sairo

Open App

青空に飛行機雲の白の線が引かれていく。
手を伸ばしても届かない高さ。翼を広げてどこまでも自由に飛ぶ飛行機を操縦する彼の姿を思い浮かべ、思わず目を伏せた。
羨ましいと思ってしまう。自分とは違い、彼はどんな世界にいても堂々としている。彼のような優秀さが少しでも自分にあれば、隣に立つことも怖くないというのに。
溜息を吐いて草原に寝転がる。目の前に広がる空は、やはり自分には遠い。
春の陽気が風に乗って辺りを駆け回り、穏やかな眠りを誘っている。それに身を委ねようとして、ふと彼女のことを思い出した。

「約束、してたんだっけ……」

正確には、彼女が勝手に約束をして去っていくだけなのだが。

「毎日来るけど、一体誰なんだろう?」

彼女について、自分は何も知らない。彼女という呼称すら正しいのかも分からない。
女性のような恰好をして、女性のような言葉遣いをしているからそうなのだろうと思っているが、背が高く自身に満ち溢れて煌めく目は男の人のようにも見える。
そもそも人なのかも怪しい。夕暮れに伸びる影が、時折獣の形を取るのを何度か見たことがあった。
いつの間にか隣にいて、他愛もない話をして去っていく彼女。またね、という約束を残して、次の日になると隣にいる。
彼女との関係はいつから始まったのかも覚えていない。分からないことばかりなのは、化かされているからなのだろうか。
この辺りではよくあることだ。都会とここでは、時間の流れ方が違う。神秘を否定し解体しようとする人は誰一人おらず、今でもあちらこちらに不思議なモノが漂っているのだ。
そんなことを考えながら、何気なく空に向けて手を伸ばした。
届かない空。届かない彼。自分にはないものを求めてしまう。

「随分と情けない顔をしているわね」

伸ばした手を取り、彼女が呆れたように呟いた。
顔を覗き込むその目が楽しげに弧を描く。まるで月のように煌めいていて、とても綺麗だった。

「きれい……いいなぁ……」
「あら、今日は欲しがりさんなのね。アタシを欲しがるのはいいけれど、空を羨むのはおやめなさい」

どうしてだろうか。首を傾げて彼女を見つめた。

「翼のないあなたにとって、空は自由ではないからよ。誰かに愛でられるだけの日々なんて、まったくもってつまらないでしょう?」

そういうものだろうか。目を瞬き、想像してみる。
飛べない自分は、翼を持つ彼の側にいるしかない。彼が望む時に望む場所へ一緒に行き、そこに自分の意思は伴わない。
確かにそれはつまらないだろう。思わず眉を寄せれば、彼女はふふ、と微笑んだ。
手を離され、けれど代わりに頭を彼女の膝に乗せられる。それに何かを言おうとして、何も思いつかず彼女の好きにさせる。何を言っても無駄なのは、いつものことだった。

「あなたは地に足をつけて生きなさい。ないものねだりをするものではないわ」

ないものねだり。確かにそうだ。
彼の翼も、彼女の目も、自分にはないからこそ欲しくなる。手に入れた瞬間に色褪せて、自分はきっとすぐに興味をなくしてしまうのだろう。
不意に風が花の香りを運んできた。温かな日差しと相まって、段々と瞼が重くなっていく。
春だからなのか、最近はすぐに眠くなってしまう。特にこうして彼女の側で頭を撫でられていると途端に意識が微睡んでいく。

「少し眠って、余計なものは忘れてしまいなさい。起きるまではこうしていてあげるから」

優しい声音。起きなくてはという意志すら絡めとって、意識が深く沈み込んでいく。
諦めて、体の力を抜いて、静かに目を閉じる。
視界から彼女と青空が消える直前。飛行機雲の筋を空に描きながら、白い翼を広げてこちらに降りてきている彼を見た気がした。





寝入ってしまった少女の頭を撫でながら、狐はふっと息を吐いた。
吐息は青白い焔となり、落ちてくる鳥に向かっていった。
触れた瞬間に、鳥の体は一瞬で焔に包まれる。巨大な青の焔と化した鳥は為す術なく地面に叩きつけられるかに見えた。だが地面に降り立つ瞬間焔は跡形もなく消え、後には真白い翼を持った鳥が静かにその場に佇んでいた。

「酷いことをする」

低い声が恨めし気に狐を批判する。それを鼻で笑い、狐は鳥から隠すように少女の体を抱き寄せた。

「この子を連れて行こうとするからよ。気を引くために、変な記憶を植え付けないでちょうだい」
「独り占めしようとする貴様も変わらないだろう」

鳥の言葉に、狐は心底不快そうに鼻を鳴らした。狐の感情と呼応するかのように、周囲をいくつもの焔が漂い出す。

「この子をもの扱いするのは止めてくれるかしら?そういうないものねだりをする妖に限って、手に入れた途端に飽きて捨てるのよね」

今度は鳥が不機嫌そうに翼を広げた。威嚇するように低い声を出し、怒りを露にする。

「私をあんな軟弱な人間と一緒にするな。違和感なく側にいられるように姿と記憶を利用しているが、それだけだ。叶うのならば今すぐにでも八つ裂きにしてやりたいほどだというのに」

忌々しいとばかりに鳥は羽を震わせる。言葉にこそ出さなかったが、狐も同じように思っていた。
少女に傷をつけた人間。故郷を離れ、不安な日々を過ごしていた彼女に気まぐれに優しさを振りまき、懐いた瞬間に手を離した憎い男。この地に古くから住み、そして彼女を知るモノらは、皆同じように思っていることだろう。

「三月経つが、悲しみは癒える気配はない。少しずつ記憶をすり替え認識を変えてはいるものの、未だに一人で泣いているのだ。何故貴様は我らの領域に引き込もうとしないのか」

口惜しいと鳴く鳥に同意するかのように、風が吹き抜けた。ざわざわと周囲の気配が揺れ、狐と鳥の会話を気にかけている。

「何故って……そんなの当然じゃない」

しかし狐は鳥の威嚇も、周囲の視線にも気にした様子はなく肩を竦めた。
少女の頭を撫で、周囲を見回す。呆れたように息を吐き、ゆっくりと口を開いた。

「この子はね、人間なのよ。刹那を必死で生きているの。可哀そうだと手を出したら、それこそあの人間と同じになってしまうわ」

ざわり、と気配が揺れた。
鳥の目が僅かに見開かれ、やがて静かに翼を折りたたむ。項垂れるその表情は、行き場のない悲しみに暮れているように見えた。

「アタシたちにないものを持つこの子に惹かれて、手を伸ばしたい衝動に駆られるのは理解できるわ。でも留まらなきゃ。アタシたちはそういう存在《モノ》なんだから」

遥か昔から人の望むまま、時に助け、時に化かしてきた狐は言外に告げる。
守ろうと鳥かごに閉じ込める行為は、ただの傲慢だ。
少女が手を伸ばし助けを求めた時に、その手を取ればいい。

誰もが何も言えず、辺りに沈黙が落ちる。
ただ一人、少女だけは何も知らずに、花の香りを孕んだ春の温もりに抱かれて眠っていた。



20260326 『ないものねだり』

3/27/2026, 5:40:28 PM