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「願いを一つだけ叶えてやる」

無感情な声が聞こえた。けれど視界は塞がれ、何も見ることはできない。
ここはどこだろう。自分は今まで何をしていて、何の理由でここにいるのだろうか。
そんなことを考えていると、あちらこちらから願う声が聞こえてきた。

――注目されたい。有名になりたい。
――お金持ちになりたい。欲しいものを何でも買えるようなお金がほしい。
――好きな人と両想いになりたい。

例えるのならば初詣で絵馬に書くような、あるいは七夕の短冊に書くような願い事。
塞がれた視界で目を瞬いた。
声には抑揚がなく、どんな人が願い事を言っているのかは分からない。だとしても、随分と熱のない願い事だと思った。
思いが込められていないというべきか。単調な声だということを抜きにしても、本心から叶えてほしいと思っているようには思えない。
ぱちん、と音がした。その小さな音と共に、願う声は搔き消えた。
無音。願う声はあったのに、誰かの息遣いや衣擦れの音など、人が立てる音は何一つ聞こえないことに気づく。
困惑に眉が寄った。

「一つ、願いを言うといい」

先程よりも近い距離で声が聞こえた。
ざわり、と辺りの空気が揺らめく。
どうか、と願う声がして、それを口火に周囲から声があがった。

――生きたい。
――帰りたい。大切な人の所へ。

前のものよりも切実な願い。それほどまでに追い詰められてしまっているのだろうか。
生きたいと願うということは、つまり命に危険が及んでいるということだ。死への恐怖からか、未練からか。重なる声は最初の熱のない願いよりも大きく、強く響いている。
からん、と音がした。その音と共に、波のように広がっていた声は静まり返っていく。
静寂。耳が痛くなるほど、何も聞こえない。
小さく肩が震えた。

「願いを言え」

すぐ側で、声がした。
感情が乗らない声。無機質で、それが恐ろしい。

「何を願う」

声が近い。まるで直接鼓膜を揺すられているようで、頭がくらくらする。
願わなければ。求めなければ、ずっとこのままだ。
本能がそう確信する。その警告に従い、のろのろと口を開いた。

「願いは……」

その続きは言葉にならない。
早く言わなければという焦りはあるのに、何も思いつくものがない。
叶えてほしい願いはなんだろうか。
そう考えた時、焦りは消えて、代わりにいつもの自分が戻ってきた感じがした。

「願いはない。何もいらない」

はっきりと言葉にする。

「何も願いはないということか」
「叶えたい願いはある。でも叶えてほしい願いは何もない」

願いは誰かに叶えてもらうのではなく、自分で叶えたい。そのためにいつも努力をしてきた。
それが自分だった。その前提が崩れてしまったら、もう自分ではいられなくなってしまう。

声は何かを考えているように沈黙した。
そしてしばらくして、変わらぬ無感情な声が静かに告げた。

「求めぬのならば、戻るといい」

次の瞬間、息苦しさを感じた。
体が熱い。頭が痛くて意識が朦朧とする。
立っているのか、それとも横たわっているのかも分からない中。

「また会おう」

解放された視界が、歪に弧を描く二つの金の眼を捉えていた。





重苦しい溜息を吐きながら、窓から外を見下ろした。
よく分からない夢から醒めた後、原因不明の高熱で数日間寝込んでいた。
食事も受け付けず、常に強い頭痛を感じて眠ることもままならない。生き地獄を味わいながらも何とか峠を越えることができたのは、家族の献身があったからだ。
その時の申し訳なさを思い出しながら、小さく息を吐く。回復したものの、日常はがらりと変わってしまっていたことに、まだ戸惑い混乱する気持ちで落ちつかない。

高熱で魘されていた時、ちょうど学校の行事で校外学習があった。
その時、クラスメイトを乗せたバスが事故にあったのだという。
大きな事故だったようだ。無傷だった生徒はいなかったらしい。
誰しもが何かを失った。生きたいと願った代わりに、大切なものを差し出したように。
歌が好きだったある生徒は声を。絵を描くことを生きがいにしていた生徒は色を。将来を有望視されていた陸上部に所属していた生徒は自由を。

思わず顔を顰める。夢の中で、ただ願いを叶えると言った性悪さを思い出す度、気分が悪くなった。
窓から視線を逸らし、カーテンを閉める。明かりを点ける気にもならず、ベッドに倒れ込んだ。
何もいらないと言った自分は、何もなくただ戻ってきたはずだった。けれど願わなかったのに、勝手に与えられるものがあったらしい。
視界の端で揺れる不思議な尻尾。覗き込むように顔を近づける、金の眼をした猫に眉が寄る。

「今日もご機嫌斜めだな」
「煩い。どっか行って」

夢の中と同じ声音で、しかしとても楽しげに猫は囁く。
目が覚めて変わったこと。今までは見えなかったモノが、何故か見えるようになってしまっていた。
猫の仕業かと思ったがそうではないらしい。死に近づくと、目が開くことが時折あるようだ。

「そんなに嫌うことないだろう」
「性悪なやつを好きになんかなる訳ない。早くいなくなって」

手を追い払うように動かすが、猫がどこかへ行く様子はない。ただわざとらしく溜息を吐いて、ゆるりとしなやかな尾を揺らした。

「まだ納得がいっていないのか。あれが釣り合いのとれる最小だというのに」

その言葉に、目を逸らした。
命の対価は、けっして安くはない。命を願ったのだから、相当の代わりが必要なのは理解できなくもない。

「それにあの場で全て告げた所で何も変わらない。長引かせるだけ、迷わせるだけ酷だろうに」

何も言い返せず、目を閉じた。

「まあ、お前のように自力で這い上がる者もなくはないが、百年に一度あればいい方だ……うん、本当にお前の切り返しは、美しさと気高さがあったな」

体に擦り寄られる感覚がする。温もりが感じられないことが不思議だった。

「しばらくは退屈せずに済みそうだな」
「何もいらないって言ったんだから、大人しく帰って!」

笑う声。
心底楽しそうな猫に、変わってしまった日常を突き付けられている気がした。




20260420 『何もいらない』

4/22/2026, 5:44:03 AM