どこかにいる おばけ

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小さな勇気、それが何となく湧いた
すると何となくそのまま脅威を溶かした
驚く程何気ない
それもきっと、
隣にあの子が居たから。
隣のあの子を信じたから。

冷たいシーツの温度は鮮明に覚えている
隣の家からはいつも和気藹々としたひだまりが聞こえてくる
静まり返った僕独りの家の中にそれがよく響く。
あの人がこの家で吐いた霜は消えることなく残り続けていて、ずっと侵食が止まない。
ずっと居れば、きっと僕ごと凍りついてしまうだろう。
たまらなくなって階段を駆け上がって、ベットへ飛び込む。
布団の上でシーツに包まる
天窓から差し込む朝の光はどうにも眩しくて
どうにも何処にも無いような気持ちが浮き彫りになる。
だけどそんなのもどうでも良い気がする
ただ無抵抗に、眩しさと温かさに当てられたい。


いつもの通学路。
丸まった背中と俯いた頭に脚が上がっていない歩き。
前に見つけた人物へと駆け寄る。
「涼くーん!おはよー」
「蛍ちゃん…おはよう…」
「今日寝坊しちゃったけど走ったら全然間に合った!」
「そうなんだ…良かったね…」


私は去年の小学5年生の時に涼くんの隣の家に越してきた。同級生の涼くんとはそのよしみで仲良くしている。
涼くんはいつも暗めでどこかビクビクしていて、弱々しくて小さい声で話す。
笑顔は苦手のようで、眉尻は下がり目元はふにゃふにゃして悲しそうで、頬は引き攣っていてどこか強張っているような笑顔をする。

「蛍ちゃん…僕のこと、好き?」

一日に一回は必ずされるいつもの質問。
俯いたまま呟くように私に問う涼くんの手は微かに震えていて、そっと私を見て返事を待つ。何故かとても恐そうで怯えた目をしているのに、ちゃんとこちらを向いて返事を待つ。
私はしっかりと涼くんの目を見て、いつもと同じ返事をする。

「大好きだよ」

涼くんは私の返事を聞いて、肩の力が抜けたように息を吐く。毎日見ていて思うが、あの質問をするとき涼くんは息が止まっている。
それほど緊迫した想いを抱えているのだろうか。私は踏み込めない。涼くんの繊細なところに、間違って土足で踏み入るなんてことがあれば私は立ち直れないから。涼くんが話してくれる日が来なくてもいい。ただ側にいて欲しい時に側にいれるように、もし話したくなった時はしっかり聞けるように、友達としてちゃんと力になりたい。

涼くんがふにゃっとぎごちなく私に笑いかけるので、私も満面の笑みを返す。

「うわっ、またその笑み! 気持ちワルっ!」

通りすがりの男子が涼くんを指さして小馬鹿にする。

「うっさい! どこが気持ち悪いんだよ!! お前の方が気持ち悪いから安心して黙れ!!」
「はぁ!? ふざけんなブス蛍!!!」

男子は吐き捨てるようにして走っていく。

「蛍ちゃん…ごめんね…」
「何で涼くんが謝るの!」
「蛍ちゃんに迷惑かけちゃって…」
「私、迷惑だなんて思ってないよ。勝手に言い返してるだけだしさ。涼くんは何も悪いことしてないでしょ、謝らないで。一人で抱え込まないでもっと頼ってくれていいんだよ」
「うん…ありがとう…」

俯いたまま返事をした涼くんは、殻に閉じこもって独りぼっちみたいだ。

「友達なんだからさ、どんなことでもいいから手助けさせて欲しいな。私は涼くんと友達だと思ってるんだけど、涼くんは違う?」
「蛍ちゃんは僕の大切な友達だよ…」

少し顔をあげて私を見て答えた涼くんは笑顔を作らなかったけど、どこか温かい目をしていて、微笑んでいる気がしたのはただの気のせいでしかないだろうか。
そんなことをふと思うと、すぐにまた俯いてしまい、涼くんの暗がった虚ろな横顔だけが見える。
それはどうにも私の心にささくれのようなものを作る。

「涼くん、気持ち悪くなんてないんだからね。あんなのを気に留めなくていいよ」
「蛍ちゃん…でも本当のことだよ…うまく笑えないし…ほんと、気持ち悪いよ…」
「涼くん…私は気持ち悪いなんて一ミリも思ってないんだからね!! だけど私がそう思ってたとしても、涼くんの笑顔がどうかなんて人が決める権利無いんだよ。涼くんのものは涼くんが決めるの。自分で気持ち悪いって思ったら気持ち悪いことになっちゃうんだよ。涼くん、自分で決めて」
「え、えぇ…自分で…? そう言われても…」
「さっき気持ち悪いって言ったアイツと気持ち悪く無いって言った私、どっちの言葉を信じたいの?」
「そんな……分からないよ」
「友達を信じてみてもいいんじゃない?」
「なら…——蛍ちゃんを…信じたい、かな…」
「じゃあ私を信じるって決めてね。涼くんの笑顔は、気持ち悪く無い」
「分かった…ごめんね」
「次からはごめんねじゃなくてありがとうが聞きたいかな」



「はっ、はっ…け、けいちゃ…蛍ちゃん待たせてごめん…!!」
「大丈夫? 水飲みな。焦ることないよ、そんなに待ってないしさ」
「……」

俯き込んでしまった涼くんの顔が全く見えない。

「涼くん? どうした?」
「僕のこと…嫌いになった…?」
「えっ、嫌いになんてならないよ」
「蛍ちゃんは他にたくさん友達いるのに…僕なんかと帰ってくれてるわけで…それなのに待たせるなんて…もう一緒に居たくないよね…嫌いになったよね…」

真っ黒で何も映ってない涼くんの眼は心の窓で、涼くんの心の中の禍々しい煮詰めたような闇が垣間見える。
涼くんはたまにたくさんの不安が溢れてしまう。

「涼くん、大丈夫だよ。大丈夫だから。私はこれからもこれまでもずっと涼くんが大好きだよ。不安になればいつでも聞けばいいし、何度でもいつでも私は涼くんが大好きなことちゃんと伝えるよ」

少しずつ涼くんの眼に私が映っていく。

「私は涼くんと一緒に帰りたいから帰ってるんだよ。私が涼くんを待たせちゃう時もあるしお互い様だよ」
「あ…蛍ちゃん…」
「うん。ここにいるよ。帰ろっか」




「じゃあ蛍ちゃん…ばいばい…」
「また明日ねー!」

《プルルルルル…プルルルルル…》

「…もしもし………え、」


「涼くーん! 私鍵を家の中に忘れたみたいでさー、誰もいなくて入れないからごめんけど涼くんの家お邪魔してもいい?」
「蛍ちゃん…僕今から行かないと…」
「あ、これから出掛ける?」
「総合病院…お母さんが交通事故で救急搬送されたって…」
「えぇ!?」
「さっきスマホに…病院から連絡あって…」
「早く行かないとじゃん! でも車は無いし…自転車か?」
「歩き…」
「へ!? 自転車ならまだしも徒歩だと結構距離あるよね」
「僕…自転車なくて」
「私の貸すよ!」
「僕…自転車乗れないんだ…」
「え!? えーと、えーと…あ、私のママチャリだから後ろ乗れるよ! 私が漕ぐから後ろ乗って!」



「蛍ちゃん、ごめんね…大丈夫?」
「だ、だいじょぶ…早く…院内入って…病室案内してもらいな…」
「…蛍ちゃんも一緒に来てくれない?」
「………え?」

病院への道のりは何故か坂道が多くて、涼くんは見かけによらず重かった。着いた時はもう脚がガクブルしてて息も上がって酸欠でクラクラしていた。
涼くんに頼まれて、肩を貸してもらいながら一緒に病室へ向かった。


病室前の椅子に座らせられるかと思いきや涼くんはそのまま私を連れて病室に入ろうとするので一応引き留める。

「涼くん、私はここで待機してた方がいいんじゃ…」
「……お母さんと二人きりなんていつぶりかな…蛍ちゃんも一緒に来てよ。友達だから手助けさせて欲しいって…私を信じるって決めてって…言ってたよね。嘘だったの?」
「ぐっ、涼くんかわいくない…」
「かわいくなくて結構だよ…」

確かにそうは言ったし全然良いのだけれど…何か、なんか…言い方よ…!!
涼くんと私は一緒に病室へ入りカーテンを開けると、ベットには涼くんのお母さんが横たわって眠っていた。頭に包帯を巻いて首と腕にギブスをし、顔にはガーゼが。酸素マスクが曇っていた。

「……」

一言も話さずただお母さんを見つめる涼くんからは、驚く程何の感情も見えなかった。
ここまで病院に来るまでも着いても病室までの道中も、涼くんはやけに冷静で、それもそれで大丈夫かと心配でたまらない。
確かに家が隣で涼くんの友達なのだけれど、涼くんのお母さんは家にいることが無く、お父さんはいないようなので涼くんの家族との面識は一切無い。やはり状況を整理してみると何だか私はこの病室の中で部外者感がある気がしてきたのでなるべく気配を消していたその時だった。
お母さんが目を覚ました。

「…お母さん、調子はどう?」
「………せっか、く…近頃顔を合わ、せず…忘れられてた、のに…でき、れば二度と…見たくなかっ、た…顔だわ…」
「……」

お母さんは出し辛そうな掠れた声で、酸素マスク越しに話した。だがしかしだ、まさかのドン引き発言に私は驚きつつも、何も言わずに立ち尽くす涼くんの感情はやはり見えない。強いて言うならば、どこか冷ややかなような…
そういえば薄々思ってたけど、なんだろう。どうしてか今の涼くんは背中がまっすぐで、いつものビクビクした様子がない。

「お母さん、僕のこと、好き?」

あれ、いつもの質問だ。
でもいつもと違うのは、俯くことも怯えることもない。ハキハキとまっすぐお母さんを見下ろして、問う。

「嫌い」

お母さんは先程のように掠れることなく、やけにハッキリと通った一言が放った。それは冷たく鋭く、狭い病室によく響き渡った。
病室がどんどん霜で覆われて、凍っていくようだ。


「はははっ」


その時、霜や凍りも涼くんの笑い声で全て消え去った。
全てを溶かすように。

私はこの時初めて涼くんの笑い声を聞いた。
溢れるように出た高めの笑い声が、静かな病室に響き渡った。


「知ってた。」


弱々しくも小さくもない、普通の声。呟くような一言と共に、初めて涼くんは普通に笑った。
普通の笑顔だった。
ふにゃふにゃもしていないし、引き攣って強張ってもいない。
涼くんの自然に溢れるような笑顔。
もしかしたら、私はこの時初めて涼くんの笑顔を見たのかもしれない。

唖然と瞬きを繰り返す私に、涼くんは構わず普通に話しかける。

「蛍ちゃん、ありがとうね。帰ろう」
「……ん? え、何? ふあ?」
「…」

涼くんはアホらしい返答をする私へニコッと爽やかな微笑みを向けて、静かに私の腕を引いて病室から一緒に出る。
混乱しながらも大人しくそれに従う。


「…ちゃん、蛍ちゃん聞いてる?」
「んあ? あ、ごめん。何?」
「大変そうだったし帰りは僕が自転車ひくから、歩いて帰ろう」
「あ、はい。そうですね…」
「なんで敬語?」
「いや…」

笑い声も初めて聞いたし…見たことない笑顔見て…あの爽やかな微笑みができるのももうわけわからんし
笑顔苦手ってなんぞや??
しかも一番の違和感はやっぱこれ!
背筋伸びてんなぁ 口調ハキハキしてんなぁ
こんな身長高かったっけ?
何だか急にしっかりしちゃってさぁ…
親戚の少年が久しぶりに会ったら青年になってて成長や変化を感じると言うかなんというか…そのくらいの変化が短時間に起こればそりゃ混乱もするよ
涼くんが普通すぎるのが逆におかしいと思うよ!?
自分では分からないものかな…

「? 蛍ちゃん、そこで突っ立って何してるの。早く帰ろう」
「あぁ、はいはい」
「今日は一緒に来てくれてありがとう。筋肉痛になったらごめんね」
「うん、全然おっけー…だいじょぶ…」

やっぱりムズムズするなぁ…やりづらい!!

「あ、やっぱ歩きじゃなくていいよ。行きは坂でも帰りは下りだし」
「そっか」


「蛍ちゃん、ありがとうね」
「どういたしまして〜今日ありがとうって言われんの何回目だろこれ、ちゃんと伝わってるよ」
「どうしても言いたくなるというか…」
「そう? なら好きにいくらでも言えばいいよ。私も感謝される分には気分いいしさ」
「…病室であんな空気感見させられることになっちゃっても引かないの蛍ちゃんくらいだよ」
「もしかして私ディスられてる?」
「違うよ! ありがとうってこと」
「ならいいけど〜 デカい下り坂来るよー!!」
「はーい…ってうわああああぁあああ!?!?!?」
「ひゃっふぅ〜!!!きもちぃーー!!」
「なになに!?下り坂怖い!!蛍ちゃんスピード落として!!!」
「ちょ、何ー!? 風で聞こえなーい!!
「ねぇ蛍ちゃん!? わざとだよね!? 絶対聞こえてるよね!?」
「……」
「無視やめて!?!?」



1/28/2025, 5:37:35 AM