ぽたり。
壺の中で何かが落ちる音がする。
小さく息を吐いた。
時計を確認すれば、ちょうど日付が変わった後。いつもの時間、いつもの音が聞こえたことを確認して、部屋に戻るため立ち上がる。
「まったく……何の意味があるんだか」
部屋を出て、思わず愚痴をこぼす。
亡くなった祖母の遺言でこうして毎夜壺の中の音を確認しているものの、この行為に何の意味があるのかは分からない。
触れても、中を覗いてもいけない壺。
生前、祖母に何が入っているのか聞いたことがあった。しかし彼女も何が入っているのかは知らないようで、ただ壺の中の音が聞こえなくなった時、良くないことが起こると言われているとだけ教えてくれた。
良くないこととは何なのか。音が聞こえなくなると良くないことが起こるのは何故なのか。
そもそも壺の中で何が落ちているのか。
疑問に思うことはいくつもあるが、不思議と壺の音を確認することを止めたり、中を覗こうとは思わなかった。壺があるのが当たり前であり、音を聞くのが当然だと長年の習慣から思い込んでしまっているのかもしれない。
「早く、寝ないと」
明日も早い。
軽く頭を振りながら、自室に戻るため足を速めた。
風が吹き抜けた。
目を開けるとそこは色とりどりの花が咲く、美しい花畑が広がっていた。
時折見る夢だ。視界を巡らせれば離れた場所で楽しそうに花冠を編む子供の姿が見えて、密かに眉を寄せる。
同じ景色。同じ人物。そしてこの先起こる同じやり取り。
切り取られた映像を繰り返し見ているような感覚は、あまり気分のいいものとは言えなかった。
笑い声がここまで響いてくる。
いつの間にか子供の側に、誰かが立っていた。彼女より、少しだけ年上に見える誰か。
「今回は、子供なんだ」
同じような夢の唯一の違いに、無意識に呟いていた。
前回見た時は、大人だった。その前は人ですらなかった。
見る度に姿を変える誰か。彼女は一度も気にすることはなく、作り終えたばかりの花冠をその誰かに被せている。
止めてほしい。その花を、そんな簡単に渡さないでほしい。
苛立ちにも似た訳の分からない感情が込み上げてくるのを感じながら、目の前の穏やかなやり取りを睨みつけていた。
ぴしゃん。
雫が落ちる音が聞こえた気がして、目を開けた。
カーテン越しに朝の陽射しが差し込んでいる。辺りを見回しても寝る前と変わった様子はなく、首を傾げながらもベッドから抜け出した。
身支度を整えて、カーテンを開けた。清々しい空の青さに、思わず目を細める。
「雨は降ってないか……」
やはり目覚めた時の音は気のせいだったのだろうか。どこにも雫の跡がない外の景色に、小さく息を吐いた。
壺のことを気にしすぎているのかもしれない。外にいる時くらいは家のことを忘れようと、意識を切り替えるように頭を振って、部屋を出た。
夜。
ぼんやりと、壺を見ながら音が聞こえるのを待っていた。
いつもより、時間がゆっくりと流れているような気がする。部屋の静けさが余計にそう思わせる。
昼間、あれだけ吹き荒れていたというのに、すっかり凪いでしまった風は窓枠所か、草ひとつも揺らさない。虫の鳴き声もなく、まるでこの部屋だけしか世界に存在しないかのようだ。
抱えた膝に額を当て、目を閉じる。耳を澄ませ、音を拾おうとするものの、やはり何の音も聞こえなかった。
小さく息を吐き、何気なく時計に視線を向ける。日付が変わるまでの時間を確かめようとして、目を見張った。
「過ぎてる……?」
文字盤の針は、十二時五分を示している。
壺から音は聞こえていない。この部屋に入ってから、何の音も聞いていない。
恐る恐る壺に視線を向けた。
「――っ!」
息を呑む。
壺の蓋が、開いていた。
――壺の中の音が聞こえなくなった時、良くないことが起こる。
祖母の言葉を思い出す。
良くないこととは何なのか。呆然と壺を見つめながら考える。
蓋が開いたということは、中から何かが出てきたということだろうか。部屋を見回そうとして、けれども背後から伸びた腕によって動きが止まる。
小さな腕だ。幼い子供の、時折見る夢の中で花冠を編む子のような細い腕。背中に負ぶさるような形で首に絡みつく。
花の香りがした。しかし漂う甘さの奥に、湿った匂いが混じっているのを感じる。
冷たい土のような、泥のような匂い。そこに獣の匂いが重なり、くらくらと目眩がする。
「――枯れた」
背後から、子供の声が囁く。
淡々と事実を告げる、熱のない声音。
「枯れた……」
言葉にして、唐突に理解する。
理屈ではなく、本能で全てを知ってしまった。
「神様の涙。枯れたの?」
「うん」
声が肯定する。
「神様にされた皆の涙も、枯れた?」
「うん」
「花畑も?」
「うん」
夢で見た花畑が脳裏を過ぎていく。
神様の涙で育った花畑。神様の涙が枯れたのなら、花畑も枯れるのは当然だろう。
目を閉じる。枯れてしまった花を思い、そして花畑を慰めとしてした皆のことを思って悲しくなった。
「涙が枯れ、花が枯れる。だから、この家も枯れていく」
声が告げる。
そう、と、思ったよりも素っ気ない声が出た。
当たり前だとしか思えなかった。
「全部枯れる前に、願いを叶えてあげる」
首を振る。
いらない、と口にしかけ、躊躇う。
しがみつく腕に手を重ね、祈りを込めて一つ願った。
「家が咲き誇るための神様にさせられた皆が、今度は幸せになってほしい」
「分かった」
ぎゅっと強く抱きつかれる。
ぴしり、ぱしりと音がして、目を開けた。
「壺が……」
壺に無数のヒビが入っていく。雫の音の代わりに割れる音を響かせ、跡形もなく崩れていく。
中には何もなかった。空っぽの、壺だった残骸がきらきらと煌めいて砂になって消えていく。
不意に目を塞がれた。数を数える声が響く。
一つ数える度、声が増えていく。笑う声がして、ふわりと甘い香りが鼻を掠めていく。
「――九、十!」
ゆっくり十数えて、視界を塞ぐ手を外される。
急な明るさに、思わず目を細めた。
見上げる空は青く、その下に広がるのは色とりどりの花。
「花は……枯れたって……」
思わず呟けば、くすくす笑う声が返る。
振り返れば、楽しげに笑う皆。そこに花冠を受け取るだけの部外者は存在しない。
困惑する自分に手を差し伸べ、彼女は言う。
「ここは家のための花畑じゃない。わたしたちのためだけの花畑」
「お姉ちゃん……」
夢で何度も見た花冠を編んでいた彼女。
恐る恐る手を重ねれば、強く引かれてバランス崩す。そのまま倒れ込めば、色鮮やかな花びらが空を舞った。
「もう、いいの?」
そう尋ねれば、誰もが口を揃えてもういいよ、と笑う。
もういいのか。安堵の息を吐いた。
これ以上無理矢理に生かされ、忘れさせられて、皆を監視しなくていいことに、ようやく体の力を抜いた。
「おかえり」
「ただいま」
目を合わせ、笑う。
青空の下、聞こえるのは笑い声だけ。
雫の音は、もう聞こえない。
20260421 『雫』
「願いを一つだけ叶えてやる」
無感情な声が聞こえた。けれど視界は塞がれ、何も見ることはできない。
ここはどこだろう。自分は今まで何をしていて、何の理由でここにいるのだろうか。
そんなことを考えていると、あちらこちらから願う声が聞こえてきた。
――注目されたい。有名になりたい。
――お金持ちになりたい。欲しいものを何でも買えるようなお金がほしい。
――好きな人と両想いになりたい。
例えるのならば初詣で絵馬に書くような、あるいは七夕の短冊に書くような願い事。
塞がれた視界で目を瞬いた。
声には抑揚がなく、どんな人が願い事を言っているのかは分からない。だとしても、随分と熱のない願い事だと思った。
思いが込められていないというべきか。単調な声だということを抜きにしても、本心から叶えてほしいと思っているようには思えない。
ぱちん、と音がした。その小さな音と共に、願う声は搔き消えた。
無音。願う声はあったのに、誰かの息遣いや衣擦れの音など、人が立てる音は何一つ聞こえないことに気づく。
困惑に眉が寄った。
「一つ、願いを言うといい」
先程よりも近い距離で声が聞こえた。
ざわり、と辺りの空気が揺らめく。
どうか、と願う声がして、それを口火に周囲から声があがった。
――生きたい。
――帰りたい。大切な人の所へ。
前のものよりも切実な願い。それほどまでに追い詰められてしまっているのだろうか。
生きたいと願うということは、つまり命に危険が及んでいるということだ。死への恐怖からか、未練からか。重なる声は最初の熱のない願いよりも大きく、強く響いている。
からん、と音がした。その音と共に、波のように広がっていた声は静まり返っていく。
静寂。耳が痛くなるほど、何も聞こえない。
小さく肩が震えた。
「願いを言え」
すぐ側で、声がした。
感情が乗らない声。無機質で、それが恐ろしい。
「何を願う」
声が近い。まるで直接鼓膜を揺すられているようで、頭がくらくらする。
願わなければ。求めなければ、ずっとこのままだ。
本能がそう確信する。その警告に従い、のろのろと口を開いた。
「願いは……」
その続きは言葉にならない。
早く言わなければという焦りはあるのに、何も思いつくものがない。
叶えてほしい願いはなんだろうか。
そう考えた時、焦りは消えて、代わりにいつもの自分が戻ってきた感じがした。
「願いはない。何もいらない」
はっきりと言葉にする。
「何も願いはないということか」
「叶えたい願いはある。でも叶えてほしい願いは何もない」
願いは誰かに叶えてもらうのではなく、自分で叶えたい。そのためにいつも努力をしてきた。
それが自分だった。その前提が崩れてしまったら、もう自分ではいられなくなってしまう。
声は何かを考えているように沈黙した。
そしてしばらくして、変わらぬ無感情な声が静かに告げた。
「求めぬのならば、戻るといい」
次の瞬間、息苦しさを感じた。
体が熱い。頭が痛くて意識が朦朧とする。
立っているのか、それとも横たわっているのかも分からない中。
「また会おう」
解放された視界が、歪に弧を描く二つの金の眼を捉えていた。
重苦しい溜息を吐きながら、窓から外を見下ろした。
よく分からない夢から醒めた後、原因不明の高熱で数日間寝込んでいた。
食事も受け付けず、常に強い頭痛を感じて眠ることもままならない。生き地獄を味わいながらも何とか峠を越えることができたのは、家族の献身があったからだ。
その時の申し訳なさを思い出しながら、小さく息を吐く。回復したものの、日常はがらりと変わってしまっていたことに、まだ戸惑い混乱する気持ちで落ちつかない。
高熱で魘されていた時、ちょうど学校の行事で校外学習があった。
その時、クラスメイトを乗せたバスが事故にあったのだという。
大きな事故だったようだ。無傷だった生徒はいなかったらしい。
誰しもが何かを失った。生きたいと願った代わりに、大切なものを差し出したように。
歌が好きだったある生徒は声を。絵を描くことを生きがいにしていた生徒は色を。将来を有望視されていた陸上部に所属していた生徒は自由を。
思わず顔を顰める。夢の中で、ただ願いを叶えると言った性悪さを思い出す度、気分が悪くなった。
窓から視線を逸らし、カーテンを閉める。明かりを点ける気にもならず、ベッドに倒れ込んだ。
何もいらないと言った自分は、何もなくただ戻ってきたはずだった。けれど願わなかったのに、勝手に与えられるものがあったらしい。
視界の端で揺れる不思議な尻尾。覗き込むように顔を近づける、金の眼をした猫に眉が寄る。
「今日もご機嫌斜めだな」
「煩い。どっか行って」
夢の中と同じ声音で、しかしとても楽しげに猫は囁く。
目が覚めて変わったこと。今までは見えなかったモノが、何故か見えるようになってしまっていた。
猫の仕業かと思ったがそうではないらしい。死に近づくと、目が開くことが時折あるようだ。
「そんなに嫌うことないだろう」
「性悪なやつを好きになんかなる訳ない。早くいなくなって」
手を追い払うように動かすが、猫がどこかへ行く様子はない。ただわざとらしく溜息を吐いて、ゆるりとしなやかな尾を揺らした。
「まだ納得がいっていないのか。あれが釣り合いのとれる最小だというのに」
その言葉に、目を逸らした。
命の対価は、けっして安くはない。命を願ったのだから、相当の代わりが必要なのは理解できなくもない。
「それにあの場で全て告げた所で何も変わらない。長引かせるだけ、迷わせるだけ酷だろうに」
何も言い返せず、目を閉じた。
「まあ、お前のように自力で這い上がる者もなくはないが、百年に一度あればいい方だ……うん、本当にお前の切り返しは、美しさと気高さがあったな」
体に擦り寄られる感覚がする。温もりが感じられないことが不思議だった。
「しばらくは退屈せずに済みそうだな」
「何もいらないって言ったんだから、大人しく帰って!」
笑う声。
心底楽しそうな猫に、変わってしまった日常を突き付けられている気がした。
20260420 『何もいらない』
夕暮れの金に近い朱に染まる街を、いつものように眺めていた。
行き交う人々の影が伸び、ほんの少し先の動きをする。たった数分。影だけが未来にいる。
それに誰も気づかないのが不思議だった。影の変化に気づくだけの余裕がないのだろうか。人々は常に忙しそうで、誰も足を止める様子はない。
ふと、一人の影が立ち止まった。影の持ち主はそれに気づかず去っていく。
嫌な感じだ。胸を押さえ蹲る影を見て、咄嗟にスマホを取り出しながら駆け寄った。
影に近寄る頃には影の持ち主もまた、立ち尽くしているのが見えた。胸を押さえ、苦しげに蹲る。
それと同時に、手にしていたスマホで迷わず救急車へと連絡をかけた。
思わず溢れた溜息に、隣に座る友人はこちらに視線を向け。僅かに眉を寄せた。
「何だ?悩み事か?」
その問いを、曖昧に笑って誤魔化した。悩み事ではあるものの、どう言葉にすればいいのか分からなかった。
――夕暮れ時。道ゆく人々の影が数分先の動きをしているのが見える。
正直に告げた所で、きっと変な心配をさせるだけだ。
「――疲れた」
正しくはないが間違ってもいない言葉を吐く。
人と影のずれた動きを見てしまうことは、とても疲れることだった。
それでも見てしまうのは、たった数分ではあるが未来を見ることで変えられるものがあるかもしれないと思ってしまうからだ。小さな変化が、やがて大きな運命を変える。そんな可能性を夢見てしまっているからだ。
机の上に伏し、目を閉じる。頭を撫でる暖かな手に、無性に泣きたくなった。
今日は、いつもよりも夕陽が煌めいて見える気がする。
そんなことを思いながら、友人と共に家路に就いていた。
「そういえば、よかったの?」
「何がだ?」
「だって今日、彼女が帰ってくる日だったはず」
今日は久しぶりに友人の姉が帰ってくる日だ。駅まで姉を迎えに行き、それから三人で帰るのがいつものことだった。
「今日は一人で帰りたいらしいからな」
隣を歩く友人は、夕陽に視線を向けながらぼそりと答えた。
その横顔からは、彼が何を思っているのか分からない。しかしその声音はどこか寂しげな、悲しげな響きを含んでいるような気がして、それ以上何も言えなかった。
落ち着かず足元に視線を向ける。いつものように、数分先の動きをした人々の影を見る。
不意に友人の影が立ち止まった。
「どうした?」
酷く不自然な立ち止まり方。反射的に周囲を見回し、影を見る。
こちらに近づく影の一つが歪に揺れる。細長い何かを手に、暴れ出した。
咄嗟にその影と友人の間に割り込んだ。訝しげに眉を顰めた友人は、その次の瞬間驚愕に目を見開く。それとほぼ同時に、体を鋭い痛みが貫いた。
立っていられず崩れ落ちる。痛みは熱に変わり、それもやがては消えて、冷たさだけが残される。
ざわざわと、人が集まってきた気配。煩いと感じる騒めきを、けれど言葉として理解ができない。
人の影が揺れている。友人の背越しに煌めく金色の陽が眩しくて、静かに目を閉じた。
変えることができた。
昔一度だけ見た夢を否定できたことに、満たされた気持ちで意識を手放した。
様々な機械に繋がれ、ベッドで眠り続ける友人を、青年はただ見つめていた。
「どうして……」
何度目かの呟きに答える声はない。そっと触れた手は、あの日と変わらず冷たいままだった。
目を伏せる。繰り返す後悔に、強く握り締めた手が震える。
「変えられなかった」
無意識に溢れ落ちた言葉に、思わず自嘲する。
青年は数日先の未来を夢に見ることがあった。しかし今までは未来を夢に見た所で、それを変えようとは思わなかった。変えることの必要性を感じなかった。
しかしただ一度だけ、夢に見る未来を変えようと動いた。変えたいと思う程の夢を見たからだった。
「すまなかった……」
謝罪の言葉は、無機質な機械音に掻き消されていく。
外の音が遠い。扉一枚隔てた向こう側の日常から切り離されてしまったかのようだ。
込み上げる思いが溢れてしまいそうで、青年はきつく瞼を閉じる。
変えるための行動を起こし、確かに未来は変わった。
あの日襲われたのは、本来ならば青年の姉であった。
崩れ落ちる姉の姿。耳障りな笑い声。呆然と立ち尽くす友人。
確かに未来は変わった。けれども大切なものを失う結果は何も変わらない。
未来を見れたとしても、苦しいだけで何の意味もなかった。
「どうして……」
声が掠れる。握り締めた手が震え出す。
昨夜見た喪服姿の人々の背が、青年の脳裏から消えて無くならない。
震える手を伸ばし、冷たい手を握る。両の手で包み込み、祈るように目を閉じる。
震える唇で名を呼んだ。続く言葉は声にならない。
窓から差し込む夕陽が、青年と友人を赤く染めていく。
伸びた影が揺れた。重なる影が、数分後の動きをし始める。
青年は、それにまだ気づかない。
20260419 『もしも未来を見れるなら』
古い祠の前。幼い少女は手にした花を供え、手を合わせた。
何かを願っている訳ではない。花がとても綺麗に咲いていたこと。嬉しくなって、誰かに見せたくて花を摘んできたことを無邪気に告げていた。
「かみさまには、とくべつに花畑の場所、教えてあげるね」
秘密だよ、と笑う少女は、最後に祠に手を振り家へと帰っていく。
その背を見送って、祠に祀られた神は供えられた花に視線を落とした。
「赤……」
少女は赤い花だと言っていた。しかし神にはその赤が理解できなかった。
視界に広がるのは、ただの輪郭。
白や黒の色ですらないその無色の線が、神の世界だった。
「綺麗……なのか……?」
そっと指先で花びらをなぞる。崩れた輪郭が一瞬だけ色彩を持ったように見え、神は弾かれたように手を引いた。
自身の手を見つめ、そして花に視線を向ける。
変わらないただの線。けれどそれは何よりも美しく感じられ、神はしばらくその花から視線を逸らせないでいた。
その後も、あの少女は度々祠を訪れては、何かを供えるようになった。
花や木の実。時には捕まえた虫や菓子など。
そのどれもが、少女がその日誰かに見せたかったもののようで、手を合わせては嬉しそうに、誇らしげに報告をしていた。
「かみさまは何が好きなのかな?何をもらったら、うれしいんだろう?」
そう言って首を傾げる少女は、純粋に神のために何を供えたら喜ばれるのかを考えているようだ。神はどこか困惑しながらも、少女の背後から供えられたものを覗き込んだ。
花、だった。最初に供えられたものとは異なる輪郭。この花は果たしてどんな色をしているのだろうか。
「――かみさま?」
ぼんやりと色について考えていた神は、不意に自身に向けられている視線を感じて息を呑んだ。
少女がこちらを見つめている。久しく人間に認識されなかった神は、途端に動けなくなってしまう。
何を言えばいいのか、何をすればいいのか。何一つ思い出せずに立ち尽くす神に、少女は目を瞬き微笑んだ。
「かみさま!かみさまは、お花が好きなの?」
問われて、神は答えに窮した。少女は自身が供えた花を見ていた神を見て、花を好んでいるのだと思っているようだ。
神には特に好むものはない。考えたこともないそれに、しかしながら少女を傷つけないような返答を探して、何気なく供えられた花に視線を向けた。
「この花は、どんな色をしているんだ」
不意に溢れたのは、少女の問いとは関係のない疑問。
それに少女は目を瞬いて、不思議そうに花と神を交互に見つめた。
「かみさまは、色が分からないの?」
「分からない。花もお前も、ただの輪郭としてしか感じられない」
そっか。
小さく呟いた少女は、供えた花を手に取った。
そして、神へと差し出す。思わず受け取った神は、その瞬間に華やかな薄紅色を視界に映した。
「これはね、ピンク色だよ」
ふわりと笑う少女もまた、輪郭ではなく黒の柔らかな髪と目をして萌黄色の服を着ている。
周囲に視線を巡らせれば、青々とした葉や差し込む光の煌めき、揺らぐ影の色がはっきりと見て取れた。
「――かみさま?」
気づけば、神は少女を強く抱きしめていた。
微かに花の香りがする。花畑を駆け回る少女の姿が浮かび、神はほんの僅かに笑みを浮かべた。
「お前は、色に溢れているのだな」
少女に触れる程、はっきりと世界が色づいていく。
それは少女の純粋な信仰故か、それとも少女が特別だからなのかは神には分からない。
「また来てくれ。俺に色を教えてほしい」
腕を離し少女に願えば、一瞬だけ不思議そうに首を傾げた後。
「うん!かみさまに、たくさん色を教えてあげるね!」
まるで花が咲くように、少女は笑って頷いた。
あれから季節は廻り、幼かった少女は大人になった。
花畑を無邪気に駆け回ることはなくなったものの、変わらずその日見つけた好きなものを神に供える日々は変わらない。
ただ一つ変わったというならば。
「ちょっと!着替えの時は部屋を出てって、いつも言ってるでしょ!」
神の背を押して部屋から追い出しながら、少女は溜息を吐く。
祠に祀られていた神は、今は少女の隣で日々を過ごしている。
少女を手元に置くために隠そうとしたが、彼女に人としての生を全うしたいと願われたからだ。
祠から離れたことで、様々な不便はある。しかしそれ以上に少女の隣は神にとって心地が良いものであった。
共に暮らすことで今まで知らずにいた少女の一面を知ることができたことも、神は密かに楽しんでいた。
閉じた扉は、百塩茶《ももしおちゃ》色。少女はチョコレート色だと教えてくれた。
最初は少女を介さなければ認識できなかった色は、いつしか遠い昔に失った記憶と共に神の元へと戻ってきていた。
だが神は少女の元を離れるつもりはなかった。神の求めるものは色よりも少女へと変わっていったからだ。
口元に笑みが浮かぶ。
共に過ごすことになるまでに、少女と離れていた時間があった。少女のいない世界は急速に色が褪せ、輪郭だけしか認識できなかった頃よりも虚しく神の目に映っていた。
今は違う。少女の隣で見る世界は、極彩色に溢れかえっている。
かちゃり。扉が開く音がした。
顔を覗かせる少女の頭を撫でる。肩で切りそろえた濡羽《ぬれば》色が、さらさらと滑り落ちていく。
「ちょっと、なに……?」
戸惑う少女に微笑みかけ、髪を撫でていた手を差し出す。訝しげな表情をしながらもその手を取り、少女は部屋から外へと出てきた。
「今日はどんな色を教えてくれるんだ?」
「それは外に出て見ないと分からないよ」
そう言いながら少女は神と手を繋いだまま、玄関へと向かう。
扉を開ければ、柔らかな日差しが世界を明るく彩っていた。
「行こうか、神様!」
少女が笑う。
その姿は極彩色に溢れた世界で、何よりも美しく煌めいているように見えた。
20260418 『無色の世界』
地面に広がる、散った花びらの残骸に視線を落とす。
誰も気にかけることのない、薄紅色の花びら。目を留め、誰もが美しいと称えた花の成れの果てに、空しさが込み上げる。
仕方がないことだ。そう理解はしている。来年花を咲かせれば、ここはまた賑やかになることだろう。去年も、その前の年も、何年も繰り返してきた。
そういえば、と思い出す。去年も同じような光景を目にして、まったく同じことを考えていた。次の年こそはと思いながら、結局変わらない自身に溜息が漏れる。
このまま変わることはないのだろう。緩く頭を振りながら、幹に手を触れる。
誰にも気に留められないと嘆くくらいならば、眠ってしまった方がいい。そうすれば一年など、瞬く間に過ぎていく。
寂しさから目を逸らし、閉じようとした時だった。
かさり。
草を踏みしめる軽い足音がした。
視線を向ける。近づく子供の姿を認め、目を瞬いた。
「きれい……」
笑みを浮かべ、子供はそっと足元に散らばる花びらを拾いあげる。腕に抱えた瓶の中に花びらを入れ、陽に透かして飽きることなく見入っている。
不意にその目が、花が散り、葉だけになった枝に向けられた。
青々とした葉の合間から陽の光が差し込んでいる。目を細めながら歩み寄り、子供は幹を背に座った。
「きらきらしてる。とってもきれい」
丁度、自分の隣。大切そうに花びらを入れた瓶を抱き、木漏れ日を見上げる子供の横に同じように座りながら、その幸せそうな微笑みを無心で見つめた。
木漏れ日よりも煌めく瞳。花が咲き乱れていた頃、誰しもが花を綺麗だと言ってはいたが、それらの言葉よりも自分の中に響いた。
無意識に笑みが溢れ落ちる。嬉しくて、そっと枝葉を揺すり音を立てた。
「すてきな音……本当に全部がきれい」
そんなことを言われたのは初めてだった。そもそも花以外を褒められたことは、覚えている限り一度もなかったように思う。
不思議な子供。たとえ今日だけの出会いだとしても、寂しかった自分には十分すぎる程幸せをくれた優しい子。
そっと葉を揺らし、子供の元へ一枚落とす。
「葉っぱ?」
葉を手に取り、まじまじと見つめる子供を笑みを浮かべながら見つめる。
精一杯の加護を込めた葉。気に入ってくれるだろうか。
「なんだか、桜さんがわたしにくれたみたい」
ふふ、と子供が笑う。瓶の中に葉を入れて、立ち上がった。
「ありがとう!大切にするね!」
見えてはいないだろうに、こちらに視線を向けて子供は礼を言う。笑顔で手を振り、駆け出して去っていってしまった。
そっと幹に手を触れる。先ほどまでいた子供の温もりを確かめるように目を閉じる。
ほんの一瞬のできごとだった。しかし何よりも優しく煌めいていた時間に穏やかな笑みが浮かぶ。
また来年。そう呟いて、眠りについた。
しかし、その眠りは次の日までのとても短いものだった。
「今日もきれいね」
にこにこと子供が笑う。それに答えるように葉を揺らす。
あれから毎日のように訪れるようになった子供。最初は戸惑いもしたが、今ではこの時間が当たり前のようになってしまった。
決して賑やかではないが、とても温かな時間。それはいくつもの季節が過ぎ、何度も花を咲かせ散らした後も続いている。
子供はいつしか可憐な少女になり、少女は時と共に美しい女性となった。
腕に抱いた瓶はいつからか一冊の本に変わり、けれどあの日渡した葉をいつも本に挟み、常に側においてくれていた。
「とてもきれい。まるで神様が宿っているみたい」
本を閉じ、差し込む木漏れ日に目を細め彼女は笑う。気恥ずかしさを感じながら、神様ではないけれどここにいるのだと、小さく呟いた。
そしてまたいくつか季節が廻り、彼女はある一人の男性を連れてきた。
「ここが私のお気に入りの場所なの。とても素敵でしょう?」
そう言って、彼女は幹に触れ微笑む。その言葉に、男性は目を細めて幹や枝葉を見て、優しく微笑んだ。
「そうだね。とても立派で美しい木だ」
褒められて、落ち着かなくなる。
ざわざわと枝葉を揺らし、そして彼にもまた加護を込めた葉を一枚落とした。
「おや。まるで桜が葉をくれたみたいだ」
「私も昔、貰ったのよ。とても大切なお守りなの」
微笑む二人の距離が近づく。
慌てて目を逸らしながら、密かに二人の未来を祝福した。
それから彼女と彼が訪れるようになり。
そしてそれは月日と共に彼女たちの子供たちや、またその子供たちも訪れ、ここはとても賑やかになった。
年老いた彼女は、けれどいつでも子供のように目を煌めかせ枝葉を見つめている。辺りを駆け回るひ孫たちのはしゃぐ声を聞きながら、優しく微笑んだ。
「幸せな人生を、ありがとうね」
幹を背に、小さく呟かれた言葉。
こちらこそ。そう返そうとしたが、彼女は穏やかな眠りについてしまっていた。
強く風が吹き抜ける。その風に葉を散らし、彼女の周りに降り積もらせていく。
ざわざわと騒がしい周囲の声を聞きながら、彼女の隣で幹に手を触れ目を閉じた。
幸せな時間をありがとう。
遠ざかる声を聞きながら、彼女へと感謝を告げる。
今年で最後だ。
来年は花を咲かせることも、葉をつけることもないだろう。
ふふ、と笑う声がした。目を開ければ、初めて出会った頃の彼女がいた。
手を差し出される。
その手を取り、落ちた葉が作る道を共に歩いていく。
20260417 『桜散る』