sairo

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手の中に収まるほどの小さな木箱の表面を撫でる。
冷たさも温もりも感じない。指先に触れる木というよりも金属のような、あるいは磨き抜かれた骨のような、つるりとした感触に無意識に眉が寄った。
木箱の蓋は開かない。継ぎ目さえ分からないほどぴたりと閉じた箱には、唯一側面に小さな穴が開いていた。
螺子を巻くための穴だ。爪先で穴の縁をなぞり、首に下げている螺子を手に取る。いつものように穴に差し入れ、ゆっくりと巻き出した。

一日に一度、螺子を巻く。
生きていくために必要なこと。螺子を巻かなければ箱の中身が止まってしまうと、誰に教えられるでもなく理解していた。

――かちり、かちり。

螺子が巻かれていくにつれ、体が重くなっていくような感じを覚える。

――かちり、かち。

瞼が重い。目を閉じれば立っているのか、それとも横になっているのかも曖昧になっていく。

――とく、とくり。

手の中で、木箱が微かに振動する。仄かな熱が、手から全身に伝わってくる。
不意に木箱の感覚が消えた。どこに行ったのか、目を閉じている今確かめようもない。
木箱を失い、腕がだらりと垂れ下がる。体が重い。意識が沈んでいく。
底のない微睡みへと落ちていく感覚に身を委ねながら、また木箱の中身を確かめられなかったことを悔やんだ。



「顔色が良くない。今日は早めに帰って休んだ方がいいと思う」

そう言って友人は眉を寄せた。
額に手を当てられる。冷え性だとよく愚痴をこぼす彼女の冷えた手の心地良さに、目を細めた。
ほぅ、と吐息が溢れ落ちる。自分では大丈夫だと思っていたが、少しばかり熱があるのかもしれない。

「無理しないで。ほら、横になっていいから」

促されるままに横になれば、友人の膝に頭を乗せられた。彼女の長い銀の髪が光を反射して煌めくのを見つめていれば、次第に瞼が閉じていく。眠気はないが、髪を梳かれる感触に体の力が抜けていくのを感じた。

「隈ができてる。眠れてないの?」
「寝てはいると思うんだけどな。変な夢を見ている気がするから、それのせいかも」
「変な夢?」

不思議そうな声に、曖昧に笑って誤魔化した。
目が覚めれば忘れてしまうような、何の変哲もない夢。夢を見たという感覚さえなければ気づかないほどのそれを、どう説明すればいいのか分からない。
変な夢と言ったのは、それがおそらく同じ内容の夢だからだ。恐ろしい夢ではないと思うが、心臓が力強く鼓動しているのを感じて目が覚める。あまり気にしてはいなかったが、それが原因で疲れが出ているのかもしれなかった。
夢についてぼんやりと考えていると、髪を梳く彼女の手が離れ胸の上に触れた。
丁度心臓の真上。自分が触れている訳でもないのに、指先からとくとくと規則正しい鼓動を感じる。生きているから当たり前だというのに、何故かその鼓動はとても神秘的な音のように思えた。

「ちゃんと動いている」
「生きているから当然でしょ」
「でも重いでしょう?二人分だもの」

何を言っているのだろうか。二人分の意味が分からず、目を開けようと力を入れた。けれど瞼は重く、僅かにも震えない。
それだけ疲れているのか。困惑していると、強い眠気が押し寄せた。
逆らう間もなく、意識が深く沈み込んでいく。とくとくと、止まらない鼓動が体中から伝わってくるようだった。



手の中で震える何かを感じて目を開けた。
小さな木箱。仄かな温もりが、規則正しい振動と共に伝わってくる。
まだ螺子を巻く必要はない。理由は分からないがそう思った。

「負担になるなら、手放してもいいんだよ」

顔を上げれば、目の前に友人が立っていた。

「ここは?」

首を傾げて問いかければ、友人は少しだけ笑ったようだった。

「Deep in your/my heart……心の奥深くだよ」
「心……?」

抽象的な言葉にただ困惑する。
夢の中の世界ということだろうか。もう一度手の中の木箱に視線を落とし、その表面を撫でた。
つるりとした感触。側面に小さな穴が開いている以外は何もない。蓋の継ぎ目すら分からず、どうしてこれを箱だと認識しているのか自分でも不思議だった。

「もう覚えていないかもしれないけれど、一人で消えかけた私を拾い上げてくれたことに、とても感謝している。あなたが優しさをくれる度、私は痛いくらいに幸せだった」

側に歩み寄ってきた友人が、そっと木箱ごと手を包み込む。箱の表面に触れ掴むと、それまでぴたりと閉じていた蓋が音もなく持ち上がっていく。

「あ……」

開いた箱の中身を見て、思わず声が漏れた。
小さな、銀色の鳥。目を閉じて眠り続ける鳥の姿に、幼い頃を思い出す。
庭の隅で出会った鳥。傷だらけの翼は力なく垂れ下がり、もう二度と飛べないことを示しているようだった。
それでも目は強さを湛えて煌めきを失ってはいなかった。気高くて美しい、銀の鳥。思わず手を伸ばして、その体を抱き締めていた。

「受け入れてくれたから、私は今もここに在る。でも与えられる幸せの代わりにあなたが苦しむというのなら、私を手放してほしい」

目覚めた瞬間に忘れていた夢の内容が、はっきりと思い浮かぶ。
一日に一回、鳥のために螺子を巻く。あの日、自分の中に入り込んで一つになった機械仕掛けの鳥は、螺子を巻かなければ生きてはいけなかった。
それを負担に思ったことはない。こうしてすべて思い出して忘れていたもどかしさが消えた途端、感じていた疲労感が嘘のようになくなっていた。
まるで翼が生えたように体が軽い。単純な自分自身に苦笑しながら、目の前の友人を見つめ首を振った。

「一緒がいい。でももう一度空を飛びたいのなら、この箱から飛び立ってもいいよ」

心からそう思っている。しかしそれが彼女を空から遠ざけているのではと思うと不安だった。
箱の中の鳥は、大きさこそ大分小さくなってしまったが、傷はすべて癒えているように見える。これなら飛び立つこともできるはずだ。

「必要なら、いつだって螺子を巻いてあげる。だから無理にこんな狭い所にいなくても大丈夫だよ」

必要な時に戻ってくればいい。そう伝えるも、友人は困ったように笑うだけで手を離す様子はなかった。

「飛べないよ。もう二度と飛べない……空には何もないから、飛ぶ意味がない」

その声音はどこか寂しげだ。もう一度箱に蓋をする手には迷いは見られない。

「今まで色々な世界を見てきた。その時の私には何もなかったから、まだ知らない世界を知ることが何よりも心躍らせた」

ぴたりと、再び隙間なく箱が閉じられる。鳥の姿はもう見えない。ただ箱から伝わる温もりが、確かにここにいるのだと伝えている。

「あなたを知って、今更新しい世界を一人で知ったとしても心は動かない。だからどうか、あなたが許してくれるのならば側にいさせて」

願う言葉に、静かに頷いて目を閉じた。
手の中の木箱の感覚が消えていく。代わりに強くなる自分の鼓動と、包まれる少しだけ低い体温にそっと息を吐いた。

「My heart beats for you……あの日からずっと、私はあなたのもの。あなたが望む限り、螺子を巻いてくれる限り側にいるわ」
「うん……ずっと一緒……」

あの日のように、腕を伸ばして彼女を抱きしめた。
自分だけの特別な友人。伝わる鼓動は、自分から聞こえるそれと寸分違わず同じ鼓動を刻んでいる。

起きたらまた、たくさん話をしよう。
目が覚めた時のことを思い、笑みが浮かぶ。意識が浮かび上がっていくのを感じながら、しがみつくように温もりに擦り寄った。



20260327 『My Heart』

3/28/2026, 8:46:55 PM