「明日は、学校の花壇の花が咲くよ」
微睡む意識の中、声を聞いた。
誰の声かは分からない、穏やかな声。確かめようにも、意識は半分以上夢の中に沈んでしまっている。
今日も誰かは分からなかった。ただ言われた学校の花壇を記憶に留めながら、眠りに落ちていく。
次の朝。
目が覚めて、辺りを見回した。
誰もいないことを確認して、小さく息を吐いた。自分の部屋に誰もいないのは当たり前だというのに、それがどこか悔しい。
「一体、誰なんだろう」
いつからか聞こえてくるようになった不思議な声。眠りに落ちる寸前に聞こえるため、誰が言っているのかはまったく分からない。
昨夜のように花が咲くことを知らせることもあれば、水たまりができる、虹がかかるなど、とても些細なことを眠りに落ちる寸前に伝えられる。恐怖はない。ずっと隣で囁く声の正体が気になって、怖いと感じている暇などはなかった。
欠伸をかみ殺しながら、身支度を整えていく。
「学校の花壇……」
声が伝える出来事が外れたことは一度もない。だからきっと、花壇のチューリップが咲き始めたのだろう。
「本当に誰なんだか」
ぼやきながら、いつもより早く家を出る。
正体の分からない声に思う所はあるものの、植えたチューリップが咲いたのならば早く見に行きたかった。
その夜に聞こえた声は、いつもと違いどこか険しさが滲んでいた。
「人間の手が入った場所で山が崩れる。切り開かれたために、他より弱くなってしまった」
抽象的すぎて、どこを指しているのか分からなかった。けれど今までとは違い、良くない知らせだということだけは理解できた。
閉じた瞼をこじ開けようとするが、ほんの僅かすら開かない。焦る気持ちとは裏腹に睡魔が思考を鈍らせ、そのまま夢の中へと沈んでしまう。
揺れる感覚がして目を開けた時、夜の空を飛んでいた。
正確には、誰かの肩に乗っていた。山より高い彼は月明かりの下で山を動かし、掬った水で湖を作っていく。
その作業を見守りながら、何故かとても嬉しくなった。笑みが浮かび、彼に擦り寄る。
ふと目についた山の中腹を指さした。示した場所を彼が整え、開けた場所ができる。
――ここにしよう。
そう思った。彼も同じように思ったのか、穏やかな笑い声が降ってきた。
瞬きの間に、時が過ぎていく。
作った場所に人が訪れ、生活が始まる。時折薪として木を切り倒すことはあるものの、それは微々たるもので山は気にすることはない。
時が流れ、次第に変化が訪れる。
木を切り倒す量が増えた。生活する人の数が増え、さらに広い土地が必要になっていた。
山に動きはない。静かに人々の営みを見守っている。
そしてまた時が流れ、今度は麓で変化が訪れた。
木々を根こそぎ倒していく。人にとっては必要なことなのだろう。
けれど微かに山から悲鳴が聞こえ始めた。
恐ろしくて、彼にしがみつく。見ていることしかできないのが苦しい。山の悲鳴は次第に大きくなっていくのに、誰一人気づかないのが、ただ悲しい。
悲しみが雨となり、山に降り注ぐ。強い雨だった。染み込む水の重さに、山が叫びを上げている。
その声に気づいた人は、どれだけいたのだろうか。
叫ぶ声は山を崩し、麓の家を襲う。
咄嗟に目を閉じ、深く俯いた。最後まで見届ける勇気はなかった。
「ごめんなさい」
気づけば言葉が溢れていた。見ていることすらできなかった後悔が、痛みとなって押し寄せる。
痛くて苦しくて、紛らわせるように強く手を握り締めた。
「――花が咲くよ」
どれだけそうしていただろう。
不意に、彼がそっと囁いた。その声に促され顔を上げ、目を開ける。
指さす先の木々に白い花が咲いていた。
「お前の愛した花々は、何度でも咲き誇る」
優しい声が降る。
「山も、人間も同じだ……大丈夫」
彼が柔らかく微笑んだ。
その後ろ。気づけば東の空がほんのりと明るくなってきていた。
夜が明けるのだろう。そろそろ戻らなくてはいけない。
「大丈夫」
別れを惜しんで抱き着けば、彼は目を細めて囁く。
何度でも繰り返し告げる。
「私はいつも隣にいる。ずっと一緒だ」
今までも。そしてこれからも。
伝わる彼の思いに、そっと手を離した。
寂しさが恥ずかしさに変わる。このやりとりが初めてではないと思い出してしまった。
何度も繰り返してきた。彼の肩の上から大地に降りると決めたのは自分だというのに、寂しくなって彼の元に戻ってきてしまう。
「いつもありがとう……行ってきます」
頬が熱を持つのを感じながら、彼の肩から飛び降りる。
風を浴びながら眼下に見える家々を見下ろした。その中から今の自分の家を見つけ、降りていく。
意識が揺らぐ。叩きつけるような勢いの風が、次第に全身を柔らかく包み込んでいく。
そっと目を閉じた。落ちていく感覚が、浮かび上がる感覚に変化していく。
彼に見守られている気配を感じながら、ゆっくりと目を覚ました。
ぼんやりとテレビを眺めながら、食パンを齧る。
今日は朝から外が騒がしい。ちょうど今テレビに映っている映像が原因なのだろう。
大雨の影響で、昨夜遅くに麓の街で土砂崩れが起きたという。けれどいち早く山の異変に気付いた誰かが避難を呼びかけ、奇跡的に巻き込まれた人はいなかったようだ。
「なんか見た気がするなぁ」
既視感、というものなのだろうか。テレビを見ながら思い出そうとするが、どこで見たのか思い出せない。逆に段々と霞んで消えて、溜息を吐きテレビを消した。パンを牛乳で流し込み、立ち上がる。
昨夜聞いた声を思い出しながら急いで片づけを済ませ、出かける準備を整えていく。
学校の裏山にある木蓮の木に花が咲いたらしい。何年も花を咲かせなかった木に花が咲いたのだから、見に行かなければ。
「誰なんだろうなぁ」
夜に聞こえる不思議な声。誰の声か気にはなるが、きっと知らないままでも大丈夫だ。
「これからもずっと一緒にいてくれたらいいな」
そんなことを思いながら、玄関を出た。
風に乗って、ふわりと花の香りがする。温かな日差しに笑みが浮かぶ。
春が来ている。色鮮やかな花の咲き乱れる、一番好きな季節が訪れている。
今夜もきっと声は聞こえるのだろう。今からその声を楽しみに、跳ねるように駆け出した。
20260313 『ずっと隣で』
昔から、知りたいという欲は他の人よりも強かった。
知らないことを知る度、何でもできるような高揚感があった。それこそ世界を作ることすらできるような気がして、いつからか図書館に通い詰めることが日常になっていた。
その本を見つけたのは、ただの偶然だった。
普段は足を運ぶことのない、宗教学の本が並ぶ棚。背表紙を目で追いながら、ただぼんやりと歩いていた。
ふと、足が止まる。同じようなタイトルの並びに、明らかに異なるものが紛れ込んでいるのを見て、無意識に手が伸びていた。
重みのある古ぼけた本。黄ばんだ紙に手書きで書かれているのか、インクの滲む文字が並んでいる。
英語、だろうか。読めないアルファベットの文字に、途端に興味が掻き立てられた。
読書スペースまで戻る手間すら惜しみ、その場で本を開く。
無心で文字を追うものの、どのページも何と書いてあるのかは分からなかった。
眉を寄せ、肩を落とす。
文字が読めないことも悲しかったが、何より新しいことを知れなかったのが悔しかった。
例えば遠い国の伝統や風習。まだ見たことのない景色や知識など、尽きない好奇心が湧き上がり止まらない。文字を一撫でし、これが先日見た古城の話について書かれていたものだったのならと、想像してもう一度深く溜息を吐いた。
「――え?」
一瞬、文字が波打ったように見えた。
気のせいだったのだろうか。瞬きの間に文字は元に戻っており、指でこすってみても何も変わらない。
しかし何かが違う。
見た目には変わらない。では何が違うのかと、ページを捲りながら眉を寄せ考えた。
「――あれ?読める……」
もう一度最初から見直そうと、ページをめくった時だった。
ただの文字の羅列だったはずのページ。そこに書かれている内容が、すっと頭の中に入ってきた。
――城塞の成り立ちと役目。
文字が読めるようになった訳ではないのに、次々と内容がイメージとなって頭に浮かぶ。
恐怖はない。知りたいと思っていた本の内容が理解でき、そしてそれが気になっていた内容だったことから、この不可思議な現象に対して、高揚感すら感じていた。
ページを捲る手が速くなる。知りたい欲が膨れ上がり、だがその手はあるページで止まった。
文字が読めない。どうやら古城に関する話から離れて、別の内容が書かれているようだ。
何が書かれているのだろうか。読めない文字を追いながら、頭の片隅でふと別のことが思い浮かぶ。
この本は他の本と比べ、遥かに古いものだ。この本はどのようにして作られ、またどんな目的で書かれたのだろうか。
「――あ」
文字が揺らぐ。
読めなかったはずの文字の内容が、頭の中に入り込んでくる。
――我が断章の起こり。
流れ込んできたのは、とある誰かの記憶。
自身の持つ知識を少しでも多く残したいと、文字として書き記している。けれど伝えたいものは多すぎて、文字だけでは正確に伝えきることができない。
悩んで、誰かは決意する。文字として書き記しきれないのならば、いっそ自身が本となり、あるがままの知識を残そうと。
ぐらり、と視界が揺れる。記憶と共に膨大な知識が流れ込んできて、酷い目眩がした。
濁流のように中に入り込み、染み込んでいく。自分の中の知識と混ざり合い広がって、自分のものと本のものとの区別がつかなくなってくる。
「っ、いやだ……!」
気づけば、本を投げ出していた。どさり、という本にしては重い音。古い紙とインクの匂いが鼻をつく。
肩で息をして、数歩後ずさる。
今まで、知識が増えることに恐怖を抱いたことはなかった。それなのに、本から流れてきた知識が恐ろしくてたまらない。
これは良くないものだと、自分の中の何かが警鐘を鳴らしている。
「大丈夫ですか?」
さらに一歩下がった時、すぐ後ろから声がした。
「あぁ、驚かせてしまいましたか。すみません」
肩を大きく震わせ弾かれたように振り返る自分を見て、背後にいた誰かは気のない謝罪を口にする。
「だ、れ……?」
声を震わせ問うも、誰かは肩を竦めるだけで答える様子はない。
そのまま硬直する自分の横を通り過ぎて、投げ捨てた本を拾い上げた。
「踏み止まれてよかったですね」
高くもなく低くもない、特徴のない声が淡々と告げる。意味が分からず眉を寄せれば、感情の乗らない黒の眼がこちらを向いた。
声と同じく特徴のない顔。僅かに首を傾げ、浮かぶ疑問を見透かしたように口を開く。
「これを手放すのがあと少しでも遅かったら、そのまま喰われて新しい断章になってましたよ」
ひゅっと、息を呑み込んだ。
それは嘘でも、大げさな表現でもないのだろう。根拠はないが、確信はあった。
呆然としながら、視線は無意識に目の前の誰かから、その手にある本へと移る。瞬きすらも忘れて見つめていれば本の表紙が波打ち、苦悶に歪んだ人の顔を浮かばせた。
「えっ……?」
ほんの一瞬。瞬きと共に元の表紙に戻ってはいたが、その顔に見覚えがある気がした。
「あの、それ……」
「それでは失礼します……そろそろ閉館のようですし、気を付けて帰ってください」
だがそれ以上何かを言うのを拒むように誰かは一礼し、止める間もなく去っていく。
その姿が本棚の向こう側に消えて見えなくなり、そこで閉館時間を告げる音楽が流れていることに気づいた。
去っていった誰かを追って本棚の向こうを見るが、誰の姿もない。辺りを見回しても人の姿は見えず、困惑しながらも図書館を出るため歩き出した。
「夢……だった?」
家路につきながら考える。
思い返してみれば、夢だと思えるほどの出来事だった。
頭の中に入ってきた知識を何も覚えていないことも、さらに現実味を薄くしていた。
小さく息を吐く。
夢だとしてしまえば、数日もすれば忘れることができるのだろう。
けれども本当に忘れてしまってもいいのか。最後に一瞬だけ見えた本に浮かぶ人の顔を思い出す。
見覚えのある顔だ。こうして落ち着いて考えると、それが同じゼミの学生だったように思える。
自分と同じく、知識を得ることに対して貪欲だった男だ。得た知識を周りにひけらかすような、それでいて知識を得るための手間を惜しむような人物だった。
数日前から姿を見ていない。行方不明になっていると噂されていた。
「ただの白昼夢だ。現実なんかじゃない」
言い聞かせるように声に出す。浮かぶ可能性を必死に否定する。
人が本になることなどありえない。自分があの時もっと知りたいと本を求めていたとしたら同じ末路を辿っていたなど、考えたくもない。
どちらにしろ、もう二度とあの本には出合えない。
特徴のない声と顔。男か女かすら判別がつかなかった誰か。
すれ違ったとしても、きっと気づくことはできないだろう。
軽く頭を振り、足を速める。
知る必要のないことをいつまでも覚えていても意味がない。それよりももっと別の、まだ知らないことを知るために動くべきだ。
明日も図書館へ行こう。そのためにも今日は早めに休まなければ。
意識を切り替えれば、次第に今日のことが霞んでいく。
家に帰る頃にはただの夢として、薄れ消えてしまっていた。
20260312 『もっと知りたい』
三月。梅の花が咲き綻ぶ、温かな日差しが差し込む午後のこと。
黙祷を済ませて、一番奥の部屋へと向かう。主のいなくなった部屋は、今日も変わらず薄暗い。
空気が澱んでいる気がして窓を開けた。途端に感じるのは近くに咲く梅の花の香りではなく、潮の匂い。ざざ、ざざ、と寄せては返す波の音が鼓膜を震わせる。
窓の向こうに広がる海は、とても穏やかだ。
「また、一年経ったなぁ」
呟いて机に向かい、その上に置かれた古い腕時計を手に取った。秒針は動かず、針は二時五十九分で止まっている。
じっと見ていると、不意に秒針が震えた。長い眠りから目覚めたように震えながら数秒巻き戻り、そしてゆっくりと時を刻み出す。
かち、こち、と音が響く。一秒、また一秒と時が進んでいく。
そして、ぐるりと一周した後、秒針はまた最初のように動きを止めた。
「――やっぱり、今年も進まないかぁ」
秒針が一周しても、短針と長針は動かない。時間はいつまでも二時五十九分のままで、三時に進むことはない。
ほぅ、と息を吐いた。腕時計を一撫でして、机の上にそっと戻す。
「お父さん……」
呼びかけても、当然答えはない。
父の腕時計は沈黙したまま、父の書斎には自分以外誰もいない。
そもそも、父がどんな人なのかを自分は知らなかった。
周りはとても立派な人だったと言う。一人でも多く助けるため、最後まで声を上げて動いていたのだと誇らしげに語る。
けれど自分の中の父は、写真の中で穏やかに微笑む姿ばかりだ。
尊敬する人だと言われる度密かに困惑し、反発しそうになる。
立派だというのならば、何故自分たちを置いていったのか。母が今も一人で泣いていることに何も思わないのか。
決して口には出さない思い。母を困らせるつもりはなく、誰かに同情されたいわけでもなかった。
けれど、どうしても考えてしまう。
こうして一年に一度、たった一分間だけ動く、進まない時計の秒針を見ていると溢れてしまう。
「お父さんは、私より知らない子の方が大事だったのかな……」
物心つかない幼い自分を避難所に置いて、戻ってしまうくらいには。
それが父の仕事だったと、頭では理解している。
信頼しているからとはいえ、身重の母に自分を託していくのはとても心苦しかったのだとも想像できる。
けれど。
今日この日だけは駄目だった。母が仏間で泣いているように、自分も記憶にない過去に引きずられて沈んでしまう。
「駄目、だなぁ。もっとしっかりしないと……四月からは一人、なんだから」
もうすぐ、自分は慣れ親しんだここを離れ、遠くの街に進学する。
海の見えない場所。潮騒の代わりに喧騒が響く都会に出るのだ。
帰省することはあるだろう。しかしここで暮らすことは二度とないのだとも思う。
故郷が嫌いになったのではない。それだけははっきりと言える。
ただ、ここにいては、自分は先に進むことはできないと気づいた。
父の腕時計と同じだ。自分は一年かけて進んでいるつもりで、元の場所へと戻ってきてしまう。
「ごめんなさい……お母さんをよろしくね」
動かない腕時計に向け呟く。
来年からは、秒針が動くことを確認するために戻りはしない。今年が最後だと最初から決めていた。
不意に、強く風が吹き抜けた。
カーテンが大きく波打ち、陰影を作る。ざあざあと風と潮騒の音に合わせて揺れ動き、まるで踊っているように見えた。
「閉めないと……」
少しばかり見入ってしまい、慌てて窓へと手を伸ばす。しかしじゃれつくようにカーテンが腕にまとわりつき、思うように手が伸びない。
解こうとカーテンを掴めば、ふわりと広がり視界が真っ白に染まった。
海の匂いがする。それに混じり、仄かに梅の甘い香りがした。
「――っ」
その瞬間、目の前が白から青へと変わった。
雲一つない快晴。どこまでも続く草原を、風が自由に駆け抜けていく。
遠く、白い花をつけた木が目についた。離れているのにはっきりと香る甘い匂いが、あの木が梅の木だと告げている。
近づこうとして誰かがいることに気づいて足が止まる。背の高い男の人。こちらに背を向けているため、顔は見えない。
きゃあ、と楽しそうにはしゃぐ声が聞こえた。視線を向けると、男の人の所へと駆け寄る小さな影が見える。
「――あぁ」
思わず声が漏れた。
じわりと滲む視界の中、子供が駆け寄る勢いのまま男の人の足に抱き着いた。そのまま甘える子を抱き上げて、父が笑う。
こちらを振り向く父を遮るように、風が梅の花を散らして過ぎていく。
視界が再び白に染まり、咄嗟に目を閉じる。
「――あれ?」
次に目を開けた時、そこは外ではなく父の書斎の中だった。風の勢いを失い、力なく垂れるカーテンがするりと腕から離れていく。
目を瞬く。
一瞬だけ、夢を見ていた。梅の木と父に抱き上げられ笑う幼い自分。
「なんだ……覚えてるじゃん」
思わず声を上げて笑う。
今まで何もないと思っていた。自分にとって写真の中の父がすべてだった。
けれどたったひとつだけ残っている。
青空と梅の匂い。優しい笑顔と温もり。
平穏な何の変哲もない日常の一コマ。
思い出せなかったことが不思議なくらいだ。
手を伸ばして窓を閉める。乱暴に目元を拭うと、少しだけクリアになった視界で青空を見上げた。
「行ってきます。お父さん」
不格好な笑顔で、それでもはっきりと言葉にする。
父を忘れる訳ではない。故郷を捨てるつもりもない。
前に進むのに障害となってしまうものを、ここに置いていくだけだ。
「行ってきます」
繰り返して、部屋の外に出る。
かちこちと、自分の中で響く秒針の音に背を押され、力強く足を踏み出した。
20260311 『平穏な日常』
「平和だなぁ」
空を見上げながら呟いた。
昨日までの喧騒は聞こえない。張り詰めたような雰囲気もなく、しんと静まり返った室内は一見すれば平和と言えるのかもしれなかった。
「どうして皆、争いばかりするんだろ?」
最初はそれほど仲は悪くなかった。談笑し、時には協力し合っていたはずだった。
それなのに。
「どうして、変わっちゃったのかな」
今となっては疑問ばかりが浮かぶ。いつ、どこで変わってしまったのか。どんなに考えても分からなかった。
視線を下ろし、周囲をぐるりと見回した。誰もいなくなってしまったこの場所はとても冷たく、物寂しい影を落としている。
「一人は寂しい」
ぽつりと呟いた。言葉にして、余計に寂しくなって立ち上がる。
今度こそ。何度目かの決意をする。
ぐにゃりと足元の影が歪み、大きな鳥の形になっていく。
「今度は一気に連れてくるんじゃなくて、一人ずつにしようかな」
ゆっくりと仲良くなっていけば、争うこともなくなるはずだ。焦る必要はない。
何せ、時間はあるのだから。憎み、反抗する感情を一人ずつ取り除いて、増やしていけばいい。
「さて、どの子から連れてこようかな?」
影の鳥が大きく翼を広げた。ばさりと羽ばたいて、空高く飛んでいく。
――はずだった。
「いや、そんな軽いノリで子供たちを攫わないでほしいんだけど」
不意に呆れたような声がして、影の鳥は飛び立つことなく解けて消えてしまう。
代わりにその場にいたのは一人の少女。袖のない和服を着て、半眼でこちらを見つめていた。
「弟妹たちが騒ぐから見にきてみれば……あんたね、いくら寂しいからって、外から子供を攫ってくるのは駄目でしょうが」
「さらう……?」
首を傾げて少女を見る。
少し考えて、彼女の勘違いの原因に思い至る。
ここに来た時の様子しか知らなければ、そう見えてしまうのも無理はない。苦笑して、違うのだと首を振る。
「無理矢理じゃないよ。どこかに行きたい、消えたいって思ってる子たちを呼んでいるだけ」
今も聞こえる声に、目を細める。
いなくなりたい。ここから逃げ出したいと泣いているのに、一人は寂しいと動けないでいる。
だからなのか。ここに連れてきたばかりの子たちは皆喜んで、すぐに仲良くなっていた。時折、皆の輪に加わらず、少し離れた場所で過ごす子もいたが、誰もが心穏やかで笑顔に溢れていた。
それなのに。思い出して、無意識に眉が寄る。誰を連れてきても結末は必ず同じになることが、とても悲しくて堪らない。
「あんなに仲良くしていたのに、どうして段々互いを憎むようになるんだろう。喧嘩ばかりして、傷だらけになって、最後には嫌がっていた元の場所に戻りたがるのはどうしてなのかな」
「そんなの、当然じゃない」
「え……?」
迷いのない、はっきりとした言葉。
驚いて少女を見ると、いつの間にか少女の腕には無数の目が開いていた。
「逃げ出したいとか泣き言を言って動かないのは、ただ甘えているだけ。自分では何一つせず、誰かが目を向けて手を差し伸べてくれるのを待っているだけの軟弱者の集まりだったら、いつか破綻するのは目に見えているわ」
少女の腕の目が、皆同意するように瞬いた。
その中の一対がこちらに向けられた。真っすぐに射貫くような強さで見つめる目は、少女ととてもよく似ている。
弟妹と少女は言っていた。ならば、腕の目は彼女の弟妹のものなのだろうか。
食い入るように目を見返していれば、少女はあぁ、と小さく声を漏らし苦笑する。腕を掲げ、愛おしげに目を見つめた。
「あんたが連れてきたのは、まったくの他人だったんでしょ?なら余計に仲違いは起きるだろうね。私は弟妹とならいつまでも一緒にいられるけど、赤の他人と過ごすのは数日が限度。いくら仲良くなったって、愛情も信頼もない人間と四六時中過ごすなんてごめんだわ」
「……そうなの?」
よく、分からない。
「そうよ。私は弟妹のためなら何でもできた……姉だからっていう義務だけじゃない。小さい体で必死に私を支えようとしてくれる、愛情を感じたから頑張れたの」
ふふ、と少女は笑う。腕の目も笑っているかのように柔らかな眼差しを少女に向けている。
そこには確かに愛があるのだろう。少しだけそれを羨ましく思う。
「あぁ、そうだ」
ふと、少女が何かに気づいたかのように声を上げた。腕の目たちと見つめ合い、そしてこちらを見て告げる。
「そんなに寂しいのなら、あんたは私と来なさい」
「……え?」
「これも何かの縁だし、弟が新しく増えた所であんまり変わらないからね」
何を言われたのか、すぐに理解することができなかった。
何度か少女の言葉を繰り返す度、胸に痛みが走る。どんなに考えても、血の繋がりがない自分を弟にするという少女の言葉の意味が分からなかった。
「なんで……」
「だってほっとけないもの。皆も気になるようだしね……無理強いするつもりはないわ。決めるのはあんたよ」
「でも僕……弟じゃないのに……」
あぁ、と少女は頷き笑う。腕の目が少女を咎めるように睨み、彼女は慌ててごめんと頭を下げた。
「血の繋がりがなくても家族にはなれるわ。互いに信頼し、支え合い、愛そうとするなら、それは家族と変わらないでしょ?」
「……僕、あなたを支えられる?」
何をすれば支えることになるのかも分からないのに、彼女の弟になれるのだろうか。
ここへ連れてきた子たちのことが思い浮かぶ。こんな所に来なければと睨みつける、彼らの冷たい視線が不安を掻き立てる。
「大事なのは支えたいと思うか。信頼して愛すことができるかどうか。できるできないじゃなくて、行動するかしないかよ」
そう言われて、足が前に出た。少女の目の前で止まり、深々と頭を下げる。
「ふつつか者ですが……よろしくお願いします」
声を上げて笑われて、優しく頭を撫でられる。
差し出された手を握ると、途端に聞こえてきたのは楽しげな声たち。彼女の弟妹たちの声なのだろう。誰もが笑って受け入れてくれている。
泣きたくて仕方がなかった。ずっと求めていたものがここにある。
平和な世界。皆が笑い、争いなど一つもなく、幸せだといえるような温かさが欲しくて、与えたかった。
じわりと視界が滲み、自分の形が揺らぐ。握った手がするりと解け、小さな翼に戻ってしまう。
離れてしまうのが怖くて、必死に羽ばたいて少女の肩に止まった。囀り体を摺り寄せれば、また笑われ頭を撫でられる。
「さて、次はどこへ行こうか」
ゆっくりと歩き出す。行き先などはないのだろう。気の向く方へ、気ままに向かう。
行く先を決めない旅は、自由になった彼女たちにはとても似合っている。
楽しそうな囁き声。新参者の自分は末っ子で、皆が兄や姉と呼べ、と意気込んでいる。
「平和だねぇ」
空を見上げ、少女は穏やかに呟いた。
同じように空を見上げ、視線を下ろし辺りを見回す。
少女がいて、声が聞こえる。張りつめた空気はなく、あるのは春の陽気のような温かさだけ。
声は口を揃えて、平和だと囁いた。
それに合わせるように、ひときわ高く囀り歌った。
20260310 『愛と平和』
立ち止まり、一度だけ振り返る。
夕暮れでもないのに、影が長く伸びていた。まるで引き返そうとでもいうかのように、来た道を黒く染めていく。
「駄目だよ」
静かに告げれば、影は途端に動きを止める。しかしまだ迷いがあるのだろう。戻る気配は一向にない。
「駄目。それは置いていかなければならないものだ。過ぎ去ったものに手を伸ばすなんて意味のないことをしないで」
淡々とした無慈悲な言葉に、影は小さく震えた。
力なく項垂れながらも、最後に歩いてきた道の先へと腕を伸ばす。だがその手に触れるものはなく、やがて腕を下した影はゆっくりと元の大きさへと戻っていった。
「随分と酷い言葉。意味がないなんて、どうして言えるのかしら」
不意に声が聞こえた。
咎めるような響きを持ちながらも、柔らかな声音が鼓膜を揺する。
「別れは仕方のないこと。廃れるのもまた致し方ない……けれど過ぎ去った日々は決して意味がないものではないわ」
振り返れば、いつの間にか道の端に少女が佇んでいるのが見えた。
その腕には何かが抱えられている。湾曲した長方形の何か。白にも銀にも見える無数の糸は、まるでざんばらに切られた髪のように、風になびき揺れている。
黒く濡れた目が瞬いて、開いた口から言葉の代わりに旋律が溢れ落ちた。
聞いた覚えはないはずなのに懐かしさを感じるその音色。思わず眉を顰めた。
「いつまでも昔に縋っていることに意味はあるの?誰にも見向きもされない古いだけの音なんか、ただの雑音と変わらないよ」
「本当に?」
少女は微笑み、そっと腕の中のそれを撫でた。
物悲しい旋律が響く。壊れて現実には鳴らない琴が、泣くように歌っている。
音に惹かれ、元に戻ったはずの影が伸びていく。首を傾げ、歌う琴に触れようと手を伸ばす。
「駄目だよ」
咎めれば、影の動きは止まる。けれどもやはり、元には戻らずその場に佇んでいる。
迷っているようには見えなかった。見えない目が、見定めるかのようにこちらを向いている。そんな気がして落ち着かない。
「本当は戻りたいのね。でも諦めてしまっている。過ぎ去ってしまった日々には手が届かないと言い訳をして、顔を背けている……手を伸ばさなければ、届かないけれど傷つくこともないから」
「っ、煩い!」
気づけば声を荒げていた。
影が体を震わせている。だが少女は臆することなくこちらを見つめ、腕に抱かれた琴もまた、視線を逸らすことはなかった。
「知った口をきくな!何も知らないくせに。何も知ろうともしないくせにっ!」
酷く不快だった。無遠慮に内側に入り込み、上澄みだけを暴き立てる。そこに沈む思いを知ろうともしない独りよがりな行為に、怒りと侮蔑が込み上げる。
「もう、うんざりだ!これ以上構わないでくれ。そっとしておいてくれよ」
思いをすべて吐き出し、残るのは奥底に沈んだ悲しみだけだ。肩で息をしながら睨む視界の端がじわりと滲む。
どれだけ叫ぼうとも少女が変わらないことが、酷く苦しかった。
「――確かに、何も知らないわ」
ぽつりと、少女の静かな声が落ちる。
「あなたが私の痛みを知らないように。この子の嘆きを聞かないように」
琴が歌う。悲しげで、寂しげな旋律が身に染み込み、胸を締め付ける。
自分の悲しみよりも深く沈むそれは壊れたからか、それとも絶えてしまったからなのか。
「何も言わないのだから、知りようがないわ」
告げられた言葉が棘となって突き刺さり、思わず息を呑んでいた。
確かにそうだ。伝えようとしなければ、何一つ伝わらない。
理解して、急に恥ずかしくなった。さっきまでの自分が駄々をこねる子供と重なって、怒りや悲しみが萎んでいく。
「あ……えっと……」
何かを言わなければいけない気がした。けれど何を言えばいいのか分からずに、意味のない言葉だけが溢れていく。
そんな自分を馬鹿にするでもなく、少女は変わらず穏やかに告げた。
「戻れるわ」
不思議とその言葉に反発する気持ちはなかった。少女の腕の中で歌う壊れた琴が笑っているように見えたからなのかもしれない。
「過ぎ去った長い日々の中で絶えてしまったものでも、いつか誰かに目を向けられて手を伸ばしてもらえる時がくるもの。それにあなたには、気にかけてくれる人がいるでしょう?だから戻れるわ」
「気にかけてくれる、人……」
思い浮かぶのは、家族や友人たちの顔。
そういえば、と思い出す。
皆、待つと言ってくれた。協力は惜しまないと笑っていた。
「――もう一度、始めてみようか」
ぽつりと呟けば、少女は柔らかく微笑む。
あれだけ元に戻ることを拒んでいた影が、するすると戻ってくる。
その単純さに、自分の影ながら呆れて笑った。
「戻れるかは分からない。でも過ぎ去った日々に置き去りにしたものを、もう一度だけ拾いに行ってくるよ」
「頑張って。大丈夫、ちゃんと拾えるわ」
少女の言葉に背を押され、振り返り歩いてきた道を引き返す。
餞別なのか、琴の音色が聞こえた。どこか楽しげで、その旋律は壊れているとは思えないほど美しかった。
笑みが浮かぶ。足取りは軽く、あれだけ戻ることを怖がっていたのが嘘のように気分は爽やかだ。
「もう一度だけ……」
道の先に見える、小さな光。
その向こう側から微かに聞こえる、琴の音とは違う響きが聞こえている。
時に力強く、時に物悲しい弦の音。思わず走り出していた。
「大丈夫」
怖くはない。
あるのは、初めて音を鳴らした時の胸の高鳴り。過ぎ去った遠い過去に生きた人々を音と言葉で紡ぐ時のざわめき。
影が伸びる。待ちきれないとばかりに、光の中に飛び込んでいく。
「せっかちだなぁ」
たまらず声を上げて笑った。
声は出る。手の痛みや痺れは感じない。
手を伸ばせば、きっと置いて行った自分に届くのだろう。
「大丈夫」
繰り返して、速度を上げる。
影のように、迷わず光の中へと飛び込んだ。
20260309 『過ぎ去った日々』