誰かの視線を感じて振り返る。
「あれ……?」
誰もいない。いつもは誰かしらいるはずの公園内はしんと静まり返り、人どころか生き物の気配すらなかった。
その異様さに背筋が薄ら寒くなるものの、風に乗って届いた香ばしい匂いにあぁと納得する。
今夜は広場で祭りがあるのだ。いくつも並ぶ屋台を思い浮かべ、漂う匂いも相まって小さく腹の虫が空腹を主張する。
苦笑して、手にした鞄に視線を落とす。図書館から借りた本を持ったまま屋台を覗くわけにはいかない。先程感じた視線など忘れて、早く帰ろうと足を速めた。
また、あの感覚がした。突き刺さるような、それでいてとても静かな視線。
辺りを見回すが、こちらを見ている人は誰もいない。気ままに散歩を楽しんでいたり、ベンチで休んでいたりと、公園にいる人たちは思い思いに過ごしている。
気のせいだったのだろうか。首を傾げながら、そういえば以前も公園で視線を感じたことを思い出す。
気になって道を逸れ、普段は足を踏み入れない公園の奥へと向かう。この先には、幼い頃に友人たちと遊んでいた秘密の花畑があるはずだった。
昔と変わらない、色とりどりの花が咲く道を進んで行く。
吹く風と共に、薄紅色の花びらが降ってきた。手に取って懐かしさに目を細めながら、背の高い向日葵の間を抜けていく。
そうして辿り着いたのは、花畑の中心。一本の桜の木の下で、疎遠になっていた友人の姿を見つけて立ち止まる。
「あれ、どうしたの?こんな所で」
「そっちこそ」
こちらに気づいて声をかける友人に、小さく肩が震える。辺りを見る振りをしながら視線を逸らした。
彼のことが嫌いになった訳ではない。ただいつからか、彼に見つめられると酷く落ち着かなくなった。すべてを見透かすような強い視線。胸が苦しくて痛くて、何かと理由をつけて遊ばなくなり、次第に疎遠になっていった。
相変わらず、彼の視線は落ち着かない。しかし今更引き返す理由もなく、かといってこのまま立ち尽くしている訳にもいかず、彼の側へと歩み寄る。
「久しぶり。あんまり変わってないな」
「そんなこと、ない……と思うけど……」
彼と会わなくなってから数年は経っているのだから、少しは変わっているはずだ。そう小さく反論するも、彼は笑って否定する。
「変わってないよ。俺の目を見ないとことか、昔のままだ」
「っ……」
気づかれていないはずはないと思ってはいたけれども、こうして目の前で言われるとどうしても気まずくなってしまう。
ちらりと彼に視線を向ける。記憶の中よりも成長した彼の姿に、途端に胸が苦しくなった。
「この前の夜祭に、参加しなかったんだな」
「え?あ、うん……」
突然振られた話題に驚いて、肩を震わせながらも頷く。
何故急に、と疑問に思うのと同時に、どうして知っているのかと戸惑う。
家に戻ってから、出かけようとは思っていた。けれど図書館から借りた本を鞄から取り出した時、無性に本の続きが読みたくて堪らなくなった。
少しだけ、と思いながら本のページを捲り、気づいた時にはすでに日付が変わってしまっていた。
「ぎりぎりの所で踏み留まるのは勘がいいのか、それとも運がいいだけか。まあ、どちらでもいいけど」
何を言っているのか。意味が分からず、眉を寄せながら彼を見上げた。
「――っ!」
彼と目が合い、反射的に顔を逸らす。
かたかたと体が震える。今すぐにこの場から逃げ出したくて堪らなかった。
「逃げるな」
低い声と共に手を掴まれる。強い力に振り解くことができず、逆に引き寄せられ肩を掴まれて、無理矢理に目を合わせられた。
うまく息が吸えない。目を閉じようとしても瞼は縫い付けられたかのように動かなかった。
「ちゃんと見ろ。お前は今、どこにいる?」
「どこって……」
昔、皆で遊んだ花畑にいる。
そう答えようとした。けれど彼の目に映る自分の姿を見て、思わず息を呑む。
成長した彼とは違い、この花畑で遊んでいた頃のままの自分の姿。無邪気な笑顔に、声にならない悲鳴を上げた。
彼が見ているのは誰だろう。次々と気づく違和感に、恐怖で涙が滲み出す。
どうして彼は目を合わせるために膝をついているのか。どうして花は咲いているのか。
桜。向日葵。その他にも紫陽花や秋桜など、同じ季節に咲かないはずの花たちが咲き誇っているのは何故なのか。
「お前がいるべきなのはここじゃない」
彼の言葉に思考が揺れる。彼が怖いのに、縋りたくて堪らない。
聞きたくない。帰りたい。逃げ出したい。離したくない。
様々な感情が込み上げる。どれが自分の思いで、どれが違うのか分からない。
どうしてそう思うのかすら、理解できなかった。
「あ、あぁ……」
「さっさと戻ってこい、このバカ」
意識が揺さぶられる。
耐えきれず遠のく意識の中。彼の目の中の自分が、忌々し気に顔を歪めているのを見た。
誰かの視線を感じて目が覚めた。
「あ……」
「おはよう。無事に戻って来れた感想は?」
どこか呆れたように彼が言う。それに首を傾げて、視線を巡らせる。
白で統一された見知らぬ部屋。どうしてこんな所にいるのだろうか。
「あんまり心配させんな。夜祭の屋台で売られているものを口にしたら、戻れなくなるところだったんだぞ」
頭を撫でて彼が笑う。どこか安心したような、温かな色をした目に見つめられる。
途端に胸が苦しくなった。恐怖からではない。よく分からない感情が込み上げて、顔が熱を持ち始める。
思わず彼に背を向け、布団の中で丸くなる。痛みを覚える程、鼓動が速くなっていくのを止められない。
「何だよ。戻って来れたんだから、もう見られることに恐怖はないだろ。こっち向けよ」
「っ、後でね!」
「後って……」
この状態で彼の顔など見られはしない。きっと息ができなくなってしまう。
そんなことを思いながら、彼の視線から逃げるようにさらに布団の中に潜り込む。体を丸めて強く目を閉じた。
何が起こっているのか、どうすればいいのか分からない。
唯一の救いは、この胸の痛みはどこか甘く、決して嫌なものではないことだった。
20260328 『見つめられると』
手の中に収まるほどの小さな木箱の表面を撫でる。
冷たさも温もりも感じない。指先に触れる木というよりも金属のような、あるいは磨き抜かれた骨のような、つるりとした感触に無意識に眉が寄った。
木箱の蓋は開かない。継ぎ目さえ分からないほどぴたりと閉じた箱には、唯一側面に小さな穴が開いていた。
螺子を巻くための穴だ。爪先で穴の縁をなぞり、首に下げている螺子を手に取る。いつものように穴に差し入れ、ゆっくりと巻き出した。
一日に一度、螺子を巻く。
生きていくために必要なこと。螺子を巻かなければ箱の中身が止まってしまうと、誰に教えられるでもなく理解していた。
――かちり、かちり。
螺子が巻かれていくにつれ、体が重くなっていくような感じを覚える。
――かちり、かち。
瞼が重い。目を閉じれば立っているのか、それとも横になっているのかも曖昧になっていく。
――とく、とくり。
手の中で、木箱が微かに振動する。仄かな熱が、手から全身に伝わってくる。
不意に木箱の感覚が消えた。どこに行ったのか、目を閉じている今確かめようもない。
木箱を失い、腕がだらりと垂れ下がる。体が重い。意識が沈んでいく。
底のない微睡みへと落ちていく感覚に身を委ねながら、また木箱の中身を確かめられなかったことを悔やんだ。
「顔色が良くない。今日は早めに帰って休んだ方がいいと思う」
そう言って友人は眉を寄せた。
額に手を当てられる。冷え性だとよく愚痴をこぼす彼女の冷えた手の心地良さに、目を細めた。
ほぅ、と吐息が溢れ落ちる。自分では大丈夫だと思っていたが、少しばかり熱があるのかもしれない。
「無理しないで。ほら、横になっていいから」
促されるままに横になれば、友人の膝に頭を乗せられた。彼女の長い銀の髪が光を反射して煌めくのを見つめていれば、次第に瞼が閉じていく。眠気はないが、髪を梳かれる感触に体の力が抜けていくのを感じた。
「隈ができてる。眠れてないの?」
「寝てはいると思うんだけどな。変な夢を見ている気がするから、それのせいかも」
「変な夢?」
不思議そうな声に、曖昧に笑って誤魔化した。
目が覚めれば忘れてしまうような、何の変哲もない夢。夢を見たという感覚さえなければ気づかないほどのそれを、どう説明すればいいのか分からない。
変な夢と言ったのは、それがおそらく同じ内容の夢だからだ。恐ろしい夢ではないと思うが、心臓が力強く鼓動しているのを感じて目が覚める。あまり気にしてはいなかったが、それが原因で疲れが出ているのかもしれなかった。
夢についてぼんやりと考えていると、髪を梳く彼女の手が離れ胸の上に触れた。
丁度心臓の真上。自分が触れている訳でもないのに、指先からとくとくと規則正しい鼓動を感じる。生きているから当たり前だというのに、何故かその鼓動はとても神秘的な音のように思えた。
「ちゃんと動いている」
「生きているから当然でしょ」
「でも重いでしょう?二人分だもの」
何を言っているのだろうか。二人分の意味が分からず、目を開けようと力を入れた。けれど瞼は重く、僅かにも震えない。
それだけ疲れているのか。困惑していると、強い眠気が押し寄せた。
逆らう間もなく、意識が深く沈み込んでいく。とくとくと、止まらない鼓動が体中から伝わってくるようだった。
手の中で震える何かを感じて目を開けた。
小さな木箱。仄かな温もりが、規則正しい振動と共に伝わってくる。
まだ螺子を巻く必要はない。理由は分からないがそう思った。
「負担になるなら、手放してもいいんだよ」
顔を上げれば、目の前に友人が立っていた。
「ここは?」
首を傾げて問いかければ、友人は少しだけ笑ったようだった。
「Deep in your/my heart……心の奥深くだよ」
「心……?」
抽象的な言葉にただ困惑する。
夢の中の世界ということだろうか。もう一度手の中の木箱に視線を落とし、その表面を撫でた。
つるりとした感触。側面に小さな穴が開いている以外は何もない。蓋の継ぎ目すら分からず、どうしてこれを箱だと認識しているのか自分でも不思議だった。
「もう覚えていないかもしれないけれど、一人で消えかけた私を拾い上げてくれたことに、とても感謝している。あなたが優しさをくれる度、私は痛いくらいに幸せだった」
側に歩み寄ってきた友人が、そっと木箱ごと手を包み込む。箱の表面に触れ掴むと、それまでぴたりと閉じていた蓋が音もなく持ち上がっていく。
「あ……」
開いた箱の中身を見て、思わず声が漏れた。
小さな、銀色の鳥。目を閉じて眠り続ける鳥の姿に、幼い頃を思い出す。
庭の隅で出会った鳥。傷だらけの翼は力なく垂れ下がり、もう二度と飛べないことを示しているようだった。
それでも目は強さを湛えて煌めきを失ってはいなかった。気高くて美しい、銀の鳥。思わず手を伸ばして、その体を抱き締めていた。
「受け入れてくれたから、私は今もここに在る。でも与えられる幸せの代わりにあなたが苦しむというのなら、私を手放してほしい」
目覚めた瞬間に忘れていた夢の内容が、はっきりと思い浮かぶ。
一日に一回、鳥のために螺子を巻く。あの日、自分の中に入り込んで一つになった機械仕掛けの鳥は、螺子を巻かなければ生きてはいけなかった。
それを負担に思ったことはない。こうしてすべて思い出して忘れていたもどかしさが消えた途端、感じていた疲労感が嘘のようになくなっていた。
まるで翼が生えたように体が軽い。単純な自分自身に苦笑しながら、目の前の友人を見つめ首を振った。
「一緒がいい。でももう一度空を飛びたいのなら、この箱から飛び立ってもいいよ」
心からそう思っている。しかしそれが彼女を空から遠ざけているのではと思うと不安だった。
箱の中の鳥は、大きさこそ大分小さくなってしまったが、傷はすべて癒えているように見える。これなら飛び立つこともできるはずだ。
「必要なら、いつだって螺子を巻いてあげる。だから無理にこんな狭い所にいなくても大丈夫だよ」
必要な時に戻ってくればいい。そう伝えるも、友人は困ったように笑うだけで手を離す様子はなかった。
「飛べないよ。もう二度と飛べない……空には何もないから、飛ぶ意味がない」
その声音はどこか寂しげだ。もう一度箱に蓋をする手には迷いは見られない。
「今まで色々な世界を見てきた。その時の私には何もなかったから、まだ知らない世界を知ることが何よりも心躍らせた」
ぴたりと、再び隙間なく箱が閉じられる。鳥の姿はもう見えない。ただ箱から伝わる温もりが、確かにここにいるのだと伝えている。
「あなたを知って、今更新しい世界を一人で知ったとしても心は動かない。だからどうか、あなたが許してくれるのならば側にいさせて」
願う言葉に、静かに頷いて目を閉じた。
手の中の木箱の感覚が消えていく。代わりに強くなる自分の鼓動と、包まれる少しだけ低い体温にそっと息を吐いた。
「My heart beats for you……あの日からずっと、私はあなたのもの。あなたが望む限り、螺子を巻いてくれる限り側にいるわ」
「うん……ずっと一緒……」
あの日のように、腕を伸ばして彼女を抱きしめた。
自分だけの特別な友人。伝わる鼓動は、自分から聞こえるそれと寸分違わず同じ鼓動を刻んでいる。
起きたらまた、たくさん話をしよう。
目が覚めた時のことを思い、笑みが浮かぶ。意識が浮かび上がっていくのを感じながら、しがみつくように温もりに擦り寄った。
20260327 『My Heart』
青空に飛行機雲の白の線が引かれていく。
手を伸ばしても届かない高さ。翼を広げてどこまでも自由に飛ぶ飛行機を操縦する彼の姿を思い浮かべ、思わず目を伏せた。
羨ましいと思ってしまう。自分とは違い、彼はどんな世界にいても堂々としている。彼のような優秀さが少しでも自分にあれば、隣に立つことも怖くないというのに。
溜息を吐いて草原に寝転がる。目の前に広がる空は、やはり自分には遠い。
春の陽気が風に乗って辺りを駆け回り、穏やかな眠りを誘っている。それに身を委ねようとして、ふと彼女のことを思い出した。
「約束、してたんだっけ……」
正確には、彼女が勝手に約束をして去っていくだけなのだが。
「毎日来るけど、一体誰なんだろう?」
彼女について、自分は何も知らない。彼女という呼称すら正しいのかも分からない。
女性のような恰好をして、女性のような言葉遣いをしているからそうなのだろうと思っているが、背が高く自身に満ち溢れて煌めく目は男の人のようにも見える。
そもそも人なのかも怪しい。夕暮れに伸びる影が、時折獣の形を取るのを何度か見たことがあった。
いつの間にか隣にいて、他愛もない話をして去っていく彼女。またね、という約束を残して、次の日になると隣にいる。
彼女との関係はいつから始まったのかも覚えていない。分からないことばかりなのは、化かされているからなのだろうか。
この辺りではよくあることだ。都会とここでは、時間の流れ方が違う。神秘を否定し解体しようとする人は誰一人おらず、今でもあちらこちらに不思議なモノが漂っているのだ。
そんなことを考えながら、何気なく空に向けて手を伸ばした。
届かない空。届かない彼。自分にはないものを求めてしまう。
「随分と情けない顔をしているわね」
伸ばした手を取り、彼女が呆れたように呟いた。
顔を覗き込むその目が楽しげに弧を描く。まるで月のように煌めいていて、とても綺麗だった。
「きれい……いいなぁ……」
「あら、今日は欲しがりさんなのね。アタシを欲しがるのはいいけれど、空を羨むのはおやめなさい」
どうしてだろうか。首を傾げて彼女を見つめた。
「翼のないあなたにとって、空は自由ではないからよ。誰かに愛でられるだけの日々なんて、まったくもってつまらないでしょう?」
そういうものだろうか。目を瞬き、想像してみる。
飛べない自分は、翼を持つ彼の側にいるしかない。彼が望む時に望む場所へ一緒に行き、そこに自分の意思は伴わない。
確かにそれはつまらないだろう。思わず眉を寄せれば、彼女はふふ、と微笑んだ。
手を離され、けれど代わりに頭を彼女の膝に乗せられる。それに何かを言おうとして、何も思いつかず彼女の好きにさせる。何を言っても無駄なのは、いつものことだった。
「あなたは地に足をつけて生きなさい。ないものねだりをするものではないわ」
ないものねだり。確かにそうだ。
彼の翼も、彼女の目も、自分にはないからこそ欲しくなる。手に入れた瞬間に色褪せて、自分はきっとすぐに興味をなくしてしまうのだろう。
不意に風が花の香りを運んできた。温かな日差しと相まって、段々と瞼が重くなっていく。
春だからなのか、最近はすぐに眠くなってしまう。特にこうして彼女の側で頭を撫でられていると途端に意識が微睡んでいく。
「少し眠って、余計なものは忘れてしまいなさい。起きるまではこうしていてあげるから」
優しい声音。起きなくてはという意志すら絡めとって、意識が深く沈み込んでいく。
諦めて、体の力を抜いて、静かに目を閉じる。
視界から彼女と青空が消える直前。飛行機雲の筋を空に描きながら、白い翼を広げてこちらに降りてきている彼を見た気がした。
寝入ってしまった少女の頭を撫でながら、狐はふっと息を吐いた。
吐息は青白い焔となり、落ちてくる鳥に向かっていった。
触れた瞬間に、鳥の体は一瞬で焔に包まれる。巨大な青の焔と化した鳥は為す術なく地面に叩きつけられるかに見えた。だが地面に降り立つ瞬間焔は跡形もなく消え、後には真白い翼を持った鳥が静かにその場に佇んでいた。
「酷いことをする」
低い声が恨めし気に狐を批判する。それを鼻で笑い、狐は鳥から隠すように少女の体を抱き寄せた。
「この子を連れて行こうとするからよ。気を引くために、変な記憶を植え付けないでちょうだい」
「独り占めしようとする貴様も変わらないだろう」
鳥の言葉に、狐は心底不快そうに鼻を鳴らした。狐の感情と呼応するかのように、周囲をいくつもの焔が漂い出す。
「この子をもの扱いするのは止めてくれるかしら?そういうないものねだりをする妖に限って、手に入れた途端に飽きて捨てるのよね」
今度は鳥が不機嫌そうに翼を広げた。威嚇するように低い声を出し、怒りを露にする。
「私をあんな軟弱な人間と一緒にするな。違和感なく側にいられるように姿と記憶を利用しているが、それだけだ。叶うのならば今すぐにでも八つ裂きにしてやりたいほどだというのに」
忌々しいとばかりに鳥は羽を震わせる。言葉にこそ出さなかったが、狐も同じように思っていた。
少女に傷をつけた人間。故郷を離れ、不安な日々を過ごしていた彼女に気まぐれに優しさを振りまき、懐いた瞬間に手を離した憎い男。この地に古くから住み、そして彼女を知るモノらは、皆同じように思っていることだろう。
「三月経つが、悲しみは癒える気配はない。少しずつ記憶をすり替え認識を変えてはいるものの、未だに一人で泣いているのだ。何故貴様は我らの領域に引き込もうとしないのか」
口惜しいと鳴く鳥に同意するかのように、風が吹き抜けた。ざわざわと周囲の気配が揺れ、狐と鳥の会話を気にかけている。
「何故って……そんなの当然じゃない」
しかし狐は鳥の威嚇も、周囲の視線にも気にした様子はなく肩を竦めた。
少女の頭を撫で、周囲を見回す。呆れたように息を吐き、ゆっくりと口を開いた。
「この子はね、人間なのよ。刹那を必死で生きているの。可哀そうだと手を出したら、それこそあの人間と同じになってしまうわ」
ざわり、と気配が揺れた。
鳥の目が僅かに見開かれ、やがて静かに翼を折りたたむ。項垂れるその表情は、行き場のない悲しみに暮れているように見えた。
「アタシたちにないものを持つこの子に惹かれて、手を伸ばしたい衝動に駆られるのは理解できるわ。でも留まらなきゃ。アタシたちはそういう存在《モノ》なんだから」
遥か昔から人の望むまま、時に助け、時に化かしてきた狐は言外に告げる。
守ろうと鳥かごに閉じ込める行為は、ただの傲慢だ。
少女が手を伸ばし助けを求めた時に、その手を取ればいい。
誰もが何も言えず、辺りに沈黙が落ちる。
ただ一人、少女だけは何も知らずに、花の香りを孕んだ春の温もりに抱かれて眠っていた。
20260326 『ないものねだり』
好きじゃないのに
――別に、好きじゃない。
それは彼女の精一杯の強がりだったと、後になって知った。
生まれた時から一緒にいることが多かった彼女。互いの親が親友で、家族ぐるみでの付き合いが彼女との距離を近くさせていた。
例えるのならば、しっかりした妹のような存在。頼られるより頼ることの方が多かったせいか、彼女のことを強い人だと勝手に決めつけていた。
「はぁ……」
「何だよ。辛気臭ぇな」
ぱしん、と丸めた雑誌で友人に頭を叩かれた。
「痛い……」
「痛くしてねぇよ。何なら本の角でやってやろうか?」
ベッドに突っ伏したまま、顔だけを友人に向ける。抗議の視線は、しかし半眼になってマンガを構える友人には通用しなかった。
それも仕方がないことだ。何しろこのやりとりは、これで三回目になるのだから。
「何回も言ってるけどさ、うじうじしてるくらいなら会いに行けばいいだろ」
「簡単に言うなよ」
「幽霊屋敷が怖くて近づけませんってか。なっさけねぇな」
「――幽霊屋敷って言うな。あいつに失礼だろ」
ぼそぼそと反論すれば、友人は盛大に溜息を吐いた。適当にマンガを手に取り、読み始める。
繰り返したやり取りに、付き合うことすら面倒になったらしい。
それでも帰らずここにいてくれる優しさに、心の中だけで礼を告げる。毎回何かある度に付き合わせてしまっているが、それに対して文句を言われたことはない。面倒だという態度を隠されもしないが、話を聞いてくれるだけでもありがたかった。
枕に顔を埋め、溜息を吐き出す。友人にも呆れられながらも、まだ行動する勇気が出なかった。
彼女とは生まれた時からの付き合いだ。しかし、彼女の両親が仕事で海外に行ってしまってからは、以前のように常に一緒に遊ぶことは少なくなった。
両親も自分も、旅行や食事に誘うことは何度もあった。最初は誘われるがままだった彼女は、けれど次第に何かと理由をつけて断るようになっていた。
無理に付き合わせてしまう訳にもいかない。それに何も知らなかった幼い頃と違い、成長した自分たちが一緒にいるのも、落ち着かないのだろう。そう考えて誘う頻度が減り、いつしか前のように泊りがけで遊びに行くことも、家に誘って一緒に食事をすることもなくなってしまった。
他の友人たちと同じように、会えば話をして別れる。そんな前よりも軽い関係が続いて、彼女の家に遊びに行くこともなくなってしまった。
だから、という訳ではないが、離れている間に彼女の家にはある噂が付きまとうようになった。
――彼女の家は呪われている。化け物が住む家だ。
最初その話を聞いた時、何かの冗談かと気にも留めなかった。
どこかの家と間違えているのだろう。彼女の家には何度も行ったことがあるが、一度も恐ろしい体験をしたことなどなかった。
けれども話は消えることはなく、次第に彼女が心配になった。
彼女は今、家に一人きりだ。もし化け物が家にいたとしても、彼女を守ってくれる人は誰もいない。
そう思ったら居ても立っても居られず、以前のように彼女を家に誘うようになった。
しかしどんなに誘っても、彼女は頷いてくれなかった。昔好きだった料理やお菓子の話題を出しても、よく一緒に遊んだ場所の話をしても、視線を逸らして今は好きじゃないと答える。
ならば彼女の家に行けばいいと思うのだが、行くための理由が思いつかなかった。
「――なぁ」
「何だよ」
「どんな理由だったら、女の子の家に行けると思う?」
何も思いつかず、結局友人にアドバイスを求めた。
「――は?」
横目で見る彼はあからさまに眉を顰め、疲れたように息を吐き出し頭を振る。
マンガを置いてこちらに向き直る友人に合わせ、体を起こして彼の方へと向いた。
「そもそも何で、そいつの家に行きたがんだよ」
「そりゃあ、心配だから……もし本当に変な化け物がいたら、助けてやらないと」
友人の真っすぐな視線の強さに、思わずたじろぐ。それでも何とか答えると、彼はその答えを鼻で笑った。
不快に眉を寄せ、睨みつける。しかし友人はどこか馬鹿にしたように、唇の端を歪めて笑った。
「今更?つかず離れずの距離で、気が向いた時に声をかけるくらいだったくせに?」
「それは、だって……何に誘っても好きじゃないって言うから、無理に付き合わせることないって、そう思って」
「その好きじゃないって言葉を、深く考えたことはあんのか?」
指摘され、けれどどういう意味なのか分からなかった。
好きじゃないということは、文字通りの意味ではないのだろうか。好きじゃないのに付き合わせてしまうのは悪いと思っていたが、本当は違うということなのか。
戸惑う自分に、友人は呆れた目をする。鈍いな、とぼやきつつ、口を開く。
「家族ぐるみの付き合いがあるからって、少しは遠慮するもんだろ。それに自分の親はいないのに、お前の家族団らんを見せつけられたら、余計に寂しくなるんじゃねぇの」
「そんなの……言ってくれたら……」
「お前、言えるのかよ。毎回誘われるのは申し訳ないし、両親がいないのを実感して寂しくなるので遠慮しますって……余計に気を遣わせるだけだって分かってて、普通は言えないだろ」
何も言えず、俯いた。
そんなこと、言えるわけがない。彼女の性格を考えると、余計にだろう。
「好きじゃないって精一杯の強がりを真に受けて距離を置いてたんだ。このままそっとしとくのがいいんじゃねぇの」
確かに、今更元に戻るのは難しい。けれどこのまま離れていくのは嫌だった。
本当に嫌じゃないのなら、もっと一緒に色々なことがしたい。出かけたり、食事をしたり、遅くまで話していたかった。
「というかさ。今のままでも十分距離は近いだろ。何でいつも隣に張り付いてんだよ。普通は会話をするのに手を繋いだりしないもんだぞ」
友人の言葉をどこか遠くに聞きながら、彼女の家に行く予定を考える。
折角だから、何か手土産に持っていこう。最近できた洋菓子店のお菓子と、映画のチケットはどうだろうか。
「おい、話を聞け。何一人でにやにやしてんだ」
「なぁ、女の子が好きそうな映画って何だろうか」
「は?そりゃあ、そいつの好みもあるだろうけど、恋愛ものとかか?……って、まさかお前……」
友人の顔が引きつっているが、気にしてはいられなかった。
早く彼女に会いたい。少しでも長く側に居たかった。
この時、彼女とのこれからを想像し浮かれていた自分は、彼女の家で待ち受けている恐怖に気づくこともなかった。
一人きりで寂しかった彼女を支えていた人形。それが自分の最大の障害になるのだとは、今はまだ欠片も予想はできなかった。
20260325 『好きじゃないのに』
ぽつり。
冷たい滴が肩に落ち、首を傾げて空を見上げた。
薄い雲がかかる空は、それでも雨が降るほどではない青が広がっている。
天気雨だろうか。深く考えず、視線を下ろし歩き出す。
暦の上では春が来ているというのに相変わらず風は冷たくて、思わず身を縮めてしまう。
やはり上着を一枚持ってくるべきだった。そんな後悔をしながら、腕をさすりつつ足を速めた。
ぽつり。
冷たい滴が、手の甲に落ちた。
足を止めず見上げた空は、先程よりも雲が厚くなってきている気がする。
天気予報では一日晴れだと言っていたが、もしかしたら雨が降るのかもしれない。
生憎、予報を信じて傘は持ってきていない。溜息を吐き、天気を気にしながら進んで行く。
天気のせいか、朝よりも体が重い気がした。晴れか雨かで気分が変わるのは昔からだが、結局今もそれほど変わっていないことに我ながら呆れてしまう。
手にした紙袋が、かさりと音を立てた。はっとして袋に視線を落とし、苦笑する。
雨が降っても降らなくても、目的地はすぐそこだ。帰りに雨が降るようならば、傘を借りればいい。
そんなことを考えながら曲がり角を曲がる。目的地である幼馴染の家が見え、雨に降られる前に辿り着けたことに内心安堵した。
ぽたり。
冷たい滴が、頬を伝った。
空を見上げようとして、違和感に気づいた。
天気雨や通り雨だとして、一滴しか降らないのはおかしい。周囲の地面を見て、どこにも濡れた場所がないことに、さらに困惑する。
肩、手、頬。体が重く感じることも重なって、まるで自分の後ろに誰かがいて泣いているような幻覚が浮かんだ。
ただの気のせいだ。随分滑稽な想像だと笑いながら、何気なく後ろを振り返る。
何もない。あるはずがない。
そう、思っていた。
はずだった。
「いい加減、離れてくれないかな」
背中に張り付きぐすぐすと泣く幼馴染に、何度目かの溜息を吐いた。
「女……女の人、が……」
がたがたと震えながら、呻くように同じ言葉を彼は繰り返している。
呼び鈴を連打され、何事かと思ってドアを開けた瞬間の、彼の恐怖に歪んだ顔が浮かぶ。
何を見たのか、あるいは何に出会ってしまったのか。要領を得ない彼の断片的な言葉を拾い集めると、どうやら白い服を着た女性に会ったらしい。その時に何があったのか分からないが、今も離れない所からして相当怖い思いをしたのだろう。
「女の人が……」
「一応、私も女なんですけど」
聞こえてはいないと分かってはいるが、それでも不満が口をついて出る。
いくら幼い頃からの付き合いだとはいえ、ここまで意識されないのも悲しいものがあった。
「一体何を見たんだか」
肩に落ちる涙の冷たさに眉が寄る。泣き声は弱くなっていく。落ち着いたのではなく、泣き疲れたからだと分かった。。
「おん、な……の……人……」
段々と体にしがみついている腕の力が抜けていき、しばらくすると微かな寝息が聞こえてくる。
ようやく解放された。ほっと息を吐きながら、彼を起こさないように、そっと腕を外し固まった筋肉をほぐすように伸びをする。
「――着替えようかな」
肩に触れれば、まるでそこだけ雨に濡れたかのように濡れている。ちらりと彼に視線を向ければ、泣きながらも完全に寝入っているように見えた。
これなら、着替える間部屋を出ても問題なさそうだ。クローゼットから着替えを取り出し、音を立てないようにゆっくりとドアを開けて部屋を出る。
「疲れた……」
隣の部屋で着替えながら嘆息する。まだ午後を過ぎたばかりだというのに、強い疲労感に戻るのが億劫になる。
大切な用事があると言っていた。だからこうして待っていたのだが、結局要件を聞かずに終わってしまいそうだ。
何の話だったのだろうか。気にはなるけれども、聞かないままでいられたことを幸運だとも思う。
例えば、この距離の近さをおかしいと思うようになったとしたら。気になる人ができて、距離を置きたいと言われたら。
考えるだけで胸が苦しくなる。幼馴染の距離に甘えて何も言えないでいる自分が悪いというのに、どうしてと周りに原因を求めてなりふり構わず泣き叫びたくなる。
「バカみたい」
自嘲して、洗濯物を手に部屋を出る。当分は起きる様子はなかったが、早く彼の元へ戻りたかった。
ぽたり。
不意に洗濯物を持つ手が濡れる感覚がした。
視線を落とせば、小さな丸い滴。雨のようなそれに、後ろを振り返った。
「おひいさん、どうしたの?」
自分よりも背の高い、白装束を纏った人形。無表情ながら、はらはらと泣く彼女の頬に手を伸ばす。滴を拭い問いかけるが彼女は何も答えず、ただ腕を広げて抱きしめられた。
彼女の優しさに苦笑する。彼に用事があると伝えられてから落ち着かない自分を慰めてくれているのだろう。
「大丈夫だよ。いつものように勇気が出ないだけだから」
笑ってみせるものの、彼女の涙が晴れる様子はない。晴れない自分の悲しみを移して泣いているのだから当然かと、不甲斐ない自分に歯噛みした。
止まらない滴を拭いながら、五年前の川岸を思い出す。あの日もこうして彼女は自分の悲しみを引き受けて泣いてくれた。
形代として厄を引き受け、流されてきた彼女。動けないほど溜まった厄を抱えながら、それでも自分に手を伸ばしてくれた優しさに惹かれた。
こうして自由に動けるようになった今。けれど彼女はどこかに行くこともなく、寂しい自分の側にいてくれる。
きっと彼に気持ちをすべて伝えるまで、ここにいてくれるのだろう。
「私は大丈夫だから、心配しないで」
そう言いながらも、ぽたり、ぽたりと滴が頬を伝って落ちていく。彼女の涙ではない。
これは自分の涙だった。
「何だかここだけ雨が降っているみたい」
ところにより雨。
おどけてみせれば、彼女は優しく頭を撫でてくれた。
目を閉じて、深呼吸を繰り返す。
まだ雨は止まない。けれど無理矢理止めることはできる。
彼が起きてしまう前に、いつもの自分に戻らなければ。
もう少し。せめてちゃんと彼の目を見て気持ちを伝える勇気が出てくるまで。
「もうちょっとだけだから。ちゃんと伝えるから」
涙を拭い、今はまだ作った笑顔で、そう彼女に告げた。
20260324 『ところにより雨』