定まらない

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柔らかい雨が瞼に落ちた
頬を伝って首をなぞる
触れる感覚は柔らかいのに、温度は酷く冷たくて、皮膚をツンと刺す。
やがてその雨粒は垂れていき、学ランに滲んだ
ハラハラと静かに音を立ててそれはやってきた。
数粒が重なりやがて一つの大きな音となり、俺の日常の背景となる。

ぼーっと止みそうにない雨を眺めていると、隣から柔らかい声が聞こえてきた。そう…この子はまるでこの雨みたいなんだ。

「ねぇねぇみっくん、あの蜘蛛の巣、雨粒がついて綺麗だよ」
蜘蛛の巣を指差しながら嬉しそうに話す彼女。俺と目を合わせれば花がほころんだように微笑むこの子の名前は、内田 華。俺の好きな人であり、付き合っている。
素敵な笑顔をする人だ。
「ホントだ。今日は米粒にも満たないような小さな雨粒だから、蜘蛛の巣についている雨粒も繊細な感じがするね」
「…ふふっ」
「なに。」
「どこでそんなに色んな言葉覚えてきたの?いつも単純明快な単語しか使わないし、何なら擬音ばっかのみっくんがぁ〜!」
「…俺は元々こうだよ」
「うっそだぁ!」
「嘘じゃないよ」
「まぁそういうことにしておいてあげるっ!
そうだよねぇ、一人称だっていつのまにか俺って言うようになっちゃって。そっかぁ〜ずっと僕じゃ恥ずかしいかぁ〜」

いたずらげに笑っては楽しそうに揶揄う。

突然だが俺の名前は東野 海斗だ。
お分かりいただけるだろうか?彼女が呼んでいる「みっくん」という呼び名にはかすりもしない名前だ。
だが俺はみっくんということになっている。

みっくんというのはそもそも誰なのか、という話になるよな。
それは、内田さんの彼氏だ。
ん?俺が彼氏なんじゃないのかって?そうだよ。俺も内田さんの彼氏だ。だけどみっくんも内田さんの彼氏だ。
そもそもの話。厳密にいうと、俺が内田さんの彼氏なわけではないんだ。
みっくんとしての俺が、内田さんの彼氏なのだ。


それは、今日みたいな雨の日。
下校中に道路の片隅にうずくまって、雨に濡れている内田さんがいた。
傘をそっと差し出して、
「こんなところで何してるの?」
と声をかけた。
顔をゆらりと上げた内田さんは、鼻を赤くして目からはしきりに大粒の雨…涙が溢れ出ていた。
そんな彼女を前に、俺も自然と気持ちが沈む。
ついその涙を指で拭ってしまった。
内田さんの顔に触れてしまった…!
なんて思っていると、
内田さんは、
「そばにいて…」
と細々しく呟いた。
不本意ながらも隣に一緒に座り込み、彼女へ傘を差し出しながら、そばにいた。
頭上に降り頻る冷たい雨は毛先へ雫をつくる。
冷たい雨水がズボンに触れ、滲み広がる。
ここら一帯をざわつかせたので、当然学校でもこの話題でもちきりだった。だから情報に疎い俺でも知っている。
内田さんの彼氏の早見 道翔が、下校中に突っ込んできた自動車から、内田さんを庇って亡くなった。


この次の日。内田さんは事があった翌日から、相変わらず普通に登校している。
俺は内田さんを何かと気にかけ、できる限りの事をして寄り添った。
「東野くんは優しいね。」
内田さんからそんなことを言われ、少し照れくさくなる。でも、彼氏の死を悲しんでいる内田さんを前に、迂闊に喜べる気にはならない。
喜んではいけないだろう。
内田さんはやがて、悲しみ、悔しさ、罪悪感、喪失感、俺には到底分かりきれない色んな感情から、俺のことをみっくんだと思い込むようになった。
何度も何度も「俺はみっくんじゃない」と伝えた。
「俺はみっくんじゃない」同じようにまたそう伝えたある時、彼女がただただ静かに穏やかに、心が張り裂けそうな笑顔を浮かび上げた。
それは今にも消えてしまいそうで、咄嗟に彼女の腕を掴んだ。呼び止めようと思った。何から止めるんだ?そんなの分からない。分からないけど、今この手を放してしまえば、確実に消える。直感でしかないけど、瞬間的に強くそう思ったんだ。
俺は口を開いたが、すぐに力無く閉ざすことになった。
声が出なかったんだ。少しでも音を出したら崩れ散ってしまうような脆さを感じた。
正体の知れない恐怖と緊迫感であふれた。自分が冷や汗でずぶ濡れになっているのに気付いたのは、
「もう、行こっか。みっくん。」
と彼女が花がほころんだような、優しくて親しみのある、愛らしい笑顔で俺に話しかけた時だった。
そんな笑顔は“みっくん”にだけ向ける笑顔。


俺はみっくんじゃないと伝えたのはこれが最後だ。
俺はみっくんだと肯定もしないが、否定することをやめた。

「みっくん」でいることにした。


「くん…みっくん!」
「えっ?」
「何ぼーっとしてんのー!バス来たよっ?」
「あぁ…」
「?」

内田さんが不思議そうな表情をして俺の顔をじっと見つめる。
その目はどこかあどけなさを感じる。
俺はあくまで内田さんの好きな人の代わりで、その目は俺自身を見ているわけじゃない。
俺を通して「みっくん」を見つめている。
俺は今内田さんの彼氏だけど、俺自身と内田さんでは、いつまでも恋人とは近いようで一番遠い場所にいる。
あぁ、なんでこんなことに。
なんて悲しき、運命なのだろうか。

「ほらほら、早くー!乗り遅れちゃうよ」
「今行くよ」
「あっ、奥の席空いてる!やったぁ〜」
「……」
「みっくん?早くこっち来てよ〜」
「うん」

席に座って隣をぽんぽん指す彼女に、ゆっくり、隣へ腰掛ける。
いつも浮き足立つように駆け足気味の、跳ねた愛らしい足音。その数歩後ろに、上がらない足を前に進める俺の足音がする。

「こんな茶番、いつまで」そんな風に口にすることが許されないほどに、内田さんの瞳は無垢で。
その無垢が呪縛のように俺の足に絡みついて、足取りがひどく重い。
早見くんのお墓に手向けた百合のように、白く可憐で……
脆くて、恐ろしくてたまらない。

倦怠感と頭痛。
低気圧のせいだろうか。
いや、いつを初めとしたのか。気づけば毎日、重い。
舌が、頭が、足が……じんわりとした痺れすら纏わりついている。

どうしてこうなってしまったのか分からない。


みっくん…貴方はこんな俺を、恨んでいないでしょうか。

それでも、

俺は今日も、『みっくん』として内田さんの隣に立つ。


それが、内田さんの救いで、貴方の為で、俺の責任なのかもしれない。

11/6/2024, 1:28:24 PM