ぽたり。
壺の中で何かが落ちる音がする。
小さく息を吐いた。
時計を確認すれば、ちょうど日付が変わった後。いつもの時間、いつもの音が聞こえたことを確認して、部屋に戻るため立ち上がる。
「まったく……何の意味があるんだか」
部屋を出て、思わず愚痴をこぼす。
亡くなった祖母の遺言でこうして毎夜壺の中の音を確認しているものの、この行為に何の意味があるのかは分からない。
触れても、中を覗いてもいけない壺。
生前、祖母に何が入っているのか聞いたことがあった。しかし彼女も何が入っているのかは知らないようで、ただ壺の中の音が聞こえなくなった時、良くないことが起こると言われているとだけ教えてくれた。
良くないこととは何なのか。音が聞こえなくなると良くないことが起こるのは何故なのか。
そもそも壺の中で何が落ちているのか。
疑問に思うことはいくつもあるが、不思議と壺の音を確認することを止めたり、中を覗こうとは思わなかった。壺があるのが当たり前であり、音を聞くのが当然だと長年の習慣から思い込んでしまっているのかもしれない。
「早く、寝ないと」
明日も早い。
軽く頭を振りながら、自室に戻るため足を速めた。
風が吹き抜けた。
目を開けるとそこは色とりどりの花が咲く、美しい花畑が広がっていた。
時折見る夢だ。視界を巡らせれば離れた場所で楽しそうに花冠を編む子供の姿が見えて、密かに眉を寄せる。
同じ景色。同じ人物。そしてこの先起こる同じやり取り。
切り取られた映像を繰り返し見ているような感覚は、あまり気分のいいものとは言えなかった。
笑い声がここまで響いてくる。
いつの間にか子供の側に、誰かが立っていた。彼女より、少しだけ年上に見える誰か。
「今回は、子供なんだ」
同じような夢の唯一の違いに、無意識に呟いていた。
前回見た時は、大人だった。その前は人ですらなかった。
見る度に姿を変える誰か。彼女は一度も気にすることはなく、作り終えたばかりの花冠をその誰かに被せている。
止めてほしい。その花を、そんな簡単に渡さないでほしい。
苛立ちにも似た訳の分からない感情が込み上げてくるのを感じながら、目の前の穏やかなやり取りを睨みつけていた。
ぴしゃん。
雫が落ちる音が聞こえた気がして、目を開けた。
カーテン越しに朝の陽射しが差し込んでいる。辺りを見回しても寝る前と変わった様子はなく、首を傾げながらもベッドから抜け出した。
身支度を整えて、カーテンを開けた。清々しい空の青さに、思わず目を細める。
「雨は降ってないか……」
やはり目覚めた時の音は気のせいだったのだろうか。どこにも雫の跡がない外の景色に、小さく息を吐いた。
壺のことを気にしすぎているのかもしれない。外にいる時くらいは家のことを忘れようと、意識を切り替えるように頭を振って、部屋を出た。
夜。
ぼんやりと、壺を見ながら音が聞こえるのを待っていた。
いつもより、時間がゆっくりと流れているような気がする。部屋の静けさが余計にそう思わせる。
昼間、あれだけ吹き荒れていたというのに、すっかり凪いでしまった風は窓枠所か、草ひとつも揺らさない。虫の鳴き声もなく、まるでこの部屋だけしか世界に存在しないかのようだ。
抱えた膝に額を当て、目を閉じる。耳を澄ませ、音を拾おうとするものの、やはり何の音も聞こえなかった。
小さく息を吐き、何気なく時計に視線を向ける。日付が変わるまでの時間を確かめようとして、目を見張った。
「過ぎてる……?」
文字盤の針は、十二時五分を示している。
壺から音は聞こえていない。この部屋に入ってから、何の音も聞いていない。
恐る恐る壺に視線を向けた。
「――っ!」
息を呑む。
壺の蓋が、開いていた。
――壺の中の音が聞こえなくなった時、良くないことが起こる。
祖母の言葉を思い出す。
良くないこととは何なのか。呆然と壺を見つめながら考える。
蓋が開いたということは、中から何かが出てきたということだろうか。部屋を見回そうとして、けれども背後から伸びた腕によって動きが止まる。
小さな腕だ。幼い子供の、時折見る夢の中で花冠を編む子のような細い腕。背中に負ぶさるような形で首に絡みつく。
花の香りがした。しかし漂う甘さの奥に、湿った匂いが混じっているのを感じる。
冷たい土のような、泥のような匂い。そこに獣の匂いが重なり、くらくらと目眩がする。
「――枯れた」
背後から、子供の声が囁く。
淡々と事実を告げる、熱のない声音。
「枯れた……」
言葉にして、唐突に理解する。
理屈ではなく、本能で全てを知ってしまった。
「神様の涙。枯れたの?」
「うん」
声が肯定する。
「神様にされた皆の涙も、枯れた?」
「うん」
「花畑も?」
「うん」
夢で見た花畑が脳裏を過ぎていく。
神様の涙で育った花畑。神様の涙が枯れたのなら、花畑も枯れるのは当然だろう。
目を閉じる。枯れてしまった花を思い、そして花畑を慰めとしてした皆のことを思って悲しくなった。
「涙が枯れ、花が枯れる。だから、この家も枯れていく」
声が告げる。
そう、と、思ったよりも素っ気ない声が出た。
当たり前だとしか思えなかった。
「全部枯れる前に、願いを叶えてあげる」
首を振る。
いらない、と口にしかけ、躊躇う。
しがみつく腕に手を重ね、祈りを込めて一つ願った。
「家が咲き誇るための神様にさせられた皆が、今度は幸せになってほしい」
「分かった」
ぎゅっと強く抱きつかれる。
ぴしり、ぱしりと音がして、目を開けた。
「壺が……」
壺に無数のヒビが入っていく。雫の音の代わりに割れる音を響かせ、跡形もなく崩れていく。
中には何もなかった。空っぽの、壺だった残骸がきらきらと煌めいて砂になって消えていく。
不意に目を塞がれた。数を数える声が響く。
一つ数える度、声が増えていく。笑う声がして、ふわりと甘い香りが鼻を掠めていく。
「――九、十!」
ゆっくり十数えて、視界を塞ぐ手を外される。
急な明るさに、思わず目を細めた。
見上げる空は青く、その下に広がるのは色とりどりの花。
「花は……枯れたって……」
思わず呟けば、くすくす笑う声が返る。
振り返れば、楽しげに笑う皆。そこに花冠を受け取るだけの部外者は存在しない。
困惑する自分に手を差し伸べ、彼女は言う。
「ここは家のための花畑じゃない。わたしたちのためだけの花畑」
「お姉ちゃん……」
夢で何度も見た花冠を編んでいた彼女。
恐る恐る手を重ねれば、強く引かれてバランス崩す。そのまま倒れ込めば、色鮮やかな花びらが空を舞った。
「もう、いいの?」
そう尋ねれば、誰もが口を揃えてもういいよ、と笑う。
もういいのか。安堵の息を吐いた。
これ以上無理矢理に生かされ、忘れさせられて、皆を監視しなくていいことに、ようやく体の力を抜いた。
「おかえり」
「ただいま」
目を合わせ、笑う。
青空の下、聞こえるのは笑い声だけ。
雫の音は、もう聞こえない。
20260421 『雫』
4/22/2026, 1:19:55 PM