しとしとと、雨が降っている。
「まただ……」
空を見上げ、息を吐いた。足早に部屋を出て、玄関に向かう。
外に出た瞬間、鼻腔を掠める雨の匂い。部屋で見た時よりも強さを増した雨に、眉を寄せながら傘を差す。
「急がないと」
呟いて、雨の降る道を駆け出した。
ぱたぱた。雨が傘を打つ。
ぱしゃん。急ぐ足が、地面に溜まる水を跳ね上げた。
足元が濡れることなど気にならない。それよりも少しでも早く、彼女の所へ行きたかった。
何故ならば、この雨は泣かない彼女の涙なのだから。
「いらっしゃい。今日はどうしたの?」
ふわり、といつものように彼女は微笑む。
その頬に涙の跡はない。けれどよく見ると、彼女の笑顔の奥にほんの僅かに悲しみが隠れているのが感じられた。
「何となく会いたかったから」
へにゃりと笑って誤魔化した。
どこか不思議そうな顔をしながらも、彼女は何も聞くことなく部屋に招き入れてくれた。
「いつの間にか、雨が降っていたのね。気づかなかった」
「そう?あまり強くない雨だからかな」
「あなたはいつも雨の日に来てくれるのね」
くすくす笑いながら、彼女は部屋を出ていく。
しばらくして、彼女は手にティーセットを乗せたトレーを持って戻ってきた。
香る紅茶とレモン。角砂糖は二つ。目の前に置かれたティーカップを、そっと両手で包み込んだ。
伝わる熱は、きっと彼女の優しさだ。カップに口を付けながら、こっそりと窓の外を見る。
雨は止んだようだが、まだ曇り空。彼女の心模様は晴れてはいないようだ。
「おいしい」
「よかった……いつも、ありがとう」
微笑む彼女に、首を傾げた。礼を言われる理由が思いつかなかった。
「寂しかったり、悲しかったりすると、いつもあなたが来てくれるから」
「寂しくて、悲しかったの?」
「少しだけね……この家は、私には広いから」
そう言って、彼女は目を伏せた。
悲しげな表情。それでも彼女は、泣くことをしない。
外ではまた、雨が降り出している。彼女の代わりに空が泣いている。
カップを置いて、そっと彼女の手を包み込んだ。
温められた手の熱が、彼女の冷えた手へと移っていく。驚いたように顔を上げた彼女と目を合わせ、笑ってみせた。
「寂しいなら、連絡してよ。すぐに飛んでくるからさ」
彼女の悲しみは、自分では埋めてあげることはできない。泣かせてあげることだってできはしない。
けれど隣にいることくらいはできると、そう思いを込めて彼女を見つめた。
ふふ、と彼女は笑う。
そこに悲しい感情はない。嬉しそうな、とても楽しそうな顔をして、優しく頭を撫でてくれた。
「呼ぶ前にいつも来てくれるのはあなたの方じゃない……本当は、会いたいなって連絡しようかと悩んでいた所だったの」
「そっか……じゃあ呼ばれるまで、家の外で待っていればよかった」
「そこまで来たなら、待つ必要なんてないでしょ」
呆れたように、彼女は溜息を吐いた。
確かにそうだ。連絡をして数秒後にインターフォンが鳴ったら、驚くどころの話ではない。
少しだけ恥ずかしくなって、彼女から目を逸らす。誤魔化すようにカップに手を伸ばし、レモンティーの香りを吸い込んだ。
ふわりと立ち上る湯気の向こう側。窓の外で様子を伺う雨が、静かに離れて雲に帰っていく。雲の切れ間から光が差し込んで、僅かに青を覗かせている。
「雨、上がったみたいね」
「そうみたい」
レモンティーを飲みながら、横目で彼女を見る。同じようにカップを手に窓の外を見る彼女は、眩しそうに目を細めていた。
「ただの偶然なんだろうけど」
穏やかな声音。空へと視線を向ける彼女の表情も穏やかだ。
「私の代わりに、空が泣いてくれている気がするの」
気のせいだけどと繰り返す彼女に、気のせいなんかじゃないよと心の中で答えた。
彼女は知らない。彼女の優しさに救われているモノがたくさんいることを。どれだけ周りに愛され、心配されているのかを。
彼らの姿を見ることができない彼女は、きっとこれからも気づくことはない。
思わず、口元が緩んだ。
「笑わないでよ。自分でも都合が良過ぎるなって思ってるんだから」
笑われていると勘違いした彼女が、頬を赤くしながら拗ねたように呟いた。
ざわりと窓の外で、風が渦を巻いた。彼女に過保護ないくつもの冷たい視線を浴びて、浮かべた笑みに苦さが混じる。
「案外、本当なのかもしれないよ」
「別に話を合わせてくれなくてもいいんだけど」
「そんなつもりはないんだけどなぁ」
呟いて、レモンティーを飲む。
角砂糖二つ分の甘さ。それはどこか彼女の優しさに似ている気がした。
「空が泣いていると会いたくなるから。会いたくて、じっとしていられなくなる……だから、これからも雨が降ったら会いにくるよ」
「そっか……ありがとう」
柔らかな微笑み。一瞬だけ泣きそうに見えたのは、それこそ気のせいなのかもしれない。
お互い何も言わず、部屋を静寂が満たしていく。
嫌な感じはしない。レモンティーの香りと混じり合って、気持ちを穏やかにさせてくれる。
飲み終わったカップを手にしたまま、窓の外を見た。
雲が薄れ、晴れ間が覗いている。雲を透かした陽の光は、とても綺麗だった。
彼女の今日の心模様は、雨のち晴れ。
できればずっと晴れでいてほしい。皆、そう思っている。
20260423 『今日の心模様』
「あいつが、虫だ」
それは正しくはなかった。けれども誰一人、それを疑いはしなかった。
虫。穢れや厄を振り撒く悪いもの。
この村では年に一度、虫を追い出す祭りを行っている。
それは紙や藁で作った人形を村外れの川に流すもので、実際に人を追い出すことはない。
それなのに何故、あの時彼女を虫だと決めたのか。何度も繰り返す後悔は、今はただの意味のないものだ。
あの頃。村では原因不明の病気が広がっていた。
薬を飲んでも下がることのない熱。静かに村中に広がって、学校内でも皆不安に表情を曇らせていた。
「――きっとこの村に、虫がいるんだ」
誰かが言った一言が切っ掛けだった。
「虫を追い出せば、きっと病気はよくなるはず」
今まで祭りをただの行事として信じていなかったはずなのに、クラスメイトの誰もが信じていた。
「虫を探さないと」
その一言で、互いが互いを疑い始めた。
ただでさえ皆家族が熱で苦しんでいるのを見ており、そしてそれは自身にも感染するかもしれない不安を抱えていたのだ。不安は一瞬で虫という犠牲者を探す執念に変わり、クラスには疑いや怒りの言葉が響き渡った。
恐ろしかった。どうにかして止めたくて、その方法を求めてクラスを見渡した時、彼女を見てしまった。
クラスメイトと言い争うこともなく、教室の隅で悲しげな表情をしていた彼女。その様はクラスの中であからさまに浮いていた。
気づけば、彼女を指さしていた。
「あいつが、虫だ」
それは正しくはなかった。けれども誰一人、それを疑いはしなかった。
彼女も、何も言わなかった。
そして祭りを真似て、彼女を村の外れまで連れて行った。
彼女の背を押し、川を渡らせる。川を渡り切った後も、その姿が見えなくなるまで誰一人動こうとはしなかった。
「虫は、いなくなった」
誰かがそう呟いたのを覚えている。
彼女は虫ではないと、否定する言葉は一つも聞こえなかった。
次の日。彼女は学校に来なかった。
一週間経って、街から届いた薬が病気を治してくれた。
半月経って、村は元の日常を取り戻した。
けれど。
一か月以上経っても、彼女がクラスに戻ることはなかった。
何故、彼女を虫だと決めたのか。それはきっと感情のはけ口を誰もが求めていたからだ。
不安を吐き出し、見える形で安心を得たかった。たとえ間違いだったとしても、そうしなければ皆耐えきれなかった。
でも間違いだったと踏みとどまることができたのならば、きっと今も彼女は隣にいてくれた。
彼女へのプレゼントとして密かに作った押し花の栞が、今も手元に残っていることはなかったはずだった。
後悔している。彼女を虫だと追い立てたことも、春先の冷たい川を渡らせたことも、姿が見えなくなった時点ですぐに迎えに行かなかったことも。
あれからそろそろ一年が経つ。
彼女はまだ、戻ってこない。
「兄さん、ただいま」
笑顔で戻ってきた妹の姿に、境内の掃除をしていた兄は眉を顰め歩み寄った。
彼女が村を離れて一年が経つ。社の巫女として村の穢れを引き受け、流すためだとは理解してはいたが、それでも連絡一つしなかったことはそう簡単に許せるものではない。
「遅い」
「痛っ!?」
べちりと、呑気に笑う妹の頭を叩く。痛みに頭を押さえ、不貞腐れたように頬を膨らませて妹は兄を見上げた。
「遅いって……だって、村中の病だよ!それ全部引き受けて、ついでに街のお医者さんにお薬手配してもらってからお山に籠ったんだから仕方なくない!?」
「だとしても、お勤めの合間に連絡はいれられるはずだ。そもそも何で周りにしっかりと説明をしないんだ」
「え?だって皆が始めたんだよ?分かってやってたんじゃないの?」
「分かるわけがないだろ。少しは考えろ」
驚く妹に、兄は疲れたように嘆息する。
妹がいない間、どれだけの人が心配し心を痛めていたのか。彼女は少しも理解してはいなかった。
「理不尽……にしても、何ていうか村中が暗くない?厄とは違うみたいだけど」
文句を言いながら、そういえばと妹は不思議そうに首を傾げる。
やはり、何も理解していない。兄は眉間の皺を濃くしながらどう話したものかと悩む。
巫女としての資質が強いためか、妹は人よりも村として物事を見ることが多い。そのため人の機微に疎く、彼女がいなくなった後の残された者たちの想いを伝えても、そう簡単に理解することはないのだろう。
彼女を虫として送ったクラスメイトの子たちが、その当時どれほど追い詰められていたのか。そしてそれを後悔し続けているなど、想像すらしていないはずだ。
「そうだ!ちょうど虫送りの祭事が近いことだし、また虫として厄を流せば何とかなるよね?」
思わず、兄は頭を押さえた。
どうして妹はこうも察しが悪いのだろうか。
たとえ間違いだったとしても、心を守るため悲壮な決意で彼女を追い遣ったクラスメイト。
たとえ間違いだったとしても、それを本当にして引き受けた厄を流し祓えばいいと気楽に考えている彼女。
すれ違い、少しも交わることがない。
痛むこめかみを揉みながら、兄は石段へと視線を向ける。
ちょうど参拝に来たのだろう。妹のクラスメイトたちの姿が見えた。
「とりあえず、一回泣かれてこい」
「え?それってどういう……?」
何も分かっていない妹の体を反転させ、背を押した。
同時に駆け寄ってきたクラスメイトたちに囲まれ、泣かれ心配されて困惑している妹を見ながら、少しでも人に興味を持ってほしいと兄は切実に思っていた。
20260422 『たとえ間違いだったとしても』
ぽたり。
壺の中で何かが落ちる音がする。
小さく息を吐いた。
時計を確認すれば、ちょうど日付が変わった後。いつもの時間、いつもの音が聞こえたことを確認して、部屋に戻るため立ち上がる。
「まったく……何の意味があるんだか」
部屋を出て、思わず愚痴をこぼす。
亡くなった祖母の遺言でこうして毎夜壺の中の音を確認しているものの、この行為に何の意味があるのかは分からない。
触れても、中を覗いてもいけない壺。
生前、祖母に何が入っているのか聞いたことがあった。しかし彼女も何が入っているのかは知らないようで、ただ壺の中の音が聞こえなくなった時、良くないことが起こると言われているとだけ教えてくれた。
良くないこととは何なのか。音が聞こえなくなると良くないことが起こるのは何故なのか。
そもそも壺の中で何が落ちているのか。
疑問に思うことはいくつもあるが、不思議と壺の音を確認することを止めたり、中を覗こうとは思わなかった。壺があるのが当たり前であり、音を聞くのが当然だと長年の習慣から思い込んでしまっているのかもしれない。
「早く、寝ないと」
明日も早い。
軽く頭を振りながら、自室に戻るため足を速めた。
風が吹き抜けた。
目を開けるとそこは色とりどりの花が咲く、美しい花畑が広がっていた。
時折見る夢だ。視界を巡らせれば離れた場所で楽しそうに花冠を編む子供の姿が見えて、密かに眉を寄せる。
同じ景色。同じ人物。そしてこの先起こる同じやり取り。
切り取られた映像を繰り返し見ているような感覚は、あまり気分のいいものとは言えなかった。
笑い声がここまで響いてくる。
いつの間にか子供の側に、誰かが立っていた。彼女より、少しだけ年上に見える誰か。
「今回は、子供なんだ」
同じような夢の唯一の違いに、無意識に呟いていた。
前回見た時は、大人だった。その前は人ですらなかった。
見る度に姿を変える誰か。彼女は一度も気にすることはなく、作り終えたばかりの花冠をその誰かに被せている。
止めてほしい。その花を、そんな簡単に渡さないでほしい。
苛立ちにも似た訳の分からない感情が込み上げてくるのを感じながら、目の前の穏やかなやり取りを睨みつけていた。
ぴしゃん。
雫が落ちる音が聞こえた気がして、目を開けた。
カーテン越しに朝の陽射しが差し込んでいる。辺りを見回しても寝る前と変わった様子はなく、首を傾げながらもベッドから抜け出した。
身支度を整えて、カーテンを開けた。清々しい空の青さに、思わず目を細める。
「雨は降ってないか……」
やはり目覚めた時の音は気のせいだったのだろうか。どこにも雫の跡がない外の景色に、小さく息を吐いた。
壺のことを気にしすぎているのかもしれない。外にいる時くらいは家のことを忘れようと、意識を切り替えるように頭を振って、部屋を出た。
夜。
ぼんやりと、壺を見ながら音が聞こえるのを待っていた。
いつもより、時間がゆっくりと流れているような気がする。部屋の静けさが余計にそう思わせる。
昼間、あれだけ吹き荒れていたというのに、すっかり凪いでしまった風は窓枠所か、草ひとつも揺らさない。虫の鳴き声もなく、まるでこの部屋だけしか世界に存在しないかのようだ。
抱えた膝に額を当て、目を閉じる。耳を澄ませ、音を拾おうとするものの、やはり何の音も聞こえなかった。
小さく息を吐き、何気なく時計に視線を向ける。日付が変わるまでの時間を確かめようとして、目を見張った。
「過ぎてる……?」
文字盤の針は、十二時五分を示している。
壺から音は聞こえていない。この部屋に入ってから、何の音も聞いていない。
恐る恐る壺に視線を向けた。
「――っ!」
息を呑む。
壺の蓋が、開いていた。
――壺の中の音が聞こえなくなった時、良くないことが起こる。
祖母の言葉を思い出す。
良くないこととは何なのか。呆然と壺を見つめながら考える。
蓋が開いたということは、中から何かが出てきたということだろうか。部屋を見回そうとして、けれども背後から伸びた腕によって動きが止まる。
小さな腕だ。幼い子供の、時折見る夢の中で花冠を編む子のような細い腕。背中に負ぶさるような形で首に絡みつく。
花の香りがした。しかし漂う甘さの奥に、湿った匂いが混じっているのを感じる。
冷たい土のような、泥のような匂い。そこに獣の匂いが重なり、くらくらと目眩がする。
「――枯れた」
背後から、子供の声が囁く。
淡々と事実を告げる、熱のない声音。
「枯れた……」
言葉にして、唐突に理解する。
理屈ではなく、本能で全てを知ってしまった。
「神様の涙。枯れたの?」
「うん」
声が肯定する。
「神様にされた皆の涙も、枯れた?」
「うん」
「花畑も?」
「うん」
夢で見た花畑が脳裏を過ぎていく。
神様の涙で育った花畑。神様の涙が枯れたのなら、花畑も枯れるのは当然だろう。
目を閉じる。枯れてしまった花を思い、そして花畑を慰めとしてした皆のことを思って悲しくなった。
「涙が枯れ、花が枯れる。だから、この家も枯れていく」
声が告げる。
そう、と、思ったよりも素っ気ない声が出た。
当たり前だとしか思えなかった。
「全部枯れる前に、願いを叶えてあげる」
首を振る。
いらない、と口にしかけ、躊躇う。
しがみつく腕に手を重ね、祈りを込めて一つ願った。
「家が咲き誇るための神様にさせられた皆が、今度は幸せになってほしい」
「分かった」
ぎゅっと強く抱きつかれる。
ぴしり、ぱしりと音がして、目を開けた。
「壺が……」
壺に無数のヒビが入っていく。雫の音の代わりに割れる音を響かせ、跡形もなく崩れていく。
中には何もなかった。空っぽの、壺だった残骸がきらきらと煌めいて砂になって消えていく。
不意に目を塞がれた。数を数える声が響く。
一つ数える度、声が増えていく。笑う声がして、ふわりと甘い香りが鼻を掠めていく。
「――九、十!」
ゆっくり十数えて、視界を塞ぐ手を外される。
急な明るさに、思わず目を細めた。
見上げる空は青く、その下に広がるのは色とりどりの花。
「花は……枯れたって……」
思わず呟けば、くすくす笑う声が返る。
振り返れば、楽しげに笑う皆。そこに花冠を受け取るだけの部外者は存在しない。
困惑する自分に手を差し伸べ、彼女は言う。
「ここは家のための花畑じゃない。わたしたちのためだけの花畑」
「お姉ちゃん……」
夢で何度も見た花冠を編んでいた彼女。
恐る恐る手を重ねれば、強く引かれてバランス崩す。そのまま倒れ込めば、色鮮やかな花びらが空を舞った。
「もう、いいの?」
そう尋ねれば、誰もが口を揃えてもういいよ、と笑う。
もういいのか。安堵の息を吐いた。
これ以上無理矢理に生かされ、忘れさせられて、皆を監視しなくていいことに、ようやく体の力を抜いた。
「おかえり」
「ただいま」
目を合わせ、笑う。
青空の下、聞こえるのは笑い声だけ。
雫の音は、もう聞こえない。
20260421 『雫』
「願いを一つだけ叶えてやる」
無感情な声が聞こえた。けれど視界は塞がれ、何も見ることはできない。
ここはどこだろう。自分は今まで何をしていて、何の理由でここにいるのだろうか。
そんなことを考えていると、あちらこちらから願う声が聞こえてきた。
――注目されたい。有名になりたい。
――お金持ちになりたい。欲しいものを何でも買えるようなお金がほしい。
――好きな人と両想いになりたい。
例えるのならば初詣で絵馬に書くような、あるいは七夕の短冊に書くような願い事。
塞がれた視界で目を瞬いた。
声には抑揚がなく、どんな人が願い事を言っているのかは分からない。だとしても、随分と熱のない願い事だと思った。
思いが込められていないというべきか。単調な声だということを抜きにしても、本心から叶えてほしいと思っているようには思えない。
ぱちん、と音がした。その小さな音と共に、願う声は搔き消えた。
無音。願う声はあったのに、誰かの息遣いや衣擦れの音など、人が立てる音は何一つ聞こえないことに気づく。
困惑に眉が寄った。
「一つ、願いを言うといい」
先程よりも近い距離で声が聞こえた。
ざわり、と辺りの空気が揺らめく。
どうか、と願う声がして、それを口火に周囲から声があがった。
――生きたい。
――帰りたい。大切な人の所へ。
前のものよりも切実な願い。それほどまでに追い詰められてしまっているのだろうか。
生きたいと願うということは、つまり命に危険が及んでいるということだ。死への恐怖からか、未練からか。重なる声は最初の熱のない願いよりも大きく、強く響いている。
からん、と音がした。その音と共に、波のように広がっていた声は静まり返っていく。
静寂。耳が痛くなるほど、何も聞こえない。
小さく肩が震えた。
「願いを言え」
すぐ側で、声がした。
感情が乗らない声。無機質で、それが恐ろしい。
「何を願う」
声が近い。まるで直接鼓膜を揺すられているようで、頭がくらくらする。
願わなければ。求めなければ、ずっとこのままだ。
本能がそう確信する。その警告に従い、のろのろと口を開いた。
「願いは……」
その続きは言葉にならない。
早く言わなければという焦りはあるのに、何も思いつくものがない。
叶えてほしい願いはなんだろうか。
そう考えた時、焦りは消えて、代わりにいつもの自分が戻ってきた感じがした。
「願いはない。何もいらない」
はっきりと言葉にする。
「何も願いはないということか」
「叶えたい願いはある。でも叶えてほしい願いは何もない」
願いは誰かに叶えてもらうのではなく、自分で叶えたい。そのためにいつも努力をしてきた。
それが自分だった。その前提が崩れてしまったら、もう自分ではいられなくなってしまう。
声は何かを考えているように沈黙した。
そしてしばらくして、変わらぬ無感情な声が静かに告げた。
「求めぬのならば、戻るといい」
次の瞬間、息苦しさを感じた。
体が熱い。頭が痛くて意識が朦朧とする。
立っているのか、それとも横たわっているのかも分からない中。
「また会おう」
解放された視界が、歪に弧を描く二つの金の眼を捉えていた。
重苦しい溜息を吐きながら、窓から外を見下ろした。
よく分からない夢から醒めた後、原因不明の高熱で数日間寝込んでいた。
食事も受け付けず、常に強い頭痛を感じて眠ることもままならない。生き地獄を味わいながらも何とか峠を越えることができたのは、家族の献身があったからだ。
その時の申し訳なさを思い出しながら、小さく息を吐く。回復したものの、日常はがらりと変わってしまっていたことに、まだ戸惑い混乱する気持ちで落ちつかない。
高熱で魘されていた時、ちょうど学校の行事で校外学習があった。
その時、クラスメイトを乗せたバスが事故にあったのだという。
大きな事故だったようだ。無傷だった生徒はいなかったらしい。
誰しもが何かを失った。生きたいと願った代わりに、大切なものを差し出したように。
歌が好きだったある生徒は声を。絵を描くことを生きがいにしていた生徒は色を。将来を有望視されていた陸上部に所属していた生徒は自由を。
思わず顔を顰める。夢の中で、ただ願いを叶えると言った性悪さを思い出す度、気分が悪くなった。
窓から視線を逸らし、カーテンを閉める。明かりを点ける気にもならず、ベッドに倒れ込んだ。
何もいらないと言った自分は、何もなくただ戻ってきたはずだった。けれど願わなかったのに、勝手に与えられるものがあったらしい。
視界の端で揺れる不思議な尻尾。覗き込むように顔を近づける、金の眼をした猫に眉が寄る。
「今日もご機嫌斜めだな」
「煩い。どっか行って」
夢の中と同じ声音で、しかしとても楽しげに猫は囁く。
目が覚めて変わったこと。今までは見えなかったモノが、何故か見えるようになってしまっていた。
猫の仕業かと思ったがそうではないらしい。死に近づくと、目が開くことが時折あるようだ。
「そんなに嫌うことないだろう」
「性悪なやつを好きになんかなる訳ない。早くいなくなって」
手を追い払うように動かすが、猫がどこかへ行く様子はない。ただわざとらしく溜息を吐いて、ゆるりとしなやかな尾を揺らした。
「まだ納得がいっていないのか。あれが釣り合いのとれる最小だというのに」
その言葉に、目を逸らした。
命の対価は、けっして安くはない。命を願ったのだから、相当の代わりが必要なのは理解できなくもない。
「それにあの場で全て告げた所で何も変わらない。長引かせるだけ、迷わせるだけ酷だろうに」
何も言い返せず、目を閉じた。
「まあ、お前のように自力で這い上がる者もなくはないが、百年に一度あればいい方だ……うん、本当にお前の切り返しは、美しさと気高さがあったな」
体に擦り寄られる感覚がする。温もりが感じられないことが不思議だった。
「しばらくは退屈せずに済みそうだな」
「何もいらないって言ったんだから、大人しく帰って!」
笑う声。
心底楽しそうな猫に、変わってしまった日常を突き付けられている気がした。
20260420 『何もいらない』
夕暮れの金に近い朱に染まる街を、いつものように眺めていた。
行き交う人々の影が伸び、ほんの少し先の動きをする。たった数分。影だけが未来にいる。
それに誰も気づかないのが不思議だった。影の変化に気づくだけの余裕がないのだろうか。人々は常に忙しそうで、誰も足を止める様子はない。
ふと、一人の影が立ち止まった。影の持ち主はそれに気づかず去っていく。
嫌な感じだ。胸を押さえ蹲る影を見て、咄嗟にスマホを取り出しながら駆け寄った。
影に近寄る頃には影の持ち主もまた、立ち尽くしているのが見えた。胸を押さえ、苦しげに蹲る。
それと同時に、手にしていたスマホで迷わず救急車へと連絡をかけた。
思わず溢れた溜息に、隣に座る友人はこちらに視線を向け。僅かに眉を寄せた。
「何だ?悩み事か?」
その問いを、曖昧に笑って誤魔化した。悩み事ではあるものの、どう言葉にすればいいのか分からなかった。
――夕暮れ時。道ゆく人々の影が数分先の動きをしているのが見える。
正直に告げた所で、きっと変な心配をさせるだけだ。
「――疲れた」
正しくはないが間違ってもいない言葉を吐く。
人と影のずれた動きを見てしまうことは、とても疲れることだった。
それでも見てしまうのは、たった数分ではあるが未来を見ることで変えられるものがあるかもしれないと思ってしまうからだ。小さな変化が、やがて大きな運命を変える。そんな可能性を夢見てしまっているからだ。
机の上に伏し、目を閉じる。頭を撫でる暖かな手に、無性に泣きたくなった。
今日は、いつもよりも夕陽が煌めいて見える気がする。
そんなことを思いながら、友人と共に家路に就いていた。
「そういえば、よかったの?」
「何がだ?」
「だって今日、彼女が帰ってくる日だったはず」
今日は久しぶりに友人の姉が帰ってくる日だ。駅まで姉を迎えに行き、それから三人で帰るのがいつものことだった。
「今日は一人で帰りたいらしいからな」
隣を歩く友人は、夕陽に視線を向けながらぼそりと答えた。
その横顔からは、彼が何を思っているのか分からない。しかしその声音はどこか寂しげな、悲しげな響きを含んでいるような気がして、それ以上何も言えなかった。
落ち着かず足元に視線を向ける。いつものように、数分先の動きをした人々の影を見る。
不意に友人の影が立ち止まった。
「どうした?」
酷く不自然な立ち止まり方。反射的に周囲を見回し、影を見る。
こちらに近づく影の一つが歪に揺れる。細長い何かを手に、暴れ出した。
咄嗟にその影と友人の間に割り込んだ。訝しげに眉を顰めた友人は、その次の瞬間驚愕に目を見開く。それとほぼ同時に、体を鋭い痛みが貫いた。
立っていられず崩れ落ちる。痛みは熱に変わり、それもやがては消えて、冷たさだけが残される。
ざわざわと、人が集まってきた気配。煩いと感じる騒めきを、けれど言葉として理解ができない。
人の影が揺れている。友人の背越しに煌めく金色の陽が眩しくて、静かに目を閉じた。
変えることができた。
昔一度だけ見た夢を否定できたことに、満たされた気持ちで意識を手放した。
様々な機械に繋がれ、ベッドで眠り続ける友人を、青年はただ見つめていた。
「どうして……」
何度目かの呟きに答える声はない。そっと触れた手は、あの日と変わらず冷たいままだった。
目を伏せる。繰り返す後悔に、強く握り締めた手が震える。
「変えられなかった」
無意識に溢れ落ちた言葉に、思わず自嘲する。
青年は数日先の未来を夢に見ることがあった。しかし今までは未来を夢に見た所で、それを変えようとは思わなかった。変えることの必要性を感じなかった。
しかしただ一度だけ、夢に見る未来を変えようと動いた。変えたいと思う程の夢を見たからだった。
「すまなかった……」
謝罪の言葉は、無機質な機械音に掻き消されていく。
外の音が遠い。扉一枚隔てた向こう側の日常から切り離されてしまったかのようだ。
込み上げる思いが溢れてしまいそうで、青年はきつく瞼を閉じる。
変えるための行動を起こし、確かに未来は変わった。
あの日襲われたのは、本来ならば青年の姉であった。
崩れ落ちる姉の姿。耳障りな笑い声。呆然と立ち尽くす友人。
確かに未来は変わった。けれども大切なものを失う結果は何も変わらない。
未来を見れたとしても、苦しいだけで何の意味もなかった。
「どうして……」
声が掠れる。握り締めた手が震え出す。
昨夜見た喪服姿の人々の背が、青年の脳裏から消えて無くならない。
震える手を伸ばし、冷たい手を握る。両の手で包み込み、祈るように目を閉じる。
震える唇で名を呼んだ。続く言葉は声にならない。
窓から差し込む夕陽が、青年と友人を赤く染めていく。
伸びた影が揺れた。重なる影が、数分後の動きをし始める。
青年は、それにまだ気づかない。
20260419 『もしも未来を見れるなら』