古い祠の前。幼い少女は手にした花を供え、手を合わせた。
何かを願っている訳ではない。花がとても綺麗に咲いていたこと。嬉しくなって、誰かに見せたくて花を摘んできたことを無邪気に告げていた。
「かみさまには、とくべつに花畑の場所、教えてあげるね」
秘密だよ、と笑う少女は、最後に祠に手を振り家へと帰っていく。
その背を見送って、祠に祀られた神は供えられた花に視線を落とした。
「赤……」
少女は赤い花だと言っていた。しかし神にはその赤が理解できなかった。
視界に広がるのは、ただの輪郭。
白や黒の色ですらないその無色の線が、神の世界だった。
「綺麗……なのか……?」
そっと指先で花びらをなぞる。崩れた輪郭が一瞬だけ色彩を持ったように見え、神は弾かれたように手を引いた。
自身の手を見つめ、そして花に視線を向ける。
変わらないただの線。けれどそれは何よりも美しく感じられ、神はしばらくその花から視線を逸らせないでいた。
その後も、あの少女は度々祠を訪れては、何かを供えるようになった。
花や木の実。時には捕まえた虫や菓子など。
そのどれもが、少女がその日誰かに見せたかったもののようで、手を合わせては嬉しそうに、誇らしげに報告をしていた。
「かみさまは何が好きなのかな?何をもらったら、うれしいんだろう?」
そう言って首を傾げる少女は、純粋に神のために何を供えたら喜ばれるのかを考えているようだ。神はどこか困惑しながらも、少女の背後から供えられたものを覗き込んだ。
花、だった。最初に供えられたものとは異なる輪郭。この花は果たしてどんな色をしているのだろうか。
「――かみさま?」
ぼんやりと色について考えていた神は、不意に自身に向けられている視線を感じて息を呑んだ。
少女がこちらを見つめている。久しく人間に認識されなかった神は、途端に動けなくなってしまう。
何を言えばいいのか、何をすればいいのか。何一つ思い出せずに立ち尽くす神に、少女は目を瞬き微笑んだ。
「かみさま!かみさまは、お花が好きなの?」
問われて、神は答えに窮した。少女は自身が供えた花を見ていた神を見て、花を好んでいるのだと思っているようだ。
神には特に好むものはない。考えたこともないそれに、しかしながら少女を傷つけないような返答を探して、何気なく供えられた花に視線を向けた。
「この花は、どんな色をしているんだ」
不意に溢れたのは、少女の問いとは関係のない疑問。
それに少女は目を瞬いて、不思議そうに花と神を交互に見つめた。
「かみさまは、色が分からないの?」
「分からない。花もお前も、ただの輪郭としてしか感じられない」
そっか。
小さく呟いた少女は、供えた花を手に取った。
そして、神へと差し出す。思わず受け取った神は、その瞬間に華やかな薄紅色を視界に映した。
「これはね、ピンク色だよ」
ふわりと笑う少女もまた、輪郭ではなく黒の柔らかな髪と目をして萌黄色の服を着ている。
周囲に視線を巡らせれば、青々とした葉や差し込む光の煌めき、揺らぐ影の色がはっきりと見て取れた。
「――かみさま?」
気づけば、神は少女を強く抱きしめていた。
微かに花の香りがする。花畑を駆け回る少女の姿が浮かび、神はほんの僅かに笑みを浮かべた。
「お前は、色に溢れているのだな」
少女に触れる程、はっきりと世界が色づいていく。
それは少女の純粋な信仰故か、それとも少女が特別だからなのかは神には分からない。
「また来てくれ。俺に色を教えてほしい」
腕を離し少女に願えば、一瞬だけ不思議そうに首を傾げた後。
「うん!かみさまに、たくさん色を教えてあげるね!」
まるで花が咲くように、少女は笑って頷いた。
あれから季節は廻り、幼かった少女は大人になった。
花畑を無邪気に駆け回ることはなくなったものの、変わらずその日見つけた好きなものを神に供える日々は変わらない。
ただ一つ変わったというならば。
「ちょっと!着替えの時は部屋を出てって、いつも言ってるでしょ!」
神の背を押して部屋から追い出しながら、少女は溜息を吐く。
祠に祀られていた神は、今は少女の隣で日々を過ごしている。
少女を手元に置くために隠そうとしたが、彼女に人としての生を全うしたいと願われたからだ。
祠から離れたことで、様々な不便はある。しかしそれ以上に少女の隣は神にとって心地が良いものであった。
共に暮らすことで今まで知らずにいた少女の一面を知ることができたことも、神は密かに楽しんでいた。
閉じた扉は、百塩茶《ももしおちゃ》色。少女はチョコレート色だと教えてくれた。
最初は少女を介さなければ認識できなかった色は、いつしか遠い昔に失った記憶と共に神の元へと戻ってきていた。
だが神は少女の元を離れるつもりはなかった。神の求めるものは色よりも少女へと変わっていったからだ。
口元に笑みが浮かぶ。
共に過ごすことになるまでに、少女と離れていた時間があった。少女のいない世界は急速に色が褪せ、輪郭だけしか認識できなかった頃よりも虚しく神の目に映っていた。
今は違う。少女の隣で見る世界は、極彩色に溢れかえっている。
かちゃり。扉が開く音がした。
顔を覗かせる少女の頭を撫でる。肩で切りそろえた濡羽《ぬれば》色が、さらさらと滑り落ちていく。
「ちょっと、なに……?」
戸惑う少女に微笑みかけ、髪を撫でていた手を差し出す。訝しげな表情をしながらもその手を取り、少女は部屋から外へと出てきた。
「今日はどんな色を教えてくれるんだ?」
「それは外に出て見ないと分からないよ」
そう言いながら少女は神と手を繋いだまま、玄関へと向かう。
扉を開ければ、柔らかな日差しが世界を明るく彩っていた。
「行こうか、神様!」
少女が笑う。
その姿は極彩色に溢れた世界で、何よりも美しく煌めいているように見えた。
4/19/2026, 11:24:57 PM