
弱々しくも小さくもない、普通の声。呟くような一言と共に、初めて涼くんは普通に笑った。
普通の笑顔だった。
ふにゃふにゃもしていないし、引き攣って強張ってもいない。
涼くんの自然に溢れるような笑顔。
もしかしたら、私はこの時初めて涼くんの笑顔を見たのかもしれない。
唖然と瞬きを繰り返す私に、涼くんは構わず普通に話しかける。
「蛍ちゃん、ありがとうね。帰ろう」
「……ん? え、何? ふあ?」
「…」
涼くんはアホらしい返答をする私へニコッと爽やかな微笑みを向けて、静かに私の腕を引いて病室から一緒に出る。
混乱しながらも大人しくそれに従う。
「…ちゃん、蛍ちゃん聞いてる?」
「んあ? あ、ごめん。何?」
「大変そうだったし帰りは僕が自転車ひくから、歩いて帰ろう」
「あ、はい。そうですね…」
「なんで敬語?」
「いや…」
笑い声も初めて聞いたし…見たことない笑顔見て…あの爽やかな微笑みができるのももうわけわからんし
笑顔苦手ってなんぞや??
しかも一番の違和感はやっぱこれ!
背筋伸びてんなぁ 口調ハキハキしてんなぁ
こんな身長高かったっけ?
何だか急にしっかりしちゃってさぁ…
親戚の少年が久しぶりに会ったら青年になってて成長や変化を感じると言うかなんというか…そのくらいの変化が短時間に起こればそりゃ混乱もするよ
涼くんが普通すぎるのが逆におかしいと思うよ!?
自分では分からないものかな…
「? 蛍ちゃん、そこで突っ立って何してるの。早く帰ろう」
「あぁ、はいはい」
「今日は一緒に来てくれてありがとう。筋肉痛になったらごめんね」
「うん、全然おっけー…だいじょぶ…」
やっぱりムズムズするなぁ…やりづらい!!
「あ、やっぱ歩きじゃなくていいよ。行きは坂でも帰りは下りだし。私スピード出して坂下るの好きなんだ」
「そっか」
「蛍ちゃん、ありがとうね」
「どういたしまして〜今日ありがとうって言われんの何回目だろこれ、ちゃんと伝わってるよ」
「どうしても言いたくなるというか…」
「そう? なら好きにいくらでも言えばいいよ。私も感謝される分には気分いいしさ」
「…病室であんな空気感見させられることになっちゃっても引かないの蛍ちゃんくらいだよ」
「もしかして私ディスられてる?」
「違うよ! ありがとうってこと」
「ならいいけど〜 デカい下り坂来るよー!!」
「はーい…ってうわああああぁあああ!?!?!?」
「ひゃっふぅ〜!!!きもちぃーー!!」
「なになに!?下り坂怖い!!蛍ちゃんスピード落として!!!」
「ちょ、何ー!? 風で聞こえなーい!!」
「ねぇ蛍ちゃん!? わざとだよね!? 絶対聞こえてるよね!?」
「……」
「無視やめて!?!?」
小さい頃から人とのコミニケーションが苦手だったわけじゃない。かと言って得意なわけでもなかったけど、普通だった。今思えばそれも小さな子供だったからこそだと思う。
ただ嬉しいとか、悲しいとか、感情に薄く鈍い。
『この前の遠足、うちの子随分楽しかったみたいでさぁ、遠足の話いっぱい聞かせてくれるんだ〜次の遠足はいつ?って何回も聞いてくるよ笑』
『え〜そうなんだぁ。可愛い〜笑』
『充(みつる)くんも遠足楽しかった?』
『たのしい…?別にたのしくもなかったよ』
『あら…』
『あー、充はクールなのよね』
『そっかぁ〜…』
僕が話せば人は固まったようにじっとこちらを見つめてくる微妙な反応をするというのはよくあることで、その度母さんが口癖のように、「この子クールなのよ」と付け足していたのをよく覚えている。
みんなが楽しんでいたり悲しんでいる中、僕だけいつも感情が変わらなかった。
それは小学校に上がって考える力がついて、何となく、自分が周りとどこかズレがあることに薄々気づいてきた。
だんだんと、人間である限り人間社会で生きるしか無くて
多分、人間社会で生きてゆくにはこのままじゃダメなんだろうということは分かった。
でもやっぱり、よく分からずにいる。
他人の感情も、自分の感情も。
嬉しいって、何?
悲しいって、何?
どこから来るものなの?
どうやって分かるの?
小学四年生の時、飼っていた二歳のハムスターが死んだ。
小屋ハウスに入り大鋸屑に埋まって寝ている様子が透明なゲージ越しに見えた。でも血色が無く硬直しているかのようにぴくりとも動かない寝顔が不自然で、確認したら死んでいた。
どうしようもなく、とりあえず母さんの許へ死んだハムスターを掌の上に乗せて見せに行くと、ハムスターの死体を見て後ろへと引き気味になって微妙な反応をしてから、僕から死体を両手で受け取ると、『冷たいね』と震える声で言いながら涙ぐんでいた。
僕をふと見ると、『一生懸命、毎日お世話してたのに悲しいね。我慢しないで泣いていいんだよ』と言ってきた。
悲しい?我慢?泣く?
まずそんな感情は湧いてこなくて、母さんにそう言われてから悲しいことなんだと気づいた。
数日前から水や餌が全く減っていなく、大好きなおやつを与えても食べなかった。散歩のためにゲージから出しても動きが悪く、ほぼ歩かなかった。
元々ハムスターは短命だって分かってたんだ。
——-短命だって分かってたから死んでも悲しくなかったの?
短命だって分かってなくて、死んだら悲しかったの?
違う、そういうことじゃない。
きっと、僕はどうであれ毎日こまめに世話をしてきたこのハムスターが死んでも、悲しく思わない。
目の前の眉尻を下げた母さんを見た。
…じゃあ、母さんが死んだら?
前母さんが観ていたドラマに、主人公の母親が死ぬシーンがあった。主人公は嗚咽して苦しそうにしながら、目からは涙が頻りに溢れ出していた。それを観ている母さんも顔を顰めて泣いていた。
死ぬってことは悲しいことで、親が死ぬというのはかなり悲しいことらしい。
想像してみた。
…
…
…
…あれ
母さんが死んでも悲しく思わず、涙が出なければ、そんな僕は人ではないってことになるんじゃないのか?そしてその時は、それを認めざるを得ないんじゃないのだろうか。
そうして時の流れは変わらず進んで、そのまま中学生になった。
クラスメイトの女子に告白されて、付き合うことになった。
好きとか嫌いとか分からないし、断る理由が無かった。
ある日こんなことを言われた
『見て!このヘアピンね、昨日一目惚れして買ったんだ〜!』
『そうなんだ』
『ね、可愛い?』
『—あ…』
どうにも喉が詰まった
言葉がうまく出てこない、それ以前にどんな言葉を発せばいいのか脳内で処理できていなかった。
なんで可愛いかを聞くんだろう。
そもそも可愛いってなんだろう?どんな感情?
髪を留めるもの。ヘアピンにそれ以上のものを見出すのはどうしても難しかった。
『ねぇ聞いてるー?』
『…分からない』
『…え?』
小さい頃から今まで、よく見てきた表情だった
どんな感情なのか分からないが、微妙な反応。
この反応はあまりよくないものだというのは分かる。
きっとこの場に母さんがいたら『この子クールなのよ』って付け足すだろう。
じゃあなんて言えばよかったんだろう。
どうして欲しいんだ?
分からないんだ。
結局彼女とは長くも続かず後に振られた。
『分からないって口癖みたいに言うよね。
あ! ああいう時でさえそう。はぁ、ホント空気読めないよね。可愛いか聞かれたらさ、嘘でもいいから可愛いって言ってくれればいいじゃん! こっちが意味分かんないわ。もういいよ。充なんて知らない』
ある日母さんの買い出しについて行って荷物持ちをしていた時、ふと帰路で母さんがこう話しかけてきた。
『今日のスーパーのレジ店員、イライラしてたんだか商品の扱いが雑でカゴに入れる時なんかほぼ投げてたわね。レジの操作ミスも多くてその度に舌打ちしてて、何であの人雇ったのかしら。ホント最悪よ。感じ悪いわよねー』
『……』
『ちょっと、聞いてんの? 人が話しかけてるんだから何とか言いなさいよ』
『…僕は分からない』
『…充、よくそれ言うわよねー。愛情表現もして笑いかけて接してきたけど…』
『感情に乏しいだなんて、どこで育て方間違えたのかしら』
目を合わせず呟くような母さんの言葉で、ハッキリと認識した。
あ、やっぱり僕の“これ”って間違いなんだ。
人とのコミニケーションの中僕がふと何かいう度、その場はスムーズにいかなくなって、相手側の微妙な反応が目立つ。
それはとてもやりづらい。
話を振られてもだいたいが意図が分からなかったり、僕には無い概念を問われるので、そんなコミニケーションというのは数学の勉強をするよりもうんと難しくて、考えたところで答えが出ることはなく、果てしない宇宙に放りやられているような気がする。
数学には必ず答えがあって、考えれば分かるし、考えて分からなくても教科書が答えを説明をしてくれる。コミニケーションをとるより数学のワークをしている方がよっぽどいい。
でもそれからはみんなの共通意識を気にして、自分もそれに合わせるようになった。
みんなと同じように。共通意識を持っているように振る舞わなくては。
僕は元々間違っていて、間違っていることにも自分じゃ気づけないから、絶対に本音を出さないように。僕を出さないように。
そうして分かったのは、
人は共感を求めて、共感で繋がるようで。
『可愛い?』と聞かれたら『可愛いね』
『これ良くね?』と聞かれたら『良いね』
『数学の先生うざくね?』と聞かれたら『うざいよね』
と、同調することで微妙な反応をされることもなく、人間社会に今までよりずっと馴染めた。宇宙を彷徨うこともない。
きっとこれが正解なんだ。
相変わらずどうしてそんなことを聞くのか、その物事に対して何故そんな概念があるのかは分からない。
おかげですっかりコミニケーションに苦手意識が根付いた。
水面下だけで、僕と人の間にはどうやったってなくならなくて、なくしてはいけない壁があって、いつも壁越しだ。見えなくて聞こえずらい中、会話をするのは簡単でも無い。
だからなるべく人を避けて、やり過ごす。
多くの人が感じる好印象というのは笑顔で、
笑顔でいればどうであれなんとなくやり過ごせた
笑顔と同調は、僕の生きる為の大事な仮面だ。
これがあればきっとうまく行くはず。
そうして高校生になり、また女子に告白され断る理由が見つからなくて付き合った。
ある日、彼女に昼休みにLINEで体育倉庫裏に呼び出された。
「…何も聞かないけど、気にならないわけ?」
こういう聞き方をされるのは正直苦手だ。だけど気にならないよね?より、充は気にならないの?って聞き方に似てる。だからこれに同調するなら…
「気になるよ」
「はぁ…」
よし、あの微妙な反応はしてないな。間違えてないはず。
「…最初は充くんのこと、寡黙でミステリアスなのかっこいいなって思ってたけどさ、付き合ってからも話しかけたりデート誘うのも何をするにも私からだけだよね。そっちから来てもらったこと一度もないんだけど。
本当に私のこと好きなのかなとか、それ以前に私の勘違いとかじゃなくちゃんと付き合ってるのか不安になるんだけど」
「君のこと好きだし、僕たちは付き合ってるよ」
「いっつもそうやって言うけど、私が気づいてないとでも思った?明らかに趣味悪いの選んで『これよくない?』とか『可愛くない?』とか聞いてみても必ず同調するよね。適当に話合わせたり、可愛いとか好きとか言って騙せてるとでも思ってる?
私の気持ちなんて全然分かってくれてない。
充くんは何かいつも大事なところが全然見えなくて、どんなこと思って考えてるのかもよく分からないし…
本当は私に興味ないんじゃないの?」
「……」
「無言?」
「いや、その…」
「…いいよ、分かってたから。どうせこんなこと言われても困るだけだろうなって。普段から誰とも深く関わらないし、なんか壁があって寄せ付けない感じで。でも私はそんなあなたと付き合えたから、充くんの特別になれるなんて思ったのが馬鹿みたい。
…やるにしてもどれだけ私が頑張っても勃たないし。
緊張してるのかなとか思って目逸らそうと思ったけど、やっぱりおかしいよ。好きな子相手なら普通勃つでしょ。
私、充くんといても自信無くすだけだよ。
きっと最初からずっと私の一方的な想いだったんだろうね。
今まで短い間だったけど、わざわざ私に付き合ってくれてどうもありがとう。さよなら」
あれ、
あれ…?
何で?なんで?
うまくいかなかった…?
彼女は僕に背中を向けて、歩き始めた。
数歩進んだところで足を止め、肩越しに振り向いて言った。
「あといつも笑顔だけどさ、」
「それ、やめたほうがいいよ。気持ち悪い」
彼女の足音が遠ぬいていって、聞こえなくなる。
茫然と立ち尽くして、状況が飲み込めずにいる。
うまくやれていたつもりが、同調も笑顔も全否定されてしまった。またこれも間違いだったのか?
宇宙だ
暗くて果てしない宇宙に閉じ込められてしまう…
分からない、分からない…
結局、僕には隠しても隠しきれない、人間社会で生きていくに大切なものが圧倒的に足りないんだろう。
「…あ」
体育倉庫の窓に自分の顔が映っていた。
頬を掌で拭うと、冷たく濡れた。
あぁ、すごい…初めてこうして自分の涙を見た
「なんだ、泣けるんだ…いよいよ感情無いのかと思ってた…」
自分の中の嫌なものに触れる
学校、
そう学校。
学校は、自分の繊細で一番弱いところに安易に踏み入れられる機会があまりにも多過ぎて
呼吸がしづらい
空っぽで
寒くて
暗くて
狭くて
淋しい
そんな場所に踏み入れられて
荒らして散らかして
持ち込んだ異物ゴミを散乱させた状態で
身勝手にまた消える
都合良くぞんざいに髪を鷲掴みにされて
気分でよしよし愛でて
飽きたら投げ飛ばして
水に沈めたり
シャーペンで皮膚を刺したり
そうやって愉しんで
ぼろぼろにして眼中から外す
ちょっと、
嫌だなぁ
汚い
みんなが
汚い
私も
汚い
ぐちゃぐちゃになってしまって
どれだけ洗ってもぼろぼろで醜くて汚く感じる
ああ、穢されてしまったんだなぁ
って
その度思う
真っ暗だ
脚が重い
瞼を開きたくない
朝日が眩しくて疎ましい
楽になれる方法ばかり考えるけど
そもそも楽になろうと踏み出すことすら億劫で
ほんのちょっとの勇気も何も無くて
全ては思うだけ
『このまま消えたい』
考えるだけ
『ドアノブに紐をかけて…吊るせば…』
言ってみるだけ
「死にたい」
行動が共わず
今日もまた何にもならない
塊のようにして
蹲る
うだるような暑さの中
蝉の鳴き声がせき立ててくる
絶えず校庭の砂に汗が落ちた。
けど君の纏う空気は、
何故だかいつも涼しい風が抜けていた
そんな君がどうにも特別に見えて
涼しげで、冷ややかで、凛とした姿勢の貴方が、僕の夏の風鈴でした。
視界が歪むような陽射しに当てられて
体に重く張り付く制服
そんな中
爽やかで心地良く鼻腔をくすぐる君の匂いは、
ついすれ違う度に振り向いてしまいます
まっすぐなロングの黒髪が静かに揺れる後ろ姿を、
ついつい眺め続けてしまいます。
静かで鋭く通る君の声は鮮明に耳に飛び込んできて、
その度に、
ついつい声の方向へ顔を向けてしまう
そんな時だけは、
五月蝿い蝉の鳴き声も聞こえなくなって
僕の世界は君が中心で全てになる。
いつも静かで落ち着いている。冷たい水の中で静止したように沈澱した君の瞳。
その視線を受けてしまったら、
きっと凍ってしまうように冷たいのでしょう
そんなのがちょっぴり、
いや、とっても恐い
けど君から目を離せずにいる
手の届くような場所にいるはずのない、君
声をかければ届く距離でも、
君はずっとずっと遠くにいるようだ
氷のような君は恐ろしいけど、
とても美しい。
別々の高校に行きますが、貴方のことはいつになっても、きっと忘れられません。
勇気が出ないながらにも、気持ちは伝えたくて
読んでもらえたらとても嬉しいです。
君が、好きです。
———って…キモ。
何これ? 誰だよ
静かで鋭く通る声に残されたゴミ箱には、雑に破かれた子綺麗な白いレター。そこに綴られた嫋やかな達筆の文字が欠けていて、それはやけに目立つ。
彼の気持ちは届いたことになるのか否か。
今年の抱負は、
“マイペースに”と、“良いと思うことをする。”
あとダイエットや夢を目指すための努力を、ですかねぇ
今年はマイペースで不安を感じても押しつぶされず気楽にいけたらなぁと思います。
柔らかい雨が瞼に落ちた
頬を伝って首をなぞる
触れる感覚は柔らかいのに、温度は酷く冷たくて、皮膚をツンと刺す。
やがてその雨粒は垂れていき、学ランに滲んだ
ハラハラと静かに音を立ててそれはやってきた。
数粒が重なりやがて一つの大きな音となり、俺の日常の背景となる。
ぼーっと止みそうにない雨を眺めていると、隣から柔らかい声が聞こえてきた。そう…この子はまるでこの雨みたいなんだ。
「ねぇねぇみっくん、あの蜘蛛の巣、雨粒がついて綺麗だよ。」
こう言って俺の目を見て、花がほころんだように微笑む彼女の名前は、内田 華(うちだ はな)だ。そして、俺の好きな人だ。現在付き合っている。
素敵な笑顔をする人だ。
「ホントだ。今日は米粒にも満たないような小さな雨粒だから、蜘蛛の巣についている雨粒も繊細な感じがするね。」
「…ふふっ」
「なに。」
「どこでそんな色んな言葉覚えてきたの?いつも単純明快な単語しか使わないし、何なら擬音ばっかのみっくんが笑」
「…俺は元々こうだよ」
「うっそだぁ!」
「嘘じゃない。」
「まぁそういうことにしておいてあげるよ〜笑いつのまにか自分のこと{俺}って言うようになっちゃって!そうだよねーずっと{僕}じゃ恥ずかしいもんね〜!」
突然だが俺の名前は東野 海斗(とうの かいと)だ。
お分かりいただけるだろうか?彼女が呼んでいる「みっくん」という呼び名にはかすりもしない名前だ。
だが俺はみっくんということになっている。
みっくんというのはそもそも誰なのか、という話になるよな。
それは、内田さんの彼氏だ。
ん?俺が彼氏なんじゃないのかって?そうだよ。俺も内田さんの彼氏だ。だけどみっくんも内田さんの彼氏だ。
厳密にいうと、俺が内田さんの彼氏なわけではない。
みっくんとしての俺が、内田さんの彼氏なのだ。
それは今日みたいな雨の日。
下校中に道路の片隅で、うずくまって雨に濡れている内田さんがいた。
傘をそっと差し出して、
「こんなところで何してるの?」
と声をかけた。
顔をゆらりと上げた内田さんは、鼻を赤くして目からはしきりに大粒の雨…涙が溢れ出ていた。
そんな彼女を前に、俺も自然と気持ちが沈む。
ついその涙を指で拭ってしまった。
内田さんの顔に触れてしまった…!
なんて思っていると、
内田さんは、
「そばにいて…」
と細々しく呟いた。
不本意ながらも隣に一緒に座り込み、彼女へ傘を差し出しながら、そばにいた。
頭上に降り頻る冷たい雨は毛先へ雫をつくる。
冷たい雨水がズボンに触れ、滲み広がる。
学校はこの話題でもちきりだったから、情報に疎い俺も知っている。
内田さんの彼氏の早見 道翔(はやみ みちと)が、内田さんとの下校中に突っ込んできた自動車から内田さんを庇って亡くなった。
この次の日。内田さんは事があった翌日から、相変わらず普通に登校している。
俺は内田さんを何かと気にかけ、できる限りの事をして寄り添った。
「東野くんは優しいね。」
内田さんからそんなことを言われ、少し照れくさくなる。でも、彼氏の死を悲しんでいる内田さんを前に、迂闊に喜べる気にはならない。
喜んではいけないだろう。
内田さんはやがて、悲しみ、悔しさ、罪悪感、喪失感、俺には到底分かりきれない色んな感情から、俺のことをみっくんだと思い込むようになった。
何度も何度も「俺はみっくんじゃない」と伝えた。
「俺はみっくんじゃない」同じようにまたそう伝えたある時、彼女がただ静かに穏やかに、心が張り裂けそうな笑顔を浮かび上げた。
それは今にも消えてしまいそうで、彼女の腕を咄嗟に掴んだ。呼び止めようと思った。何から止めるんだ?そんなの分からない。分からないけど、今この手を放してしまえば、確実に消える。そう直感的に思ったんだ。
俺は口を開いたが、すぐに力無く閉ざすことになった。
声が出なかったんだ。少しでも音を出したら崩れ散ってしまうような脆さを感じた。
恐怖と緊迫感であふれ、自分が冷や汗でずぶ濡れになっているのに気付いたのは、
「もう、行こっか。みっくん。」
と彼女が花がほころんだような、優しくて親しみのある、愛らしい笑顔で俺に話しかけた時だった。
そんな笑顔は“みっくん”にだけ向ける笑顔。
俺はみっくんじゃないと伝えたのはこれが最後だ。
俺はみっくんだと肯定もしないが、否定することをやめた。
「みっくん」でいることにした。
「くん…みっくん!」
「えっ?」
「何ぼーっとしてんのー!バス来たよ。」
「ああ…」
「?」
内田さんが不思議そうな表情をして俺の顔をじっと見つめる。
その目はどこかあどけなさを感じる。
俺はあくまで内田さんの好きな人の代わりで、その目は俺自身を見ているわけじゃない。
俺を通して「みっくん」を見つめている。
俺は今内田さんの彼氏だけど、俺自身と内田さんでは、いつまでも恋人とは近いようで一番遠い場所にいる。
あぁ、なんでこんなことに。
なんて悲しき、運命なのだろうか。